2
「へー、うたはそんなに歌が上手いのか。すげえなあ」
町の音楽教室が合同で開いた歌のコンクールの小学生部門でうたが優勝したことを話すと、弟は夕食をほおばりながら、うれしそうにうなずいた。弟は高校の学年主任になり、だいぶ忙しくはなったのだが、それでもあたしとうたが夕食を終えるころには帰宅してくれて、うたをお風呂に入れてくれる。弟が実の父ではないことは、早くもうたにはもう話してある。これは弟の教育方針というか、人生訓みたいなものだった。「きょうだいで愛し合っていることはおかしいことではないのだから、僕らは胸を張って、正直であるべきだ」と、まあ弟らしいなと思う。個人的にはちょっと呆れもするし、全面的に同意しているわけではないのだが、話し合いを経た結果、うたにはあたしから伝えることになった。うたは「知ってたよ」と言って、あたしは「へ?」と間抜けな声を出してしまった。うたは、「だってお父さん、うたにすごく優しいもん。友だちのお父さんよりも、ずっとずっと優しいもん。だからうた、お父さんはお父さんなんじゃなくて、ずっと特別な存在なんだと思ってた」と言い、この子はなんて賢いんだろうと思った。うたはそのあと、「でもできればうた、お父さんのこと、お父さんだと思いたいな。そう思ってもいい? お父さんのこと、お父さんって呼んでもいい?」とあたしに尋ね、あたしは彼女を抱きしめて頭をなんども撫でた。それ以降、うたはあいかわらず弟になついていて、お風呂にはいっしょに入るし、夜もかならず弟が添い寝することを求める。まあ思春期になったらどうなるか分からないけど、いま考えても仕方ないことではあるし、少なくともいまは、幸せだ。
弟がうたを寝かしつけたあと、あたしは弟の夕食を見守りながらおしゃべりをする。一日のうちの一番大切な時間だ。
「うん、あたしもこんなに上手くなるとは思わなくてさ。ちょっとびっくりして。先生も、早くもっと専門的なスクールに通ったほうがいいとまで言ってくれて。戸惑ってるんだよね。どうしたらいいかな?」
あたしはほうじ茶の入った湯呑みを両手で携えたままそう尋ねた。弟はロールキャベツを箸で崩しながら、しばし黙り込んだあと、
「いい方法がある」
とつよい口調で言った。
「なになに?」
あたしは身を乗り出して尋ねる。弟はいつもうたのことを真剣に考えてくれて、あたしが相談すると当を得たアドバイスをくれる。うたがここまですくすく成長してくれたのは、間違いなく弟のおかげだ。
「ほら、五年ぐらい前に姉ちゃんが出てたあのオーディション、いまも続いてるじゃん」
弟がいわくありげに言った言葉の意味がしばらく分からず、目をしろくろさせた。考えて、ようやくそれが「ミスAV」のことだと思い出し、
「あー、あったねそれ。やばいね、あたしの黒歴史じゃん。いやいやないない。あれはたしかに年齢制限ないけど『処女ではないこと』って条件あるしさ。うたは、ふつうに出られないよ」
と、当時を思い出して恥ずかしさのあまりテーブルを叩きながら、わらって言った。いま思えば、あのころのあたしはだいぶ大胆だったなと思う。でも、あの挑戦があったからこそ、いまのあたしはすごく落ち着いてるし、すごく幸せだ。
「うん、それがね。今年から別部門ができるみたいよ。『ミスMV』って言って、こっちは音楽に特化したオーディションみたい。基本的にはYouTuberのための企画らしいけど、まあ『ミスAV』と同じで最初は動画選考だし、歌が上手ければチャンスはあるんじゃないかな。応募条件は『(心が)女性であること』『未婚であること』のふたつだけで、年齢制限はない。あ、でも未成年はたしか親の同意がいったと思うけどね」
弟はたんたんとそれを教えてくれた。弟の箸がしぜんな仕草でたくわんを掴む。それを口に放り込んだあと、弟は言った。
「審査員に、セイコがいるよ」
たくわんをかみしめる音が、ぽり、と鳴る。
あたしにとって、もはやセイコは特別な存在ではなかった。本屋では音楽に力をいれているし、売れ線であるセイコのCDやDVDはあたりまえに並べ、店内で流すこともある。大学生になってもかわらずセイコが好きな優花ちゃんともふつうにセイコの話ができる。たとえばあたしはあたしのうたを、いまさらセイコに聴かせたいとも思わない。そこになんの意味があるとも思えない。だとしたら、弟はあたしにいったいなにを伝えたいのか。
「知ってた? うたね、ときどき、セイコのCDを聴いてるんだよ。姉ちゃんの部屋のCDケースのいちばん隅っこにある、いちばん古いやつ」
弟が教えてくれたことを聞いて、あたしの身体がぶるっと震えた。そのことはあたしは、知らなかった。あたしはふだんから音楽に触れる機会が多いため、部屋にお気に入りの音楽をたくさん並べている。うたが勝手にCDを取り出して聴いていることは知っていた。でもまさか、彼女がセイコの曲を選ぶとは思わなかった。それもいちばん古い、あたしが初めて高円寺で買った、あの安っぽいデモCDを。そうか、うたもまたあの「新宿」に魅入られたのか。
「姉ちゃんが『ミスAV』に出て、セイコに審査してもらって、姉ちゃんはきっと満足したんだと思う。あのあとの姉ちゃんを見て、僕は姉ちゃんをもっと好きになった。でも、姉ちゃんが満足して、それだけでいいのかな? うたもまた、セイコに出会う、その権利があるんじゃないかな」
弟が使った「権利」という言葉が不思議と頭に残った。弟ははっきりとは言わなかったが、あたしにはこんなふうに聞こえた。
『うたもまた、父親に出会う、その権利があるんじゃないかな』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます