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お店はぜんぜんお客さんが入ってこなくて、過ごしやすかった。まあ昔もわりとそうだった。高円寺のこのエリアが動き出すのは夜になってから。あたしが店を開いてたときも、開店時間は夜の六時とかに設定してたし。
「お姉さんは芸大の方ですか?」
アイスティーを飲み干したあと、店員のお姉さんが暇そうだったので、そう声をかけてみた。
「あー、やっぱり見た目で分かりますか? そうなんです、この近くの芸大ではないんですけど、私高円寺好きなんで。バイトできる場所探してたら、ちょうどこのカフェが見つかって」
お姉さんはにこにこ微笑んで応えてくれた。あ、なんだかしゃべりやすい。
「やっぱり芸大の方にとって、高円寺って特別な場所ですか?」
そう尋ねてみる。ちょっといじわるな質問かもしれない。高円寺はアートに理解のある町ではあるけれど、あくまでアマチュアに限られる。言葉を選ばずにいえば、高円寺は「売れてないアーティストの町」であり、「売れないアーティストの町」だと理解していた。
「そうですねー、やっぱり高円寺が好きですね。もうそのへんを歩いてるだけで芸術作品に触れてるみたいな、そんな感覚あるじゃないですか。景色も、人も、芸術、みたいな。だから高円寺にいるのは、楽しいんですよね」
彼女の返答はちょっとずれてるような気がしたが、屈託なく話す。たぶん、話すのが好きなんだろうな。思ったままに話してるあのかんじ。やっぱりいかにも芸大っぽいというか、感性で生きてる、そんな印象を受ける。
「でも生活とか、苦しいんでしょう? 東京は物価高いですし、芸大はお金かかりますし。もっと割のいいバイトがいいな、とか、そんなことを考えたりはしないんですか?」
あたしはさらに意地悪な質問をぶつけてみる。あたしはここで店を開いていたから分かるのだが、この立地と、メニューのこの価格帯なら、そんなに粗利は出ないはずだ。あたしが店を回していたときも、借金取りのバイトのほうがずっと収入は多かった。
「いやー、まあバイト代は少ないんですけど、私は実家から仕送りしてもらってて、ほんとはそれだけでぜんぜん生活できるんで、まあぶっちゃけ、カフェのバイトは遊びみたいなものというか」
彼女はあいかわらず笑ったまま、あたしの鋭い質問も簡単にかわした。ほんとうに、お金の話もずいぶんぶっちゃけるんだな。あんまり頭のいい子ではなさそうだ。まあ芸大はいい作品を作ってなんぼなので、頭のよさはそこまで求められないけれど。ときどきある面でびっくりするぐらい頭の切れる子もいるが。
「ああ、やっぱりバイト代は少ないんですか。高円寺の昼営業って、けっこう厳しそうですよね」
あたしは窓のむこうに目をやって言う。やはりこの時間帯は、歩いてるひとはあんまりいない。
「そうですね。でも、さいきんは夜はライブを入れるようになったんで、そっちでだいぶ儲かってるみたいですよ。シフトも夜のほうがずっと時給がいいんですけど、私は夜に弱いんで」
彼女は眉をさげ、ぺろりと舌をだして言った。なるほど、やはり音楽の町・高円寺といったところか。店を続けていくうえでは音楽は切り離せないわけだ。そういえば、今日も夜にはライブが入ってると言ってたな、と思い出した。それまでにはここを離れないといけない。いったいどこに行けばいいのか、まったく分からないけれど。
「今日のライブって、どんなライブなんですか?」
あたしはそう尋ねてみた。店の構えからして、バンドは入れそうにない。店の一角には安っぽいアコースティックギターが立てかけてあった。埃を被っていて手入れはされてないようだけれど、まあこの店でできるのは弾き語りぐらいだろう。あと最近はYouTubeの台頭もあり、オケに合わせて歌うミュージシャンも増えているそうだ。あたしはあんまり好きではないが。
「うーん、誰だったかな? ちょっと見てきますね!」
店員さんはそう言い、奥へ引っ込んでいった。自分がバイトしてるお店のライブのことも知らないのか。ほんとにバイト感覚なんだな、と溜息をついてしまう。それはあたしがかつてここの店主をやっていたからという、つまらない老婆心みたいなものなのかもしれないけれど。
「あのね、セイコ、ていうミュージシャンみたいです」
奥から聞こえてきたその言葉を聞いて、あたしはあやうくアイスティーを取り落としそうになった。手がふるえ、膝がふるえ、やがてその震えが全身に広がった。
「えと、そのセイコ、ていうのは、超ミュージシャン、のセイコさんですか?」
あたしは両手をひざではさんで震えを抑えながら、つとめて冷静な口調をつくって訊いた。両方のわきを滝のような汗が流れていった。身体の芯が骨まで凍てついたかのように冷たかった。
「あーそうそう、それです。たしか店長が、超ミュージシャン、って言ってたような気がします。私は洋楽しか聴かないので、あんまり日本の音楽はよくわかんないんですけど」
彼女はそう教えてくれて、あはは、とわらった。
ありとあらゆる可能性が頭のなかをめぐり、思考が整理できない。こめかみをばくばくと血流がはしる感覚があった。頭がふわっとしてそのまま意識が飛びそうだった。
「でも、セイコさんって、すごく売れてるミュージシャンなんでしょう? ドームも満杯にできるぐらいの集客があるって聞きましたけど。このカフェだと、たぶん三十人も入らないと思うんですけど、本当に来てくれるのは、あのセイコさんなんですか?」
そうだ、ひとちがいだ。ひとちがいに違いない。99%はそう思いながら、あるいはそう願いながら、心のどこかでもう1%に賭けている。もしこの日、セイコに会えるとしたら、あたしは。
「へえ、そうなんですか? 知らなかった。でもいま高円寺って、メジャーミュージシャンのシークレットライブがすごく流行ってるんですよ。音楽の町を盛り上げようっていって、町ぐるみで週一ぐらいで有名なミュージシャンを招いて、どこかのカフェとかライブハウスでこっそりライブやるんです。どこもうちみたいな小さいハコばっかり。いつどこにだれが来るかは事前に知らされないんで、まあゲームというかガチャみたいなものですけど、かなり盛り上がってますね。なんか、夢があっていいじゃないですか。ふつうにお酒を飲んでたら、大好きなミュージシャンのライブがいきなり始まるなんて。私も、アヴリルのライブをもしここで観れたら、死んでもいいなあ」
彼女はそう言って、ほう、と溜息を吐いたあと、
「あ、でも、あなたに言っちゃったら、シークレットライブにならないですよね!」
と言い、あはは、と笑った。
あたしはテーブルのしたでこっそりガッツポーズを作った。こっそりと、しかし全力のガッツポーズを。この子の口が軽くて助かった。この時間、この場所に来て助かった。東京に来てよかった。あたしはやっと、救われるんだ。
ハンドバッグのなかに硫酸の瓶がちゃんと入っていることを横目で確認する。
「ライブを観ようと思ったら、どうしたらいいんですか? チケットを買ったり、予約したりしないといけないんですか?」
もうちょっとだ。もうちょっと。あたしは必死になって平然とした顔をつくり、そう尋ねた。
「いやいや、シークレットライブですから。そんなのぜんぜんないんで。その時間にここでお酒を飲んでてくれるだけでいいみたいですよ。十七時にいったんカフェ営業閉めるんで、そのときは出てもらわないといけないんですけど、十八時からはバー営業なので、そのときにまた入ってもらったら」
彼女はそう教えてくれた。
あたしは全身全霊の感謝を「そう、ありがとう」というあっさりした言葉に込め、会計を済ませ、いったんお店を離れた。そのあとは、高円寺駅前のマクドナルドで時間を潰した。ライブの時間が来るのが待ち遠しくて仕方なかった。一分おきに壁掛け時計を確認した。コーヒーの味はまったくしなくて、何杯もおかわりをした。
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