04-05


 普段はシャワーだけで済ませることが多く、ゆっくりと浴槽に浸かるということをあまりしない。

 

 そのせいなのか、たまに温泉に入ると本当に気持ちいいなと思う。こんなに気持ちいいことが世の中にあるだろうか。


 ほーっと息をつく。高い天井に立ち上る湯気、柔らかな照明。音の響きを気にするせいで、この場にいる誰もが言葉をあまり発さない。

 

 頭をぼーっとさせて心地よさに浸っていると、なんだかいろんなことがどうでもよくなっていく。

 いや、どうでもよくない、どうでもよくないのだ、と考える自分を今は押し止める。とりあえず今は温泉に浸かっているのだった。


 温泉は父の遠縁に当たる親戚の家の近くにある。家からは車で結構走るし、周囲には田んぼと畑だけで他にはなにもない。

 たいして広くもなければ小綺麗でもなく、ましてや施設が充実しているわけでもない。

 

 わざわざこっちに来なくても他にもたくさんあるのだけれど、昔から千枝はこの温泉を気に入っていて、我が家では温泉と言えばここに来ることになっていた。


 入り口にある河童の置物を見ると、千枝が子供の頃に怯えて施設内に入ろうとしなかったことを思い出す。

 泣いてわがままを言った千枝は、父に抱きあげられて無理やり連れられ、帰る頃には河童にあいさつをしていた。母はそれを微笑ましそうに眺めていた。


 ぼんやりと記憶が蘇るのに任せながら、意識の舵を湯気に任せて泳がせる。


 連想は踊る。どこかの薬局の軒先の蛙の置物。ケミカルにカラフルなガムが入ったガムボール・マシン。ひまわりの咲く丘。藤棚に飾られた水路。

 荒野に立つ一本の木、手頃な紐。コインロッカーの中の赤ん坊。


 それがなんなのかわからない。わからなくていい。

 記憶に意味も理由もない。ただ覚えているだけのことだ。


 宙ぶらりんになっていく。


 吸い殻を詰めた缶、さして見ごたえのない夜景、誰かがブルーハーツを歌っていた。

 時計のない部屋、開かない扉、引き伸ばされていく時間。誰かが部屋の中にいる。女だ。

 その女は部屋を出ないといけない。


 ……本当にそうなのか?


 もういいじゃないか。出れなくても。

 部屋の中にずっといたって、べつにかまわないじゃないか。


 忘れてしまって、他のことを考えよう。

 

 冷蔵庫のなかの野菜のことや……掃除機のフィルターのことや……万年筆……万年筆……。


 今俺は何を考えていたっけ。


 ……。


 今度は何をするかな、と俺は考える。


 わからない、と誰かが答える。


 もう行こう、と俺は言う。


 だめだよ、と声は言う。


 なぜさ?


"ゴドーを待つんだ"、と声は言った。


 そこでカッと意識が浮上した。まぶたを開いて光をとらえ、何度かまばたきをする。自分が眠りかけていたことに気付いた。

 

 いま俺は何を考えていたんだろう。


 わからないまま湯に浸かり、しばらくぼーっとする。


 人は一人もおらず、どうしてか自分が取り残されているような気分になった。

 

 曇った窓の向こうの夜空は、薄く鈍い光の粒を散らしたように白く濁って見える。俺は霧雨のことを思い出す。


 あと少しだという気がした。もう少しで何かわかりそうな気がしたのだ。でも今はもう、その尻尾すら見えない。

 まあいいや、と俺は思い、諦めてまぶたを閉じた。


「心地よい」と声に出してみると、もうあとは何も考えなくていいような気がした。そういう瞬間を俺は自分に許してもいいはずだ。

 そういう瞬間こそが足りないのかもしれない。





 

 湯を上がり着替えて廊下に出ると、すぐ近くの壁にもたれて千枝が立っていた。


「神田川」と千枝が言った。


「は?」


「いつもわたしが待たされた」


「何歳だおまえは」


 そもそも約束していない。


「お父さん、まだ?」


「出てないの?」


「わかんない」


「サウナかな」


「じゃあ、まだかかりそうだね」


 そう言って彼女は廊下を歩き、ゲームコーナーの方へと進んでいった。


「むかしはあっちがゲームコーナーだったよね?」


 と、千枝は廊下の反対側を指差した。そうだったような気がする。


「わたし、好きだったんだけどな」


「ワニワニパニック?」


「なくなっちゃった」


「悲しいね」


「悲しい」


 俺と千枝はふたりでゲームコーナーを眺めた。俺はUFOキャッチャーに小銭を突っ込んだ。アームはぬいぐるみを掴みそこなってむなしく定位置に戻る。

 興味深げに筐体内を覗く千枝の頭が近くに来ると、湯上がりの少し濡れた髪からシャンプーの匂いがした。


「ふむ」


 と俺は考えた。それはなんとなく意識してはいけない類のものだという気がして、距離を取る。


 千枝は「なに?」というふうに振り返って俺を見上げる。なんとはなしにその頭をぽんと軽く叩くと、彼女は不思議そうな顔をする。

 それから二人でコーヒー牛乳を買い、大広間の畳の上で休んだ。


「ふー」と千枝は長い息をついた。


「どうでしたか?」


「よい湯でした」と千枝は言う。


「うむ」と俺は頷いた。


 少し離れた机のそばで、近隣から来たらしい人たちが盛り上がっている。俺と千枝はそれを遠巻きに眺めながら、ぼーっとコーヒー牛乳の瓶を見つめた。


「お兄ちゃん」と、不意に千枝は口を開いた。


「ん」


「昨日、どこいってたの」


「ん、昨日」


「うん」


「えっと……映画見て、バイト」


「そのあと」


 ……ああ。


「バイト先の人と、カラオケ」


「……カラオケ? お兄ちゃんが?」


 心底不思議そうな顔をされた。


「俺だってカラオケくらい行く」


「……そうなんだ」


 カラオケかあ、ふうん、と何度か千枝は頷いていた。どうしたっていうんだろう。


「お兄ちゃんは……」


「ん」


「ん……」


「なんだよ」


「なんでもない」


「……なんでもないですか」


「うん。なんでもない」


「……そう」


 少しだけ沈黙が落ちる。耐えられなくなったのは俺だった。


「ブルーハーツのさ」


「ん?」


「ブルーハーツの、『ロクデナシ』って曲、知ってる?」


「……知らない」


「だよな」






 昨夜、あの煙で充満した部屋で、なにかの話の途中で、道塚は誰かの肩を思い切り叩いた。「痛えよ」と誰かが笑っていた。

 道塚は言った。大丈夫だって、ブルーハーツが歌ってたろ。「なんて」、と誰かが言う。

「痛みは慣れちゃえば大丈夫って」道塚はそう言った。ギンジは冷めた目で道塚を見ていた。


「それさあ」とツバキが言った。「中学んときにさ、よく言ってたよね」

 そうだっけ、と道塚は言った。

「うん」とツバキは頷いた。「染谷いじめてるときに言ってた」


 いじめてねえよ、と道塚が言う。「えー、染谷かわいそうだったじゃん」

「あいつが悪いんだよ。むかつくことばっかいうから。だからいじめてただけで」

 いじめてたんじゃん、とツバキが笑った。


 そのあとギンジが『ロクデナシ』を歌った。問題の箇所はこうだった。


『痛みは初めのうちだけ/慣れてしまえば大丈夫』


 でもそれには続きがあった。


『そんな事言えるアナタは/ヒットラーにもなれるだろう』


 道塚はリズムに乗って体を揺らしながら携帯をいじっていた。

 



「その曲が……?」


 どうしたの、というふうに、千枝は首をかしげる。


「……いや」


 なんでもない、と今度は俺が言う番だった。


 千枝は俺の目をじっと見てきた。少しうろたえたあと、負けてなるものかと思って静かに見返す。

 たっぷり十秒くらい見つめ合ったあと、千枝はふっと口元を緩めた。


「なに?」


「そっちこそなんだ」


「なんでもないよ」


 少し上機嫌な声音でそう呟いて、また一口彼女はコーヒー牛乳に口をつけた。


 あの瞬間、悲しくなったのはどうしてだろう。

 あんなことはありふれたことのはずなのだ。


 千枝がまた口を開いた。


「お兄ちゃんは……」


「ん」


「最近、調子悪そう」


「そんなこと……」


「ある」


 と、妙にはっきりと、千枝は断言した。


「わたしは……」


 少しだけ、言いにくそうな顔をしたあと、小さな声で、


「……心配、しています。勝手ながら」


 目をそらしながら、千枝はそう呟いた。


 ちょっと面食らったあと、俺は笑った。


「心配、していますか」


「……はい」


 千枝はなぜだか気まずそうで、しかも敬語だった。


「……その。それは、お兄ちゃんに彼女ができたのと、関係あるんですか」


「……ええと」


「その。差し出がましいようですが……」


 妙に丁寧だ。


「……」


 そもそも俺、千枝に彼女ができたって教えたっけ。

 教えてないような気がしなくもない。どうだろう、よく思い出せない。


 さて、どうなのだろう、と俺は考える。


 言葉にできるだろうか。うまく言葉になってくれるだろうか。

 そもそも俺は、自分の感じていることを、ちゃんと把握しきれているのだろうか。


 わからないけれど、今俺は、心配されているのだ。


「すごく、抽象的な言い方になるんだけど……」


 と、俺は前置きした。


「うん」と、千枝は頷いた。


「ひょっとしたら、伝わらないかもしれないんだけど……」


「うん」


「笑ってくれていいんだけど」


「うん」と、彼女は頷く。


「いいよ」と笑う。


「話して」


 どんな言葉なら、十分に伝わるんだろう。


「誰かと付き合い始めたからとか、その相手がどうとかじゃなくて、実際のやりとりがどうとかじゃなくてさ」


「……うん」


「楽しいし、幸せなんだよな、たぶん。でも、なんでか、わからないんだけど……」


 どうしてなんだろう。


「幸せになることで、何かを忘れてしまいそうで怖いんだ」


「……何か、って?」


「わからないけど……」


 戸惑ったような顔で、千枝は俺を見た。


 その『何か』を忘れてしまったら、俺は書けなくなる。

 書けなくなったら……。


 でも、それはたぶん、俺を立ち止まらせている理由の、いくつかのうちのひとつに過ぎない。

 あるいは、出発点に過ぎない。今、言葉にして、そう思った。


「だから俺は……」


 幸せになりたくない、と、そう言いかけて、やめた。

 それは言ってはいけない。俺は、そう言ってはならないし、言いたくない。


 そう言った瞬間、俺は何かを失う。

 千枝は、少しだけ苦しそうな顔をした。どうしてなのかは、俺にはよくわからない。


「……お兄ちゃん」


「ん」


「わたし、お兄ちゃんの彼女さんに会ってみたい」


「……は?」


「だめ?」


「……や、駄目とかではないけど。なんで急に」


「……なんとなく?」


 小首をかしげられて、こっちが戸惑う。


「……機会があったら」


「今度聞いてみてね」


「……今度な」


 俺はそこで話を打ち切った。父は十分程経ってから大広間にやってきた。


 しばらく休んだあと、俺たちは車に乗り込んで温泉をあとにした。帰りの車のなかで、千枝は俺の肩を枕にして眠っていた。



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