8

 十七時前にはマクドナルドを出て、早足で「ピンクセトラ」だった店に急いだ。そこが「ピンクセトラ」だったころ、あたしはそこにセイコを呼ぶのが夢だった。いまはそうじゃない。でも、セイコがそこでライブすることは、あのころのあたしの夢を踏みにじられてると思った。セイコに賭けたあたしの半生をすべて馬鹿にされてると思った。たしかに、いまは幸せだ。でもあのころも、幸せじゃなかったわけじゃないよ。あたしは、セイコが好きだった。たぶん、新宿と同じぐらい。

「うそ……」

 店のまえにたどり着いて、あたしは呆然とした。すでに店は開いていて、お客さんでぎゅうぎゅうに埋まり、道にもはみ出して交通整理が行われていた。シークレットライブとはいっても、店員さんの口は軽かったし、いろんなところから情報が漏れるのが高円寺という町だ。人があふれた結果、早めに店を開いたのだろう。それは分かる。でも、割り切れなかった。高円寺という町ですらあたしを邪魔するというのか。このままではセイコに会えない。人を割ってむりやり店内に入ることも考えたけれど、隙間なく人で埋められていたし、すでに口汚い小競り合いのようなものが始まっていた。

 誰も助けてくれない。そう思ったとき、もはやあたしの頭に浮かんだのは「死ぬこと」しかなかった。高円寺はいつでも死ねる町だ。だってすぐそこには中央線があるから。中央線はあたしたちの生命線。サブカルの生命線。それはとてもうすくて、さかいめはとてもあいまいで、かんたんに飛び越えることができる。あたしがこの町にいたころ、ずっとそうであってくれたように。

 駅に向かって歩き始めると、あたしのうしろから声がかけられた。

「サチコ!」

 それはあたしを呼んでくれるさいごの声だった。ふりむくと、あたしと同じぐらいセイコを愛していた彼女の姿がそこにあった。あのころ、あたしたちはちょうど同じぐらいセイコが好きで、ときに嫌いで、彼女とセイコの話をしたり、ときに悪口を言うのは楽しかった。同じものを同じぐらい愛してくれる存在というのは不可分だと思う。どちらかが大きくてもいけない。小さくてもいけない。わずかでも。彼女はあたしがセイコにたいして抱えている複雑な気持ちをちょうど半分だけ持ってくれた。いまもかわらずそうなんだと分かった。彼女はいつも、あたしのセイコにたいする気持ちを救ってくれる存在だった。

「え、いま地元に住んでるんだよね? もしかして、セイコのライブを観るために、ここまで来たの?」

 キャシーの顔は昔よりやつれていたが、声はあいかわらず明るくて、あたしの好きな彼女の声だった。

「やっぱり今日は、ここでセイコのライブがあるの?」

 あたしはそう尋ねた。尋ねたけれど、彼女がここにいるということは、彼女とここで会えたということは、もう間違いないんだと思った。

「……『ピンクセトラ』だったお店でセイコのライブがあるのは、ちょっと微妙?」

 キャシーは笑顔に陰りを浮かべ、あたしを気遣ってくれた。

「うん、すごく微妙。あたしいま、すごく怒ってる」

 あたしは言った。ほかの誰にもいえない言葉ではあっても、彼女にだけは伝えられると思った。たぶん世界中で、彼女だけがこの気持ちを分かってくれるから。「怒ってる」という言葉にこめたほんとうの意味を、彼女だけはすくってくれるから。

「セイコのライブ、聴いていきなよ」

 キャシーの言葉にあたしは驚いて、目を大きく見開いた。驚いたけれど、彼女ならきっとそう言ってくれるだろうと思っていた。彼女は、セイコが好きだ。でもたぶん、きっと、セイコよりもあたしのことが好きだ。同じように、あたしだって。あたしたちはセイコという媒体で結びついた特別な存在で、あたしたちにとってセイコは特別な媒体だった。音楽という名前の。

「私ね、実は高円寺の縁で、このシークレットライブに関わってるんだ。まあちょっとした運営スタッフというか。セイコのライブをここでやりたいって言ったのも、じつは私。だから、最前列に関係者席を用意してるんだ。ひとりぶんぐらいならこっそり空けられるから、サチコ、聴いていきなよ」

 キャシーはそう言って、あたしの手を強く掴み、引っ張るようにして奥の路地に連れていった。彼女の言葉を聴いて、猛々しかったはずのあたしの怒りは、勢いはそのままに少しずつその温度を変えていった。セイコのライブをここでしたいって言ったのは彼女だったと聴いたとき、あたしは怒る理由を失いはじめていた。彼女はきっとあたしの夢を知っていて、それに報いるため、くみ取るため、わずかでも叶えるため、セイコを呼んでくれたんだと知った。

 裏手から店に入ったとき、その予感は確信に変わった。セイコが立つであろうステージは、ピンク色で飾られていた。その色は、「ピンクセトラ」を彩っていたものと同じ色だった。

 キャシーの言ったとおり、ステージの手前に関係者席があって、あたしはそこに座ることができた。あたしはセイコのライブをかぶりつきで観ることができそうだった。ちょうど、無量大数で観た初めてのライブと同じように。ただあのころとは違って、ステージにはスタンドマイクが一本立っていた。

「マイク、あるんだね」

 あたしは隣に座ったキャシーの耳元で、そう囁きかけた。その意味を察してくれたのか、彼女はむずかしい表情で、

「そうなんだよ。私はアンプラグドにこだわったんだけどね。向こうのマネージャーがそこは譲らなくて。お客さんがぎゅうぎゅうに詰まるだろうから声を吸収するし、あとセイコ、一時期声を壊してたじゃん? それで、無理な声は出させられないから、マイクは使わせてもらうって。あと、今日はギターも弾かないみたい。バックヤードにミキサーとPAさん見えるでしょ? オケで歌いたいって言ったのも、向こうの意向なんだ」

 と教えてくれた。

 あたしはステージの端っこに形だけぽつんと置かれたアコースティックギターを見つめながら、そっか、と呟いた。その呟きの意味も、キャシーは分かってくれているだろう。あのころのセイコはアンプラグドだった。無量大数で、全員をぶっとばすような、ぶっころすようなものすごいライブをやってみせた。だからあたしはピンクセトラでアンプラグドにこだわったし、セイコを呼ぶときも、アンプラグドでやってもらうつもりだった。それはもう無理なんだ。と思うと、残念でも悲しいでもない、不思議な感情に包まれた。セックスを終えたあとの虚脱感みたいな。ちょっとねむたいような、世界がどうでもよくなるような、あのかんじ。もうあたしはセイコには怒れないと思った。セイコがもう怒ってないのと同じように。カバンのなかの硫酸をこっそり確認する。あたしがこれを使うことの意味は、ほとんど失われつつあった。

「そういえばさ、サチコ。『ミスMV』って知ってる? 『ミスAV』のさ、まあ音楽バージョンみたいなもので、今年から始まったんだけど、おなじようにセイコが審査員してくれてるんだよ」

 キャシーがスマホをいじりながらそう言った。

「なにそれ。『ミスAV』ってへんな名前だね」

 あたしは上の空でそう応えた。「ミスMV」にはうたをエントリーさせたので、とうぜん知っている。でもいまは、余計なことをあんまり話したくなかった。

「いやいや、サチコ、『ミスAV』に応募してたじゃんか。しっかりしてよ」

 キャシーはわらいながらスマホをタップした。彼女のスマホはiPhoneの新型なのか、やたら液晶が大きくて、見ようとしなくても画面を窺い知ることができた。彼女が表示していたのは「ミスMV」のウェブサイトだった。「ミスMV」の募集要項を確認したときとか、うたの動画をアップしたときなんかに開いたので、いかにも女の子らしいそのデザインはよく覚えていた。

「『ミスAV』ってわりと大人の女向けだったじゃん? まあグランプリになったら基本的にAV女優になるわけだから当たり前で、そこが面白かったんだけど。でも『ミスMV』は違うんだよ。こっちはね、中学生とか高校生とか、なかには小学生もエントリーしててね。まあみんなかわいいんだ。ぜんぜん擦れてなくて、いかにも処女ってかんじで。そういう子ってやっぱり応援したい気持ちになるから、自分の推しを見つけるのがすごく楽しいんだよね」

 キャシーはそう言ってスマホをいじる。画面に女の子の写真一覧が出てきて、あたしはびっくりした。

「……もう予選通過者は発表されてるの?」

 あたしは努めて冷静な口調で言った。そういえばこの週末に発表予定だったことを思い出す。まああの動画だしうたが通過していることはないだろうけれど、うたと弟と三人で確認するつもりだった。いまごろ、うたと弟はふたりでそれを見ているだろうか。あたしのいないふたりのことを考えると、死のうとしてたくせに、このライブが終わったら死のうとしてるくせに、いまさら胸が苦しくなって、罪悪感でいっぱいになった。

「そうなんだよ。発表は今日の正午ぐらいだったかな? 私の知り合いもエントリーしてたから、注目してたんだけど、その子は落ちちゃったんだよね。まあすごいエントリー数多くて、残るのはそのうち百人ぐらいだけだから、仕方ないんだけど。で、残ったなかで、私のすごく推しの子がいてね……」

 キャシーが画面をスライドさせると、かわいらしい女の子の写真がたくさん流れていく。やがてスライドが止まった瞬間、そこに現われた子の顔を見て、あたしの心臓は止まりそうになった。

 うただ。うたの写真だ。うたはちゃんと、選考を通過してたんだ。

「この子ね、予選通過したなかで、最年少なんだって。かわいいでしょ。本当は、予選通過するのは百人だけっていう決まりだったんだけど、あんまりにエントリーが多いから、審査員の推薦枠っていうのが別で用意されたんだよ。この子は、セイコの推薦枠で選ばれた、すごく縁起のいい子なんです」

 彼女は誇らしげに言ったけれど、あたしのほうがずっと誇らしかった。セイコがうたを選んでくれた。ウェブサイトのうたの写真のしたには、セイコからの推薦した理由が記載されていた。たった一行だけ。

〈この子が私の子でないことに嫉妬します〉

 それを読んだ瞬間、あたしのおなかの底から熱いものが溢れてきた。

「あれ、そういえば、サチコの子どももうたっていう名前だよね。この子、サチコの子どもだったりして。なわけないか。聞いてる? サチコ」

 あたしは項垂れたまま、あふれてくるものを必死でこらえた。あたしは救われた。そう思った。あたしの人生すべてを肯定されたと思った。そしてそれができるのは、世界中でセイコただひとりだった。

 うしろから轟音のような歓声がひびいた。薄暗かったステージにまぶしいスポットライトが灯され、そこにセイコが現われた。昔と変わらない、ピンク色を基調とした衣装だった。でも昔とちがって、ひかりに照らされるセイコの瞳には、地平を駈ける獅子が見つけられないように思った。

 あたしはセイコに救われた。でも、それだけでいいんだろうか。あたしもまた、セイコを救わないといけないんじゃないだろうか。あたしを救えるのが世界でたったひとり、セイコであったように、セイコを救えるのは世界中であたししかいないんじゃないか。あたしがセイコを救える、そんなやり方もあるんじゃないか。

 MCはなかった。すぐにオケが流れ始めた。十七年ぶりに観る、セイコのライブが始まった。

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