01-05


 結局、俺はたいした答えを返すことができなかった。

 相羽は枝野がそうしたように屋上を出ていった。日は少しずつ傾き始めている。


 俺もまた、こんなところにずっといるわけにはいかない。

 俺もまたどこかにいかなければいけない。


 そう分かっているのに、動き出すのがどうしても億劫だった。


 やがて、また扉が開いて足音が聞こえる。


 今度は俺はそちらを向かなかった。


「いましたね」


 と、声が聞こえる。


「居ちゃ悪いか」


 と俺は返事をした。


「いえ、べつに」


 こうなったら、意地でも振り向いてやるものか、と俺は思う。

 でも、そうすることが何に対する抵抗なのか、自分でもわからなかった。


「子供みたいですね」


 と彼女は言った。


「さっき、相羽くんが来ませんでしたか?」


「来たよ」


 一度そうとだけ答えたけれど、途中で我慢できずに振り返ってしまった。


「きみがここに来るように言ったんだろ」


 目が合うと、彼女は満足した様子で頷いた。


「ええ、まあ」


「気の利いたアドバイスなんてできるタチじゃないのは知ってるよな」


「まあ、できるかどうかはともかくとして、苦手意識があるだろうなってことはわかってます」


 嫌がらせか。


 思わず溜め息をつくと、藤見千歳は楽しそうにくすくす笑った。

 本当に、去年までと比べると、気安い間柄になったように感じる。


「西村先輩、怒ってましたよ。せんぱいは今日もサボりかーって」


「だろうね」


「で、伝言です。『部誌の原稿はあげるように』って」


「……善処はするよ」


「期待してます」

 

 嘘だろうな、と俺は思った。この子はもう俺に期待なんて向けていない。かつて本当にそうだったとしても、今は違う。


「……せんぱい?」


「ん」


「調子、悪そうですね」


「いつもそう見えるんだろ」


「まあ……たしかに」


 納得されると、それはそれで寂しいものだ。


 藤見もまた、フェンスに近寄って町並みを見下ろす。俺はその姿をぼんやりと眺める。

 背丈も、髪の長さも、去年までとそんなに変わっていない。纏っている雰囲気だけが、少しだけ違う。


「藤見は……」


「はい?」


「……いや」

 

 明るくなった、と言いかけてやめた。そんなのは、見た目だけじゃわからないことだ。

 それでも俺の目には、去年まで彼女を包んでいた、張り詰めた糸のような雰囲気が和らいだように見える。


「言いかけてやめる癖、治りそうもないですね」


 返す言葉もない。座ったまま、フェンスに背を向けて膝を立てる。西日が眩しくて目に刺さるようだった。


「みんな帰ったの?」


「はい。今日はわたしが最後でした」


「そう」


 ほんの少しだけ、俺は安心する。……安心。どうしてだろう。


「調子が悪いんですか?」


「悪そうに見えるんだろ」


「そういう話じゃありません」


「……体は至って健康だけど」


「そうじゃないです」


 と藤見は少し強い調子で言った。彼女はフェンスの向こうを見たままだ。こちらには視線を向けない。俺もまた、その横顔から視線を逸らし、塔屋の扉をじっと睨んだ。


「そうだな」と俺は答えた。


「少し考えてみよう」


「何をですか?」


「ここ最近の調子ってやつ」


「ふむ」


「どんな変化があったかな。どこから振り返るのがいいんだろう」


 藤見は少しだけ考えるような間を置いたあと、


「最後に書いてから、にしたらいいと思います」


「親身だね、ずいぶん」


「わたしとせんぱいの仲ですからね」


「どんな仲だよ」


「……部活仲間ですかね?」


 俺は思わず鼻で笑った。


「ひどいなあ」と彼女は言ったけれど、彼女の口調にも冷ややかな笑みが含まれているように俺には思えた。


「せんぱいが最後に部誌に参加したのは去年ですね。今年の春は不参加だったから」


 去年の十二月。ハックルベリー・フィンの冒険。

 春にはもう書けなくなっていた。


「その頃の先輩はと言えば……ひなた先輩に告白して、返事を保留にされて少し情緒不安定になってましたね」


「そうだっけ?」


「わたしのバイト先で管巻いてたことを忘れたとは言わせません」


「そう、そんな日もあった」


「老境めいた返事でごまかさないでください」


「ご迷惑おかけしました」


「よろしい」


 俺も藤見も棒読みだった。


「そのあとは?」と彼女は促す。


「妹が受験に受かった」


「おめでとうございます。合格祝いには何を?」


「新しいフライパン」


「……それは合格祝いなんでしょうか」


 本人は喜んでいた。


「で、ひなた先輩と付き合うことになって」


「よかったですね」


「ちょっと投げやりじゃない?」


「ここに来てくどくど突っ込みたくない話題ですからね」


 まあたしかに、何を言うにしても今更という感が拭えない。


 ……そういえば、バレンタインにはひなた先輩からチョコをもらったっけ。


 市販の奴だったけど、そんなものをもらう機会が今までの人生になかったので、けっこう浮かれたことを覚えている。

 ホワイトデーのお返しで頭を悩ませたのも、まだほんの二、三ヶ月前のことなのか。


 まるで遠い過去のような気がしてしまう。


 そして、ひなた先輩は卒業してしまった。胸ポケットに挿したままの万年筆を指先で撫でると、硬い感触が返ってくる。


「それから?」と彼女はまた促した。


「……進級したな」


「おめでとうございます」


「そういえば藤見には進級祝いをまだもらってないな」


「わたしももらってないです。用意したほうがいいですか?」


「相殺しとこう」


「そうしましょう。春には文芸部で部誌を作りましたね。せんぱいは不参加でしたけど」


「強制じゃなかったし」


「つくづく足並みの揃わない部ですよね」


「そこがいいところだったんだけどな」

 

「……居心地、悪いですか?」


「少しね」


 違う。問題はそこじゃない。


「整理するとこうなりますね。彼女ができて、進級して、妹さんも高校に合格して」


「親父は転職して休みが増えて、文芸部は新入部員も獲得した」


「良いこと尽くしですね。雑誌広告のパワーストーンでも買ったんですか?」


「そうだな。今年の運勢はよさそうだ」


 不意に藤見は膝で俺の肩を軽く蹴った。思わず振り返ると、彼女はまっすぐに俺を見下ろしている。


「それなのに、絶不調なんですね」


 わかったようなことを、彼女は言う。猫みたいなやつだと思った。


「……」


「西村先輩は、せんぱいがサボってるって言ってましたけど、わたしの考えだとちょっと違います」


「ホント、きみは俺のことを知ってるみたいに言うね」


「去年までもそうだったでしょう。それに、去年よりはせんぱいのこと、分かってるつもりです」


 まあ、たしかにそうかもしれない。


「また、書けなくなったんですね」


 ……また。そう、まただ。また。何度目だろう。もうわからない。

 考えるのもいやになる。


「べつに誰も困らないだろう」


 言ってから、こんな言葉を、以前にも誰かに向けたことがあるような気がした。


「たしかに」と藤見は一度頷き、いや、というふうに首を横に振り、


「もちろん」


 と、間違いを訂正するように言い直した。もちろん。俺もそう思う。


「もちろん、せんぱいが書かなくても困る人は誰もいません」


「……ふむ」


「去年までのわたしなら、書いてくださいと言ったかもしれませんけど。今は、そこまでしないです」


「成長したな」


「はい。おかげさまで」


 俺のせいではないはずだ。


「わたしは……せんぱいが書きたくないと言うなら、もう、書かなくてもいいんじゃないかと思います」


「……」


「せんぱいは、ひょっとしたら、もう文章を必要としてないんじゃないかって思うんです」


「そう思う?」


「わかりません。状況を考えたら、そうかなと思うだけです」


「状況」


「つまり……ものすごく身も蓋もない言い方をすると、せんぱいは、ひなた先輩と付き合い始めたわけじゃないですか」


「ああ」


「それで、せんぱいはある程度、精神的に満たされたわけじゃないですか」


「……言いたいことは分かる」


「結果……」


「分かるって」


 少し強い調子でそう言うと、藤見は言葉を途切れさせた。俺にだって分かっている。

 

 精神的に満たされた結果、文章を書くために必要としていたフラストレーションが解消された。

 その結果、文章を書く意欲がなくなってしまった。


 言いたいことは分かる。

 そうじゃないかと俺でも思う。


 だから今、俺は空っぽなんじゃないか。


「わたしは……それは、せんぱいにとって良いことだと思うんです」


 つまり、こういうことだ。


 俺にとって文章を書くことは、単に思春期の自意識をどうにかして発散させるだけの排泄行為でしかなかった。

 承認欲求やままならない感情をぶつけるだけのサンドバックのようなものだった。


 だから、恋人ができるだけで簡単に書けなくなってしまった。


「少し、寂しいですけど、でも、せんぱいが書かなくても平気になるなら、それはたぶん、良いことなんです」

 

 俺は文章に呪われてなんかいなかった。

 

 それだけのことだ。


 そういうことになる。


 おまえには無理だよ、と、そんな声が聞こえる。

 

 少し寂しいですけど、と藤見は言う。

 どうしてか、そんな言葉が妙に胸に引っかかった。


 少し寂しい。


「……参考になったよ」


 と俺は言う。


「でも、わたしがそう感じたってだけです。……ぜんぶ、せんぱいが決めることですから」


 藤見は、まだ何か言いたげな表情をしていたけれど、それきり何も言わず、屋上をあとにした。

 

 扉の閉まる音が聞こえる。

 繰り返されている。


 ひとりきり取り残されて、俺は立ち上がる機会を逸したのを自覚した。


 深く深く溜め息をついて、少しだけ考える。


 彼女の言葉を何度も思い返し、頭の中でそれについて検討する。


 けれど頭は空転するばかりで、何の結論も出せやしない。


 俺はたいしたきっかけもなく立ち上がり、家路につくことにした。


 帰る間際、鉄扉の隙間から屋上の景色を覗く。


 そこにはただ、見慣れた、当たり前の景色が広がっているだけだった。

 

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