05-03



 部活を終え、部室を出たのは、俺と藤見が最後だった。俺は意地になったみたいに本を読み続けていたし、他の連中みたいになにかの用事があったわけでもない。藤見が残っていたのは、藤見もやっぱり暇だったからなのかもしれない。


 部室の扉を開けて廊下に出るとき、「おもしろいんですか?」と藤見は訊ねてきた。なんのことかは分かっていたけれど、一応俺は「なにが」と訊いた。


「その本」


「これね」


 これのことだと分かっていたのに俺は訊いた。たぶん、分かっていて訊き返したんだろうなと藤見も思っただろう。そんな気がする。


「あんまり愉快じゃないな」


「おもしろくないんですか?」


「面白い。……複雑なところだな」


「あなたは何をおっしゃっているのですか」という顔を藤見はした。


「この本の作者、知ってる?」


 表紙を見せると、「ああ」と藤見は声をあげる。


「花束のつくりかた、ですか。わたしも中学のとき流行ってました」


「中学のとき……」


 ああ、そうか。藤見は一個下だから、この本が出たときはまだ中三か。


「読んだのか?」


「読みませんでした。べつに、その頃は小説に興味もなかったし」


「……ふうん」


「なにか言いたげですね」という顔を藤見はした。


 べつになにも、という顔をしておくと、「よろしい」という顔で彼女は歩き始める。廊下の窓から差し込むやわらかな夕日で、リノリウムの床はほのかな茜色に染まっている。俺たちの影は窓枠の影とくっついたり離れたりしながら床の上を通り抜けていく。藤見は急に鼻歌を歌い出した。どこかで聞いたことがある。どこで聞いたんだっけ。何の歌だっけ。


「それ、なんて歌だっけ?」


「……え?」


 藤見は不思議そうな顔をする。思わず、自分が変なことを言ったような気分になった。


「えっと、なんだっけかな……えと、あれです」


「どれだよ」


「あ、『守ってあげたい』だ」


「……」


「うちのお母さんがよく車で流してたんですよね」


「……誰だっけ、歌ってるの」


「……松任谷由実?」


「……」


 そうだっけ。よくわからない。


「……まあいいや」


 ふむ、という感じで、藤見は俺の顔を見上げた。


「前見て歩け。転ぶぞ」


「あ、はい」


 藤見は傾きがちな姿勢を正してまっすぐに歩みを直した。と思うと、今度は不意に立ち止まる。


「……どうした」


「……」


 問いかけても返事はない。俺も立ち止まって彼女の返事を待つ。


「……サイレン」


 それは返事ではないみたいだった。俺は窓の外を見る。耳に、音が近付いてくる感覚。


「救急車か」


「……」


「どうした?」


「……いえ」


 なんでもないですよ、という顔を、藤見は作ろうとしているみたいだった。


「なんでもないって顔じゃねえな」という顔を作ってみようとがんばってみたけれど、うまくできたかはわからない。藤見はおかしそうに笑った。


「なんですか、その顔」


 べつに顔芸をしたつもりはなかったが、藤見の肩からすっと力が抜けたのが見て取れた。


「不謹慎と言えば、不謹慎な感覚なのかもしれないんですけど……」


「ん」


「救急車のサイレンを聴くと、あそこにいるのは自分なのかもしれないなって思いませんか?」


「……?」


 わかんないですよね、というふうに、彼女は笑う。わからん、と俺は肩をすくめた。


「わたしは本当はあのなかにいるんです」

 

 学校の敷地を囲うような道路を通り過ぎていく救急車を見送りながら、藤見は真剣な表情でそう言った。


「本当のわたしはあのなかにいて、いませんぱいと話してるわたしは、あのなかのわたしが見てる夢なんです。それが本当なのかもしれないって、そう思うんです」


「……変なやつ」


「……あはは」


 困ったみたいに彼女は笑った。


「……せんぱいは」


「ん」


「いえ、せんぱいは」


 藤見は明らかに何かを言いかけてやめた。俺はそれを聞き返さなかった。


「複雑って言ってましたけど。その小説、どうでしたか」


「まだ途中だからな」


「そう、ですよね」


「……」


 途中。


「せんぱい、あの……風のうわさで耳にしたんですが」


「藤見は風が何を喋ってるのかわかるのか」


「その、漫研の人の手伝いをしてるって」


 俺のささやかな冗談は簡単にスルーされた。


「ああ……」


「えと、原作のアドバイス、とかって」


「誰から聞いたんだ?」


「風です」


「誰だよ」


「……えと、相羽くんが、たまたま聞いてしまったそうで」


「……」


 まあ、不思議ではないか。


「せんぱいは……」


「ああ」


「……いえ」


「……なんだよ、さっきから」


「……」


 また、藤見は黙った。それから、立ち止まっていたことを思い出すみたいに歩くのを再開する。階段へと足を向ける。俺は彼女の後ろ姿を斜め後ろから追いながら、べつに一緒に歩く理由なんてないんだと考えた。


「藤見」


「……なんですか?」


 彼女は振り返らなかった。


「なにか言いたいこと、あるんじゃないのか」


「……」


 また、答えない。踊り場を曲がり、俺達は徐々に地上に近付いていく。窓の外に海があるように見えた。違った。単に建物の影がそう見えただけだった。


「藤見」


「……言わない。言ったらせんぱい、どうせ怒りますから」


「なんで決めつけるんだよ」


「わかってるからです」


「……」


 決めつけられるのは、好きじゃない。

 でも、どうだろう。


 本当に俺は、何を言われても怒らないだろうか。


 ……どうして俺は、『言いたいことがあるんじゃないか』なんて言ったんだろう。俺は、藤見に何を言ってほしかったんだろう。何を期待したんだろう。

 はっきりと感じ取る。俺はいま、何かを掴み損なっている。


「……海が」


「……はい?」


「海が見たい」


「……」


 藤見は変な顔をした。


「……見に行けばいいんじゃないですか?」


「……」


 俺は少し感心した。


「きみ、頭いいね」






 けれど俺はその日海になんかいかなかった。当たり前だ。今日は月曜で、バイトがなくて、部活終わりで、そんな時間からただ見たいからというだけの理由で海まで行く気にはなれない。第一海なんて見たところで何になるだろう。海を見て文章を書けるようになるだろうか。海を見て自分がマシになるだろうか。そんなのは馬鹿げた夢でしかない。


 俺の頭の中をずっとさざなみが覆っていた。俺の頭の中の海は曇り空の下で静かに波打っている。穏やかな静けさではない。かといって、嵐の前の静けさでもない。それはただ諦めのような静けさだ。打ち捨てられたような静けさだ。何もかもをすべて諦めたときに見るような海だ。人一人歩いていない世界の果てのようなその景色は、俺に古いSF映画を思い出させる。けれど、よく考えるとそうではないのだろう、その海が古いSF映画のようなのではなく、かつて見た古いSF映画を元にして俺がその海を思い浮かべているだけに過ぎない。俺の中にはオリジナルなものなどひとつも存在しないのだ。


 藤見と昇降口で別れ、駐輪場に向かう途中で携帯が鳴った。

 大澤からの電話だった。


「やあ」と彼は言う。


「やあ」と俺は返事をする。


「どうした」


「まだ学校にいるか?」


「ああ」


 俺は周囲を見渡したが、大澤の姿は見つけられなかった。それはそうだ。姿が見当たるなら電話なんてかかってこないだろう。


「ちょっと話せないか?」


「話?」


 怪訝には思ったけれど、特に断る理由もない。


「どこだ?」


「……そっか。そうだな。部室に戻ってこられる?」


「部室?」


「ああ」


 さっきの時点で、もう帰っていたと思っていたのに。


 まあいいや。


「すぐ行く」


「ああ」


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