04-04


 そのあと俺は泥のように眠り、雪山で二匹の猿が踊る夢を見た。目を覚ましたのは午前十一時頃で、寝すぎたと思ったけれど、時間だけで見ればそれほどでもなかった。ただいつもより頭が重く、目が開かず、全身が軋んでいるだけだ。

 カーテンを開ける気にもなれなかった。俺は床の上に放り投げたままにしていた鞄をベッドの上から手繰り寄せ、その中からノートと万年筆を取り出した。

 カーテンの隙間から扇形に差し込む光の余波で照らしてノートのページをめくる。それから自分の書いた文章の残骸を頭の中で精査しようとする。


 紙とインクのコントラストが解読不能な幾何学模様のように思える。何を書いたところで何の意味も生まれないような気がする。何もかもが自分自身のからっぽさをむき出しにしているようにも思える。まるで骨の透けた半透明の淡水魚になったような気分だった。


 俺は諦めて万年筆を握る。

 そしていくつかの文章のかけらを書き殴るようにしてノートに傷をつける。


 昨日のことを思い出し、明日のことを考える。そうしながらまったく関係のない言葉の種子を万年筆で書き記す。

 忘れるために、忘れないために、そのどちらなのかもわからない。


 少しして、ノックの音が聞こえた。


「起きてる?」


 どうしようか迷ってから、俺は返事をした。


「起きてる」


 ドアが開いて、向こうから千枝が姿を見せた。


「おはよう」


「おはよう」と俺は返事をした。


「昨日何時に帰ったの?」


「何時……?」


 何時だったっけ。朝の六時は回っていた気がする。


「覚えてない」


「……」


 千枝は何かを言いたげな顔をしたけれど。結局何も言わなかった。


「今日はバイト?」


「いや、休み」


「そっか」


 それだけ言うと、千枝は背を向けて部屋を出ていった。……わざわざ様子を見に来たんだろうか。

 あくびをひとつして、万年筆にキャップをする。それからカーテンを開けた。空は薄曇りのようだった。

 課題、勉強、部誌、それから遠野の漫画。やらなきゃいけないこともやるべきこともたくさんある。考えるのはいつも同じことだ。


 


 悪あがきのように文字を連ねてみても手応えは感じられなかった。頭がしびれるような疲れを訴えてきたので、ノートを閉じてようやくベッドを抜け出す。


 部屋を出てダイニングにむかうと、父がひとりテレビを見ていた。


「おはよう」


「もう昼過ぎだぞ」


「たしかに」と俺は曖昧に頷いた。テレビは旅番組をやっている。父はそういうのが好きなのだ。


「千枝は?」


「友達と会ってくるって言ってたな。昼、どうする?」


「……ん。どうするかな」


「食いに行くか?」


「……なにを?」


「寿司」


「寿司」


「食いたい」


「千枝がすねるよ」


「言わなきゃバレない」


「俺が言う」


「寿司が食いたくないのか?」


 結局五分で支度をした。





 父の車に乗っている間も、店についてからも、俺も父もほとんど会話らしい会話をしなかった。父は基本的に俺の生活に干渉してこない。何をしろとも何をするなとも言わない。


 二人きりになったとき、何を話せばいいのかもわからない。


 父は「美味いか」と俺に聞いた。「美味い」と俺は答えた。


「……やっぱり千枝に悪い」


 俺がそう言うと、「食ってから言うな」と父は言った。


「今度千枝も連れてくればいい」


 それに、と父は言った。


「あいつはそんなことで腹を立てたりしないだろう」


 たしかに、と俺は思った。





 ところが夕方帰ってきた千枝に寿司を食べてきたと報告すると、彼女は大いに立腹した様子だった。


「ふたりでお寿司ですか」


 と千枝は言った。俺はなぜかフローリングに正座した。


「はい」


「わたしが出かけているときを見計らって」


「……」


 父が何も言わずに緑茶を啜った。俺もまたそれに倣って返事をしない。


「……」


「……」


 そして千枝も何も言わなかった。


「お父さん」


「はい」と父は返事をした。


「わたしは今晩温泉につかりたい気分です」


「……」


 もちろん父は逆らわなかった。



 まだ少し明るい夕方の県道を、父の車は走り出した。昨日から車に乗ってばかりだという気がする。自分自身は動いても歩いてもいないのに、座標だけが移動していく。助手席に座った千枝は奇妙に上機嫌で、俺は少しだけほっとしている自分を発見する。


 後部座席に腰掛けて、徐々に色濃く暗くなっていく空を眺めながら、まぶたが重くなるのを感じる。徐々に時間の感覚が曖昧になり、何も考えられなくなっていく。かろうじてまぶたを開こうと逆らいながら、意識の半分はもう夢の中にいる。車の振動で一瞬はっとしたとき、何か喜ばしいことが起きていたような気分になったけれど、その内容が思い出せない。それを思い出そうと苦心しているあいだに、また眠りかけていた。


 目的地に辿り着いてから、俺は千枝に声をかけられて目を覚ました。そのときはちゃんと夢の内容を思い出せた。無人島で自給自足の生活を送る夢を見ていた。車を降りてからも、体のだるさはどうしてもとれない。温泉というのも、いいアイディアだったのかもしれない。


「ひさしぶりだね」


 と千枝は言った。たしかに、と俺は思った。


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