01-04
「もしも自分が、自分にとっていちばん大切なものがなにかってことを見誤っているとしたら、それは不幸なことなんだろうね」
彼女は不意にそう言った。東校舎の屋上のフェンスのそばで、彼女は紙パックのカフェオレを片手に街を見下ろしている。
俺は斜め後ろから、その姿をぼんやりと眺めている。彼女はこちらを振り返ろうともしない。
「どういう意味?」
そう訊ねると、彼女は吹き込む風になびいた髪を手で抑えた。
「そのままの意味」
冗談でも韜晦でもなさそう調子で、彼女はそう呟いた。ここからは後ろ姿しか見えない。けっこう長い付き合いになるのに、まだ彼女との距離感が掴みきれない。
雲はあるけれど、空は青く、太陽は明るい。こんな写真がどこにでもありそうな、そんな綺麗な空だった。
日差しが澄んでいれば澄んでいるだけ、地上に落ちる影も濃く鮮やかになる。そのコントラストのせいか、悪酔いのような不思議な浮遊感に襲われる。
俺は彼女の髪が風に揺れるのを眺める。彼女の言葉を頭の中で繰り返す。
深い意味はない言葉だったのかもしれない、とも思う。ただなんとなく、そういうことを言いたい気分だけだったのかもしれない。
でも、今俺は、咎められているような気分になっている。自分自身について、何かを言われているような気がしている。
開放されているとはいえ、東校舎の屋上に寄り付くような人間はそう多くない。最近出入りしているのは文芸部の連中くらい。たぶん一番多いのが俺で、その次が彼女、枝野朱音になるんだろう。もともと幽霊部員だったくせに、去年の暮れ頃から当然のように部室に顔を出すようになって、今となってはサボりがちな俺よりもずっと真面目な文芸部員だと言えるかもしれない。
何気ない素振りで彼女は振り返り、
「先輩とはどうなの?」
と訊ねてきた。彼女が先輩と呼ぶ相手の候補は、ひなた先輩以外にはいない。最近はみんな、その話をする。
「どうして?」
と俺は聞き返してみる。彼女は溜め息をひとつついて、またフェンスの方を向いてしまった。
返事はかえってこない。今度は俺が溜め息をつく番だった。
ときどき、彼女には何もかもを見透かされているような気分になる。
けれど今の俺には、見透かされてしまうほどに隠されている自分があるとさえ思えない。
ただなんとなく、いま、自分のなかに、なにも残されていないような気がしている。
言葉を見つけられない俺に向けてかどうか、枝野はひとりごとのように、
「部誌の原稿、書かなきゃね」
と言う。
その言葉を聞いて、俺はいくつかのことを思い出したような気がしたけれど、それはちゃんとしたイメージとしての像を結ぶ前にバラバラに散らかって収集がつかなくなった。ただ何かが頭の中で散らかっているという気がするだけだ。
これではいけない、と思ってもいる。
書かないといけない。そう考える。それとほとんど同時に、ひなた先輩のことを思い出す。
「おまえには無理だよ」と、そんな声が聞こえた気がした。
「ねえ」
と枝野は不意に声をあげた。
俯きかけた顔をあげると、彼女は返事を待つようにこちらを見ている。
「なに」
「あのさ……」
言いあぐねる、というには少し軽すぎるためらいの気配を見せたあと、彼女は当たり前のように言葉を続けた。
「書くの、やめてもいいんじゃないの?」
言い返せない俺に、ほんの少しの間、枝野は窺うような視線をよこした。
そして、そうしていることにも飽きたみたいに、さっと目を逸らし、足早に校舎へ繋がる鉄扉へと足を向ける。
「どうせ、今日も部室に来ないでここにいるんでしょ?」
俺は、頷きひとつ返せない。
「じゃあね」
彼女はそう言って、扉の間に体を滑り込ませるようにして去っていく。
扉の閉まる音が聞こえる。
おまえには無理だよ。
また、誰かがそう言った気がした。
◇
枝野の予言のとおり、放課後、俺はどうしても部室に顔を出す気になれずに、それでも何もせずに帰る気にもなれずに、また東校舎の屋上にいた。
空の様子は昼間とさほど変わらない。風はほんの少し穏やかになった気がするけれど、それだけだ。
フェンスの傍に腰掛ける。あぐらをかいて座り込み、白紙のノートを広げる。手には万年筆を握っている。そしてこれはいったいどういうことなのかと考えた。
べつに生活にこれと言った問題はない。
授業には出ている。夜は眠れるし、食欲だってある。
気分が乗らない日はあるけれど、ちゃんと勉強だってバイトだってこなしている、こなせているつもりだ。
何もなければ妹を手伝って家事だってするし、父親と喧嘩しているわけでもない。
ひなた先輩とはなかなか会えないけれど、だからといって誰かと行き違いやトラブルが起きているわけではない。
ただ書けないだけだ。
これが他人のことならば、原因はいくらでも思いつける。
手のひらの中の万年筆を眺めてみる。
卒業式の日に、ひなた先輩がくれたものだった。
「卒業祝い」と彼女は笑っていた。逆じゃないかと俺が言うと、いつものような間延びした声で、「そんなもんだよー」とよくわからないことを言った。
先輩はなんて言ってたっけ?
先輩は、「きみの書いた文章が好きだよ」と言った。
ちゃんと覚えている。
そのとき、彼女のその言葉さえあれば、ずっと書き続けられるような気がした。
文章を書くことに意味なんてない。
文章を書くことで得られるものなんてほとんどなにもない。
そんなこと分かった上で、俺はこれからも書き続けるだろうと思っていた。
それなのに今、俺はその万年筆を握りながら、最初の一行さえ書き出せずにいる。
これはいったいどういうことなんだ?
万年筆を制服の胸ポケットに挿して、携帯を取り出す。
金曜日のメールのやりとり。もう何度も読み返したのに、また繰り返してしまう。
自分の送ったメールがひどく幼稚に思えて、送信したメールは削除してしまった。
「でも、そういうのはぜんぶ、きみ自身が決めることだと思います」
最後の一文は、やっぱりそれだけだ。それ以上の何かを、俺は期待していたのかもしれない。
◇
鉄扉が軋む音がして、誰かの足音が近付いてくる。
俺は白紙のままのノートを閉じて、扉の方へと視線をやる。
あまり見覚えのない男子生徒が、こちらを見て所在なさげにしていた。
くしゃくしゃの髪の毛、すらりとした長身。どこかで見たことがある。どこでだっただろう。
彼は俺の姿を見て、目を丸くする。
「ほんとにいた」
怪訝に思い、思わず警戒心を抱く。あまり歓迎されていないと分かったのか、彼の方も少し緊張した様子に見えた。
「えっと、何してたんです?」
相手の懐に入り込もうとするような、堂に入った笑顔を彼は浮かべる。相手の警戒心を解こうとするような……でも、ひょっとしたら俺が穿ちすぎているだけで、意識しているわけではないのかもしれない。
とりあえず、
「誰?」
と訊ねてみる。それがわからないことには、何を話せばいいのかもわからない。
彼は面食らった様子で俺を見たあと、仕方なさそうに苦笑した。
「ホントに人の顔覚えるの苦手なんすね」
どうやら、何かしらのつながりがある相手らしい。
「……悪い」
とりあえず、人の顔を覚えるのが苦手な自覚はあったので、謝っておく。喋り方からして後輩なのだろう、と思ったところで、そういえば今年の新入部員に、こんな奴がいたんだったと思い出した。
「いえ。大丈夫です。特徴のない顔してますからね」
彼はそう言って卑下したけれど、そういうふうにも思えない。……だったら覚えていろよ、と自分でも思うけれど。
名前は、なんていったか。たしか……。
「相羽だっけ」
「はい。相羽です」
「なんでここに?」
「佐伯先輩、ここにいるだろうって聞いたもんですから」
「……俺に何か用事?」
「……と、言いますか。藤見先輩に文章のことでちょっと質問したんですけど、そしたら、佐伯先輩に聞くといいって言われたんで」
俺は溜め息をつきかけて、やめた。さすがに感じが悪すぎる。
新入部員の質問を丸投げしてきた二年の後輩に内心で恨み言を言いつつ、俺はとりあえず返事をした。
「質問って?」
「ああ、はい。……や、でも、やっぱいいです」
「……なんだそりゃ」
相羽はそのまま俺の傍までやってきて、フェンスの向こうの景色を眺めた。
「けっこういい景色ですね」
「……まあ、そうかもね」
そうだろうか、と俺は思った。
「先輩、いつもここにいるんですか?」
「……いつもでは、ないけど」
「ふうん。……なんで部室に顔を出さないんですか?」
「なんとなくだよ。西村と枝野、怖いし」
「あ、ちょっとわかります」
わかるんだ、と俺は思う。べつに後輩につらく当たるような奴らでもないはずなのだが。
話している間もずっと、相羽の顔には柔らかい自然な微笑が浮かんでいた。
人と話しているとき、ほとんどずっと笑顔を浮かべている人間というのがいる。
自然と出てしまうのか、ひとつの処世術なのかはわからない。どちらでもいいような気がする。
相手が笑顔の方が、話していて気分は楽でいられるものだ。そういう意味では、ある種の気遣いと言えるのかもしれない。
それが自然なものならば憧れを覚えるし、それが努力によるものならば尊敬を覚える。
「先輩は、ここで何してたんですか?」
表情が柔らかいせいだろうか、ずかずかと質問をされているはずなのに、不思議と不快感はない。
「何かをしてたわけじゃないけど……」
嘘だ。
「何か、書いてたんですか?」
「どうして?」
「ノートがあるから」
「……まあね」
これも嘘だ。
相羽は、フェンスの向こう側の景色を見ている。その瞬間だけは、笑みは浮かんでいない。
だからといって、深刻そうというわけでもない、ただ、ぼーっとしているような顔に見える。
「……やっぱり、ひとつだけ質問してもいいですか?」
「どうぞ」
ほんの少し、躊躇したように見える。それは一瞬だけだった。
「先輩は、小説を書くのが嫌になったことって、ありますか?」
俺はほんの少し息を呑み、表情に動揺が出ないように努めた。無駄だったかもしれない。
答えずにいると、彼は言葉を重ねた。
「石の壁を爪で引っ掻いているような、そんな気分になったことはありますか?」
彼はいま、笑っていない。俺の方を、見てもいない。見ることをおそれているようにも見える。
「先輩は……」
相羽はそこで、ごまかすようにようやく口元に笑みを貼り付ける。
「どうして、小説を書いてるんですか?」
その問いを、俺は何度も聞いたことがある。自分が口にしたことさえある。
溜め息が出そうになるのを、またこらえた。
まいったな、と俺は思う。
全部堂々巡りだ。
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