01-03
夕方、バイト先のコンビニに着いてバックルームに入ると、日勤の人たちが深刻そうな顔をしていた。
「おはようございます」
ととりあえず挨拶すると、「おはよう」と声をかけられる。そのあとまた空気が凍る。
今日の日勤のシフトは、二年以上働いている同い年の女の子と、ベテランのパートのおばさん、それから四月から働き始めた高一の男の子。
「……どうしたの?」
訊ねると、長い髪を後ろでひとつ結びにした女の子が困った顔をした。
小見川 優という名前のその子は、俺に仕事を教えてくれた先輩で、同じ高校に通う同学年の女子でもある。
もっとも、学校で顔を合わせることはほとんどないけれど。
「……ん。まあ、ちょっとね」
奥歯に物が挟まったような言い方が少し気になったけれど、俺はとりあえずロッカーを開けて制服を着た。
「違算があって」
と、ユウは言う。
「違算? いくら?」
「……」
「ユウ?」
「……一万円」
「一万円」
俺は思わず復唱した。
「マイナス?」
「マイナス。オーナーには連絡してあるんだけど……精算のときに直すからそのままにしててって」
一万円。
「それはまた……」
「ね」
「オーナーは夜勤?」
「うん。お昼に帰ったから、今は寝てると思うけど」
一万円の違算は基本的には起こりえない。
釣り銭として一万円札を出すことはありえないし、一万円以上の買い物をする客もコンビニにはほとんどいない。
プラスであれば、ピン札が重なっていて気付かなかったということもありえなくはないが、今回はマイナス。
ということは、どこかに紛れ込んでいるか、両替を間違えたか。
もちろん、そのあたりは一通りチェックしたあとだろう。
となれば考えられるのは……口数が減るのもむべなるかな、と言った具合か。
ユウがちらりと新人の子に視線をやる。彼は居心地悪そうに視線を泳がせていた。
「オーナーに連絡したんなら、深夜帯にでもビデオチェックするんじゃないかな」
ひとまずそうとだけ言うと、ユウは複雑そうな顔で頷いた。
「……うん」
「とりあえず、俺レジ出るわ」
出勤十分前。夕勤の先輩は一時間前に出てきていて、もうレジを回している。
「あ、うん」
ユウの脇を抜けて、ストアコンピューターのリーダーに自分のバーコードを通す。
出勤時間を登録してから、防犯カメラで店内を見る。土曜の夕方は、さほど混雑しない。
結局なにかできることがあるわけでもなし、当たり前に入れ替わりの時間になり、三人は退勤した。
制服を脱いで髪をおろしたユウは、いつも買っていくジュースとお菓子をレジに持ってきた。
「おねがいします」と彼女は言う。
「うむ」と俺は返事をした。
「なんか偉そう」
「くるしゅうない」
とふざけながら商品のバーコードを読み取る。ユウは不満そうな顔をした。
「来たばっかのときはもっとかわいげがあったのになあ」
「かわいげって言われてもな」
「ミスするたびにわたしに泣きついて来たのが遠い昔のことのようだよ」
「その節はたいへんお世話になりました」
「いまはなんか、わたしに対する扱い雑になったよね」
「そうでもない」
「そう?」
「そう」
幸い、客はほとんどいなかった。夕方の荷物が届いたら片付けを始めないといけないが、それの時間まではまだ余裕がある。
少しくらいの無駄話をする暇はありそうだった。
俺が商品を袋に入れていると、ユウは何か言いたげな顔をする。
なんだよ、と首をかしげて見せると、彼女は小声で話し始めた。
「一万円だけど」
「ん」
「盗ったんだと思う?」
ふむ、と俺は考える。
「わからない」
「……そか」
俺の答えに、ユウは複雑そうな顔をする。もちろん納得したわけでもないだろうが、ここで言ったところでどうなるという話でもない。
「じゃあ、他にどんな可能性があると思う?」
「それはわからないけど……」
「あの子、入ったばっかのとき、退勤したあと外の灰皿でタバコ吸ってたんだよね」
「……それはまた、あからさまだなあ」
「遅刻もするし、勤務態度も多いし、疑いたくはないけど疑いたくもなるというか……」
「まあ、今日はとりあえず気にしない方がいいんじゃない? ひょっとしたらどっかからポッと出てくるかもしれないし」
「……んん。平山さん、かわいそうなくらい顔真っ青にしてたからなあ」
平山さん、というのは、ベテランのパートのおばさんだ。
気のいい面白い人で、ユウとも仲良くしているみたいだけれど、さっきはひどく落ち込んだ様子だった。
ユウは、商品の入ったビニール袋の持ち手を掴んだまま、しばらく考え込んでいたけれど、やがて「ん」と声をあげた。
「……たしかに、まだわかんないもんね。考えないようにしよ」
それで納得したみたいだった。誰かに不安を共有しておきたかっただけなのかもしれない。
そんな役回りができるような人間ではないのだけれど。
「まあ、ちょっとしたミスもまだ多いから、修司くんもシフト被ったら気をつけて見てあげてね」
「……まだ新人気分でいたいんだけどな」
俺だって、最初の頃よりマシになったのかもしれないが、仕事ができるというわけでもない。
他人の面倒を見る余裕なんてそんなにないのだけれど……。
「それが責任ってもんだよ」
と、同い年の女の子にそう言われては、さすがに頷くしかない。
責任……。
◇
バイトを終えて家に帰り、部屋に戻って机に向かう。
ノートパソコンと筆記用具。画面はまだ真っ白なままだ。
俺は一度机の上のものを片付けて、引き出しから便箋を取り出した。
もらいものの万年筆を握り、何かを書こうとする。
けれど、紙面にペン先が触れる直前に、指先が急に動かなくなる。
いきなり書き始めるのは無理があったかもしれないな、と思い直し、今度はノートを開く。
書くべきことはどのくらいあるだろう。
そう思って考えてみる。けれど、思いつくことはなにもない。
別に気兼ねの必要がある相手に送るというわけでもない。
去年の夏頃から、三ヶ月に一度くらいの頻度で、少し離れた土地で暮らす叔母に手紙を書いている。
内容は大抵ただの近況報告だったり、ささやかな相談ごとだったりで、たいして重要なものでもない。
いつも、書こうと思えばさらさらと書くことが思いついたものだった。
それなのに今は、どうしても筆が動かない。
突然に、なんの前触れも、なんのきっかけもなく、俺はまた文章を書くことができなくなってしまった。
自分のなかのなにかが欠けてしまったみたいに。
なにかの熱が冷めてしまったみたいに。
あるいは、始めからそんなもの存在していなかったみたいに。
椅子の背もたれに体重を預けて、天井に視線をやる。
考え事のすべてが空転して、言葉としてのとっかかりが頭の中をすり抜けていく。
自分の中の意味ある言葉が床に散らかってただの文字になっていくような気分だった。
なにかの文章を書いていても、気付いたらいつのまにか、ただ文字を羅列しているだけだという気がしてくる。
その文字で意味をなす文章を書こうとするのではなく、ただ並べるべき文字を拾っているような。
活版所で活字を拾い続けるジョバンニのように。
文章を書けなくなったことはこれまでに何度もある。
もう書けないと思ったことも、もう書いてやるものかと思ったこともある。
けれど、今度のこれは、そういったあれこれとは少し種類が違うように思えた。
極端なことを言ってしまえば、俺はいま、書くことを求めていないのかもしれない。
書きたくないのかもしれない。
そして、ひょっとしたら、この先ずっとそうなのかもしれない。
俺にとって一番重大なのは、俺自身がその状況をまずいと思っていないことだ。
そんなことってあるだろうか?
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