3

 日曜日はよく晴れた。絶好の撮影日和だった。本屋はふつうは日曜も開けているのだが、今週末はきゅうきょ休みの張り紙を出しておいた。久しぶりに家族で過ごす週末だった。あたしは朝早くに起きてお弁当をこしらえた。うたの衣装は発表会用のものを弟が着せて、髪型もかわいらしいポニーテールに整えてくれた。お弁当とうたの準備が落ち着いたあと、車に乗って出発した。行き先は浜辺だった。その近くにはうちの実家があったため、ずっと避けていた場所だった。でも子どものころはよく弟と潮干狩りをしたし、相撲もしたし、喧嘩もしたし、あたしたちがずっと馴染んできた場所だった。だからうたの歌を撮るなら、その場所しかないと思った。

 とっくに海水浴のシーズンは終わってるので、ひろい駐車場にほかの車はいなかった。弟は浜辺にいちばん近い駐車スペースに車を停めた。停めてすぐ、うたが車を飛び出した。

「わーっ」

 伸びやかなうたの歓声が浜辺に響き渡る。うたはコンクリートの階段を飛び降りると、波打ち際に向かって一目散に駆けていった。もっと早くこの景色を見せておけばよかったかな、と申し訳なくも思った。

「こらー。あとで撮影するんだろ。服が汚れるから、あんまり暴れるのはよしなさい」

 弟が浜辺を走っていき、波とたわむれているうたを抱き上げた。あたしはスマホを取り出し、その写真を撮った。

 あたしたちは岸壁に並んで腰かけ、ちょっと早めの昼ご飯を食べた。うたも弟もあたしもたこさんウィンナーが好きなので、取り合いというか、かるい喧嘩になった。こんなところが家族だなあ、とうれしくなる。うたは半分も食べないうちにおなかがいっぱいになり、弟のひざに頭をあずけて眠ってしまった。その姿も写真に収めた。弟がてれくさそうに笑った。その表情がかわいくて、あたしは弟にキスをした。

 ぱかぱか音を立ててスーパーカブが駐車場に滑り込んできた。あんまり若い女の子は乗らないような、軍用機みたいな渋い緑色のカブだ。大学生に入ってすぐに彼女はそのカブを購入し、すごい安かった、と胸を張っていた。ただメーターを弄られて状態はだいぶ悪かったみたいで、しょっちゅう整備する必要があったみたいけれど、彼女はそれも含めて楽しんでるようだった。

「さっちゃーん、お待たせ―!」

 うちの車のすぐそばにカブを停め、優花ちゃんは駆け寄ってきた。背中には大きなリュックを背負っている。

「優花ちゃん、今日はありがとう!」

 弟がわらって彼女を出迎えた。優花ちゃんはほがらかだった表情をきゅうに堅くし、

「ああ……どうも……」

 とちいさい声で言った。頬がわかりやすく赤く染まっている。あたしにはっきり言ったことはないのだけれど、優花ちゃんはたぶん、弟のことが好きなのだろうと思う。あたしと弟は結婚しているわけではないので、そのへんは微妙な関係だ。あたしと弟が夫婦ではないと優花ちゃんに伝えたとき、優花ちゃんはずいぶん思い詰めたような表情をしていた記憶がある。夫婦ってことにしておけばあっさり諦めただろうに、あたしは優花ちゃんにだいたいのことを話してはいるけれど、ちょっとその点では配慮が足りなかったかもしれない。

 優花ちゃんはリュックサックを背中から降ろし、機材を出して設営を始めた。優花ちゃんはいま車で一時間ぐらいのところにある国立大学に通っていて、そこの映画同好会に所属しているそうだ。彼女はけっきょく高校に行くことはなかったが、とにかく大検に合格し、見事国立大学への進学を勝ち取った。すごく勉強したんだろうなと思うし、じっさいにその姿を間近で見てきた。彼女のおかげで、いまうちの本屋には受験対策の本が充実しており、それはあたしの誇りのうちのひとつだ。合格を知ると、彼女はまっさきにあたしに報告してくれた。いまは大学で友だちもできて、楽しいキャンパスライフを満喫している。

 ビデオカメラの設置が整ったころ、うたが起きてきた。うたは優花ちゃんを見つけると、にっこり微笑んで彼女に抱きついた。優花ちゃんはうたの頬にキスをして、うたは優花ちゃんの頬にキスをする。ちょっと嫉妬するぐらいの、仲のよいふたりの光景。それも写真に収めると、今日いちばんかわいらしい一枚になった。

「じゃあ、そろそろ撮影しようか」

 弟がそう声をかけた。うたが一気に身体を強張らせる。

「いやいや、そんなに緊張しなくても。うた、いつも発表会でも、ぜんぜん堂々としてるじゃん」

 あたしが笑いながら、うたの頭をそっと撫でると、うたは瞳をにじませ、

「だって、発表会だと、知らないひとしかいないもん。うた、こんなふうに、大事なひとのまえでだけ歌ったこと、一度もないもん」

 と訴えた。

 あたしはうたを抱きしめた。あたしも弟も仕事が忙しかったので、そろって発表会に行けたことはあんまりない。いつも代わりに優花ちゃんが行ってくれた。たぶんうたにとって、あたしも、弟も、優花ちゃんも、すごく大事なひとだと思ってくれてるんだろうと思う。そのことがすごくうれしくて、やっぱり申し訳なかった。

 優花ちゃんが野外アンプから音楽を流してくれて、カメラも回っていたが、うたはあたしに抱きついたままで、歌おうとはしなかった。

「うーん、どうしよう。困ったなあ」

 弟が頭に手をやってめずらしく本当に困ったような表情を見せる。

「いいんじゃない?」

 あたしはうたを抱きしめたまま、そんなことを言った。

「あたしいま、すごく幸せだよ。君がいて、うたがいて、優花ちゃんがいて、すごくすごく幸せだよ。『ミスMV』がなかったら、こんな時間は作れなかったと思う。たしかにこの時間は記録には残らないけど、あたしはずっと覚えてるよ。うたが歌えなかった、この特別な時間のことを、あたしはずっとずっと覚えてるよ」

 あたしがそう言うと、うたはあたしから身体を離し、はっとしたような表情を見せた。うたはもうこんなふうに大人びた表情をするのだということに驚いた。

「あのさ、私、ギター弾いてもいいかな?」

 ふいに優花ちゃんが手をあげてその提案をした。

「ちょっといま、練習してるんだ。ぜんぜん下手だけど、いちおう『新宿』ならコード進行かんたんだから、最後まで弾けるし。やっぱりほら、音源よりも、生音のほうが、うたもノレるじゃん? いいよね、ちょうどギター持ってきてるから」

 優花ちゃんはそう言い、カブまで走って戻ると、ギターを抱えて帰ってきた。ソフトケースから取り出したのは、いかにも安っぽいギターだった。じゃーん、と音を鳴らすと、ぜんぜんチューニングがあってなくて笑った。あのときのセイコのギターと同じだった。

「あんたもなにかやりなよ?」

 あたしは弟のシャツの裾をひっぱり、そう持ちかけた。

「え、いやいや、楽器なんか他にないじゃん?」

 弟はあわてて首を横に振る。

「リズム取るとかならできるでしょ。ほら、手拍子とかでいいから」

 あたしは強い口調でそう促した。

「いやいやいや、無理だし」

 弟はしきりに固辞した。まあたしかに弟は音痴だし、リズム感ないし、絶望的に音楽センスがないので、嫌だというのは分かる。でもね、もうそんなの、許されないんだよ。

 あたしは弟の両頬をばあんと叩き、彼の目を正面から見据え、はっきりと言った。

「ここまで来といて、なにいってんの? 優花ちゃんがギター弾いてくれるんだよ? うたが歌をうたうんだよ? あたしもうたうよ? ここまで来て、いまさらそれはないでしょ。家族でしょ、あたしたち。世界でたったひとつの」

 それからあたしは必殺の一言をいってやった。

「愛してるよ」

 そんなこと、言ったことはなかった。いつか言ってやりたいと思っていた。弟がいちばん堪えるような、そのタイミングで。それがいまだと思った。

 弟は観念したように、うたのそばに並んで立った。

 あたしは今度はうたの顔を正面から見据え、こう言った。

「この歌はね、世界で一番大切なひとが聴いてくれるんだよ。この歌はね、うたのお父さんが聴いてくれるんだよ。だから、うたいなさい。下手くそでいいから。でたらめでいいから。世界で一番の、うただけがうたえる大切なうたを、大切なひとに届けなさい」

 あたしはうたを自由に大らかに育ててきた。彼女が望むようにさせてきた。あたしが彼女に何かを強いたことは一度もなかった。このときの、たった一度を除いて。

 うたは分かったのか、分かってないのか、しかし大きく頷いた。

 あたしと、うたと、優花ちゃんが並ぶ。弟がビデオカメラに走っていって、録画ボタンを押した。赤色が点灯したあと、弟は走って戻ってきた。あたしはカメラに向かい、おおきな声でうたった。

「きゃーりぃ、ぱみゅーぱみゅー」

 追ってうたが歌を合わせてくれる。優花ちゃんがギターを弾いてくれる。弟が手拍子をしてくれる。ほんとうに、めちゃくちゃだった。上手いのはうたの歌だけで、優花ちゃんのギターは下手くそだし、弟の手拍子はでたらめだし、あたしの歌もまあたいがいだし、ひどかった。そもそも、オーディションに出るのはうただけなのに、家族で撮影するというのがおもいきり間違ってる。それでよかった。あたしが生まれ育った浜辺で、間違ってる「新宿」を、あたしたちは歌った。力のかぎり響かせた。あたしたちの愛した、音楽に届くように。

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