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 いちおううちの高校は進学校で、大学に進学するという、いわばまっとうなやり方で東京に行った子もいたんだけど、あたしはそれはなにか違うと思って、大学受験はしなかった。就職先も決めずに単身東京へ向かった。弟だけは「東京すげー」って味方してくれたけれど、両親からは激しい反対に遭い、クリスタルキングの「大都会」を小指を立てながら歌って茶化してきた父親ととっくみあいの喧嘩になり、なかば勘当寸前で家を飛び出した。ぶくぶくに膨らんだボストンバッグを肩からさげて、半日ぐらい鈍行に揺られた。東京駅についた頃にはもう夜だった。新宿に向かうのは品川駅で乗り換えたほうが早いってことも知らなかったわけだ。中央線のことはどうしてか知っていて、新宿に向かっているとき、大人になれた気がしてわくわくした。その日は新宿歌舞伎町のネットカフェに泊まった。やけにふかふかしたパソコンチェアに落ち着くと、疲れが一気にあらわれて、あたしはすとんと落ちるように眠った。

 そのネットカフェは一泊がちょうど二千円。あたしが持ってきていたおこづかいが三万円ぐらいだったので、ごはんのことを考えれば二週間も持たない。ヤバいと気づいたのは新宿に来て一週間経ったあたりで、あたしは新宿に来た興奮でわりと散財してたから、お財布のなかには二千円とちょっとしか残ってなかった。あたしは朝抜き二食カップラーメンでなんとか節約しながら、ようやく仕事を探すことにした。いくら新宿が大都会だっていっても、昨日今日でかんたんに仕事が見つかるはずがない。のどがからからに乾いてジュースを飲んでしまい、財布の残高はいよいよ二千円を切った。このままではネットカフェから追い出されてしまう。あたしは東京から離れたくなかった。もちろん東京(とくに新宿)は好きではあったのだけれど、それだけじゃなくて、なにも得ないままこの町を離れたくないという、意地のようなものだった。あたしは一週間目にして早くも東京の底辺にいる人々が宿している意地のようなものを共有した。新宿歌舞伎町のぎらぎらした照明を見ているとき、この町は意地のようなものでできていると思った。

 新宿から明治通りを北にあがり、東新宿を越えたあたりで左に曲がると、大久保と呼ばれているらしい町へ出た。新宿からちょっと離れただけでもわりと廃れた町並みが広がってることにびっくりした。あたしはボストンバッグの底から見つけたポケットティッシュとにらめっこしながら、書かれている住所のビルを探した。ポケットティッシュには白地に大きな文字で「日給二万円」と印字されていた。修学旅行のときに新宿でもらったお守り。もはやあたしが頼ることのできるものはそれしかなかったし、二万円はのどから手が飛び出るほど欲しかった。

 くたくたの料理屋からあふれ出る酸っぱい匂いのなかを歩いているうち、ポケットティッシュに書いてあるものと同じ名前のビルを見つけた。三階建てのぼろぼろのビルだった。入り口には鍵がかかっていて、しばらくうろたえているうち、コンビニのちいさな袋を下げた若い男性が電卓みたいな機械に数字を入力して鍵を解錠し、なかに入っていったので、そのすきに乗じてあたしもビルに入った。なかは思ったより広くて、扉がたくさんあったが、あんまりに多すぎて、部屋はどれもすごく狭いんだろうと思った。エレベーターはなく、あたしはポケットティッシュに書かれているとおり、階段をあがって三階に向かった。三階はとりわけぼろく、廊下はほこりだらけで、天井には蜘蛛の巣が目立った。目当ての301号室はフロアのはしっこにあった。簡素なアルミ製のドアは上半分が磨りガラスになっていて、明かりが漏れていたので、なかに誰かがいることは分かった。ドアノブをひねると、鍵はかかっておらず、かんたんに開いた。

 なかで何があったかは、どうでもいいことなので、いちいち話したくない。とにかくあたしは処女を失った。肛門の処女もだ。ただあたしは不思議とあまり嫌ではなくて、やっぱりそれは、東京のビル群を初めて観たときの感覚が近い。ながくて、かたくて、つめたい。なかでずいぶん時間が経ったのか、外にでると暗かった。右手には一万円札が一枚だけ握られていた。どうしてか二万円はもらえなかった。あたしはがくがくしたあごのまま、「こんなもんか」と呟いた。のどが嗄れて、あたしのものじゃないみたいな声がでて、おどろいた。股間をかばいながらよたよたと歩き、コンビニでいちばん高い弁当を買い、ネットカフェのブースに戻って食べて、シャワーも浴びずに寝た。眠るまえ、彼氏のようなひと、のことを思い出し、東京に来て初めて泣いた。あの部屋からは、夜景なんか見えなかった。

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