04-06


 月曜の昼休み、ひとり屋上で昼食をとっていると、遠野雅秋が現れた。


「よう」と彼は言った。


「……当然みたいにやってくるな」


「いけなかったか?」


「そういうわけじゃない」


 まるで俺がここにいて当たり前だと思われているような気がした。


「……ああ」


 そうか。


「五月も半ばか」


 俺の言葉に、遠野は静かに頷いた。そうだよな、と俺は納得した。


「そうなる」


「悪いな」


 と俺は謝った。結局、何の手伝いもできていない。


 遠野に手伝いを頼まれたのが先週のこととはいえ、漫研の例の決戦は六月の初めに行われるという。

 いくらなんでも期間があまりに足りなすぎる。


 仮に俺が原作を用意できたとしても、作業時間は明らかに間に合わないだろう。


 ……それって、どうなんだ? 

 

「助言だけでいいって言っただろう」


 遠野は気にしたふうでもなくそう言って、俺の近くにやってきた。

 それから俺の目の前に、紙パックを差し出した。


「なにこれ」


「カフェオレ。飲むか?」


「もらう理由がない」


「間違って買ったんだ」


「じゃあもらう」


 手にとると、遠野は少しほっとしたような顔をした。


「……」


 少しだけ、疑問に思う。

 そうだ。


 納得しかかったけれど、普通に考えて、おかしい。


 そもそも、間違っている。


「遠野、おまえ、俺に原作を頼みたいって言ったよな」


「……ああ」


「本当にそうなのか?」


「……どういう意味だ?」


 うまく整理がつかない。なんとなく、自分が言ってはならないことを言ったような気分になった。


 例のコンテストは来月の頭にあるという。

 遠野が俺に声をかけてきたのは先週のことだ。


「遠野、例の、漫研の、コンテストみたいなやつ。六月頭だったよな、やるの」


「……ああ」


「それって、それをやるって決まったのはいつなんだ?」


「……」


 文芸部の部誌作りでも、一月くらいは余裕を取る。集まりが早ければ二週間くらいでみんな原稿をあげるけれど、それ以上かかる場合のほうが多い。

 漫画の場合はストーリーを考えるだけでなく、演出やコマ割り、作画までやらないといけない。


 続き物の週間漫画でさえ、一週間で仕上げてくるプロは怪物のようにすら思える。

 素人が、一本の完結した短編漫画を作画まで仕上げるのに、三週間やそこらで済むものか?


「……四月の半ばだな」


「……」


「仮入部期間に、見学の新入生が来てた。そのときに、あいつが俺の文句を新入生に吹き込んでるのを聞いたんだ」


 それはまた、新入生は居心地が悪かったことだろう。

 とはいえ、問題はそこではない。


 開催が決まったのが四月の半ば。今現在が五月の半ば。つまり、もう一ヶ月が過ぎている。残り時間は二週間ちょっと。

 そして遠野が俺に協力を申し出てきたのは先週。


 ……なるほど。


 ──誰かに協力を求めるって考えたとき、おまえのことが浮かんだんだ。


 遠野はそう言った。

 

 最初からそう言っていたのだ。


 協力を求めると考えた時、俺のことを考えた、ということは、遠野は協力を必要としていた。

 そして、光栄と言うべきかどうか、最初に声をかけられたのは俺だった。


 だとすれば協力を求めることを考えたのは、おそらく、俺に声をかける直前か、その少し前くらいで、おそらくは先週のことだろう。

 それまでの間、遠野は何をしていたか? 何も考えていなかったわけがない。


「おまえ……まさかとは思うが」


 遠野は、何も考えていなかったわけがない。負けたくない勝負のはずだ。何も考えずにすごしていたわけがない。

 にも関わらず遠野は、 先週までの三週間の間、遠野は漫画づくりに着手できていない。

 俺に、その一月近くの間に考えていたストーリーの種や構想のかけらさえ伝えていない。


 なぜか?


 そんなものなかったからじゃないのか?

 ひょっとして──遠野はその一ヶ月の間、ストーリーのかけらさえ思いつかなかったんじゃないのか?


「……スランプか?」


 遠野の表情は変わらなかった。俺のほうが、寒気に似た妙な焦りを感じてしまう。


『協力を求めた』のは、自分の書きたいものに近付けるためではなかったんじゃないか。


 こいつは、何も思いつかなかったから、他人の助けを必要としたんじゃないのか?


「……」


 遠野は長い沈黙を落とした。

 それが答えのようなものだ。


「……」


 俺は返す言葉を失った。もう二週間しか期限がない。

 

 ちょっとした手伝いを求められただけだと思っていた。俺がいなくても、遠野は自分なりのものを書き上げるだろうと。

 そして、本来はそういうふうにして描くべきものなんだと、俺は思っていた。


 冗談だろ。


「……不思議だよな。何も思いつかないんだ」


 自嘲するように、遠野は笑った。


「……」


 ……なんとなく、妙な納得を覚える。

 

 だからこいつは俺に声をかけたのかもしれない。

 俺も似たようなものだから。


 でも、こればかりは、判断ミスだ。

 こいつは大野に声をかけるべきだった。大野ならば、原作なんて簡単に差し出せただろう。

 俺には、他人に差し出せるようなものは、ない。


 自分でさえも、何も書けていないんだから。


「あれじゃだめだとか、これじゃだめだとか、こうしなきゃとか、そういうふうに思ってると、わけがわからなくなってくるんだ。もう、何が描きたいのかもわからない」


 遠野の顔を見ながら、俺はその言葉をじっと聴いていた。


「それでも描かなきゃいけない。なんでかはわからない。勝負ってこともある。でも、とにかく俺は、こういうときにでも描かなきゃいけないんだ」


「……」


「描かなきゃって思うのに、なんにも思いつかない。このままじゃ、なんにも描けない。描けないなら描かなきゃいいじゃ済まないんだ。描かないことには戦えないし、まず、描かないことには気が済まない」


「……」


 ああ、ちくしょう。


 なんなんだ、こいつは。

 どうしてこうなるんだ。


「……遠野」


 名前を呼ぶと、彼はこちらをまっすぐに見た。俺はあぐらをかき、食べかけの弁当をとりあえず脇に置き、それから正面の地面を叩いた。


「……なに」


「座れ」


 遠野は素直に座った。差し向かいになって、俺と遠野は睨み合う。


「何日要る」


「なにが」


「描き終えるのにだ。話ができてから何日かかる」


「……」


 遠野は答えなかった。なるほど。余裕はまったくないらしい。


「今から作る」と俺は言った。


「……作るって」


「今ここで、話を考える」


「でもおまえ、書けないって」


 俺は胸ポケットから小さな手帳と万年筆を取り出した。ページを手繰り、文章のなりそこないの文字を無作為に眺めながら、めぼしいものを探す。


 ここ最近、俺は文章をまったく書いていない。


 けれど、思いついたこと、気にかかった言葉、使えそうなもの、こと、出来事、無作為な連想、音楽や本のフレーズ、誰かの表情、それを見たときの自分の感情、何もかもをないまぜにしてこの手帳に書き溜めてきた。

 出来上がったのは文章のなりそこないだ。生まなかった文章の素材たちを、俺はなにもかもすべてここに詰め込んできた。

 

「何かを書こうとする人間にとっては──」と、ひなた先輩は、いつだったか言っていた。「生活のなにもかもが文章の萌芽でしかなくなるんだよね」


 それは教えではなかった。ただ、当たり前に、「きみだってそうでしょう」と言うかのような、共感を求めるような言葉だった。

 そして、俺にとっても、事実そうだった。


 俺は既に、あらゆるものを"書きたいものを書くために使えるかどうか"というものさし抜きに眺めることができない。


 ……俺は何をやってるんだ? 

 自分だって書けないって、さんざん呻いていたくせに、どうして他人が書けないというだけでこんなに苛立ってるんだ?

 

「おまえには無理だよ」と誰かが言う。


「黙ってろ」と俺は言う。


 万年筆のキャップを外し、遠野の目を見る。彼はあっけにとられた目で俺を見ている。


 そうなんだよな、と俺は思った。

"俺には無理なんだ"。


「今すぐに考える。助言するだけだ。……おまえが考えるんだ、遠野」

 

 遠野は一瞬、気後れのような、複雑な表情を浮かべたけれど、すぐに真剣な顔で頷いた。



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