04-07


「何を描く」


 と俺は問いかける。遠野はためらうように言葉を返してくる。


「言ったろ。何も思いつかないんだ」


「かけらひとつもか」


「かけらひとつもだ」


 俺は頷いた。そういうものだ。


「制限をつけろ」


 と俺は言った。遠野は複雑そうな顔をした。


「これでもいろいろ試したんだ」


 当たり前のことだと俺は思った。そうじゃなきゃいけない。


「いろいろ試して駄目だったんだ。駄目でもともとだと思ってやろうとしてみろ」


 結局彼は頷いた。


「人間は出るか」


「……ん」


「人間が出てきそうか? おまえが描くものには」


「それは……出るだろうな、おそらく」


 当然のことのように頷いてから、遠野は眉を寄せた。そして直後、納得したように頷く。


「たしかに、人間は出る」


 その時点でもうゼロではない。


「年齢や職業は?」


「……学生」


「性別」


「男……いや、女でもいい」


「じゃあ、性別は後回しだ。そいつはどこにいる?」


「どこ?」


「屋内か、室内か」


「そんなの……そんなの、ストーリーによるだろ」


「後にしろ」と俺は言う。


「先にイメージをしろ。そいつはどこにいる? 男か女かわからないが、とにかく学生だ。そいつがどこかに立っているとしたら、どこに立っている?」


「……」


 遠野は十秒ほど悩んだあと、振り絞るような呟きをいくつか漏らす。


「教室……家の居間……夜の公園……いや」


 と、彼ははっきりと言葉を区切り、


「キッチンだ」


 と呟いた。


「学生はキッチンに立っている。料理でもしてるのか?」


「……違う。湯を沸かしてる」


「何のためにだ?」


「……何のために? お湯が必要だからだろうな。……お茶かコーヒーでもいれようとしてるのか」


「だとすると、来客があるのか?」


「……いや。違うな」と遠野は言い、


「カップ麺でも作ろうとしてるのかもしれない。そいつは来客のためにわざわざコーヒーを淹れるような人間じゃない」


 出てきた、と俺は思う。引きずり出せ。


「カップ麺は食事だろうか? それとも間食だろうか?」


「……なあ、それは重要なのか?」


「何が重要で何が重要じゃないかはあとで決めればいい」


「……夜食だな」


「性別はどうだ? まだわからないか?」


 遠野は少しの沈黙の後、確信のこもった声で答えた。


「女だ」


「女か」


「……ああ」


 オーケー、と俺は頷く。そしてまとめる。


「学生の女だ。夜食にカップ麺を食おうとして台所でやかんに火をかけてる。夜食を食べようとしてるんだから、少なくとも夜、あるいは夜更け頃だろうな」


「ああ」


 そう、そいつが出てくる。


「そいつは何を考えてる?」


「何を?」


 遠野は少しの間考え込んだ。


「何を……考えてるんだろうな?」


 我慢ならないというふうに、遠野が首を振った。


「なあ、これでどうなるっていうんだ?」


「"いいから続けろ"」と俺は言う。


 遠野は一瞬だけ黙った。それから続けた。


「何を続けたらいいんだ?」


「環境はどうだ」


「環境?」


「寒いか、暑いか、ちょうどいいか」


 俺が言い切るより前に、彼は答えた。


「"寒い"」


「冬か?」


「いや、冬ではない。……秋だ」


「気になるのは寒さだけか?」


「……寒さだけ?」


「ただ、寒さだけを気にして、やかんの前に立ってるのか?」


「……いや、"上の空"だ」


「なぜだ?」


「……わからない」


「上の空ってことは、目の前にある何か以外のことに気を取られてるってことだ」


「そうなる」


「それがなぜかは、わからない」


「……ああ」


 オーケー、と俺はもう一度言う。


「続けよう。そこで何が起きる?」


「起きる?」


「夜の少し肌寒い台所で、夜食のカップ麺に使うお湯が湧くのを待っている。何が起きるだろう」


「……」


「誰かがやってきたりするだろうか? それとも来ないだろうか?」


「来てもいいし、来なくてもいい」


「じゃあ、来る方を検討しよう。来るとしたら誰が来る?」


「普通に考えたら、家族だろうな」


「親か?」


「……いや」と遠野は言う。


「親は眠っている」


「じゃあ誰だ?」


「きょうだい……」


「誰でもいいんだ」と俺は言う。


「クラスメイトでもいい、知らない外国人が突然あらわれてもいい、猫でもいい、ハムスターでもいい」


「ハムスター?」


「たとえだ」


「どうして夜のキッチンにクラスメイトがあらわれたりするんだ?」


「当たり前じゃないことが起きたって問題ない。問題なのは、"そこに現れるのが誰なのか"をおまえが決めることだ」


「……」


 遠野の表情は、徐々に遠くを眺めるような顔つきに変わっていく。何か不確かなものをつかもうとしているように、彼の手が不意に握りしめられる。


「姉だ」と彼は言った。


「現れるとしたら姉だ。階段を降りてくる。灯りのついているキッチンにやってきて、彼女に声をかける」


「どんな?」


「まだ起きているのかと言う」


「彼女はどんな反応をする?」


「どんな?」


「夜食を作ろうとしていることを見咎められて気まずい思いをするのか、まったく気にしないのか」


「……」


「姉との関係はどうだ?」


「悪くはない」


「良好か?」


「普通だ」


「普通ね」


 普通とはなにかについて、今は考えないことにした。


「じゃあ、彼女は姉があらわれたことをどう思うんだろう?」


「……どうだろうな。どうとも思わないんじゃないか」


「どうとも思わない」


「というより……他のことに気を取られている」


「上の空か」


「ああ」


「何かを悩んでるんだろうか」


「そうだな、何かを悩んでいる」


「何について?」


「何についてだろう」


 遠野の目は徐々に曖昧にぼやけていく。どこかに沈み込んでいくみたいに澱んではっきりとしない。


「わからない」


「恐怖か? 後悔か?」


「違う。もっと曖昧だ」


「不安か?」


「不安……そう、不安だな」


「何を不安に思ってるんだ?」


「具体的な出来事についてじゃない。もっと漠然とした不安だ」


 オーケー、と俺は呟く。そして整理する。


「夜、肌寒さのなかキッチンに立ち、やかんに火をかけながら、漠然とした不安にとらわれている。それで姉に声をかけられても上の空の返事しかしない」


「そうなる」


 オーケー、ともう一度繰り返す。


「姉は彼女が何かの不安にとらわれていることに気付くだろうか?」


「おそらく気付く」


「気付かない可能性もある?」


「気付かない可能性もある」


「外から見ただけでははっきりとはわからないような不安の感じ方をしている。ただ上の空だとはわかる?」


「そうだな、生返事であることはわかる」


「何か気もそぞろな様子に見える」


「そう、なにかに気を取られて目の前のことに意識が半分しかいっていないことが分かる」


「やかんの湯が沸いたことにも気付けない」


「そうなる」


「姉はお湯がもう沸いていると言う」


「言うだろう。そして彼女は気付く。湯が沸いていることに気付き、火をとめ、カップ麺に湯を注ぐ」


「オーケー」と俺は言う。


「キッチンに立つ彼女は上の空でやかんに火をかけている。姉がやってくる。彼女は上の空で湯が沸いたことに気付かない。姉がそれを指摘する。彼女は火を止める」


 遠野は考え込むように頷いた。


「姉は彼女がなにか思い悩んだ様子だと察するかもしれない。それについて姉は何かを言ったり訊ねたりするだろうか」


 俺はなお問いかけを続ける。


「直接訊いたりはしない。彼女はキッチンからダイニングに移動し、テーブルの上にカップ麺を置く。カップ麺の出来上がりを待つ」


「姉はどうする?」


「姉は彼女の様子を見ている。時計をちらりと見る」


「何時だ?」


「十一時半」


「彼女はどうしてそんな時間まで起きていて、まだ眠らずにいるんだろう?」


「"眠れなかったんだ"」


 オーケー、と俺は頭の中で繰り返す。


「彼女は"眠れなかった"。どうしてだろう? 何か不安で眠れなかったんだろうか? それとも眠れなかったことに不安になっているんだろうか?」


「両方かもしれない。けれど、どちらかというと、不安だから眠れない、というほうに近い」


「"何か漠然とした不安を感じたせいで眠れず、彼女は空腹を覚え、カップ麺を食べようと思い立った"」


「そうなる」


「姉は彼女のそのふるまいに違和感を覚えるだろうか?」


「行為自体には違和感を覚えない」と遠野は言う。


「彼女が夜中に腹をすかせて夜食を取ることはおそらくさほど珍しいことではないのだろう」


「けれど姉は彼女の様子が少しいつもと違うことに気付く」


「そう。そのくらい上の空だ」


「彼女がそんなふうに上の空になることはやはり珍しい?」


「そうだな、おそらく珍しいことだろう」


「だとすると、彼女の悩みは日常的なもの、普段から存在するものではなく、その夜にだけ存在するものなのだろうか?」


「……少し違う」と遠野は言い、言葉を重ねる。


「彼女の不安は日常的に存在している。大きくなったり小さくなったりを繰り返しながら彼女の中にある。それがその夜不意に目に見える態度にあらわれた」


「あるいは何度かそれまでも目に見える態度にあらわれていたことはあったかもしれない」


「あったかもしれない。けれどそのときは姉に見つかり、姉はそれに気付いた」


 オーケー。


「彼女は自分の不安の原因を理解しているんだろうか?」


「理解していない。もちろん。そうでなければ不安はただの不安であって、漠然とした不安とは呼ばれない」


 オーケー。


「"彼女は理由のわからない不安を感じている"。姉もまたその正体はわからないが彼女の様子がおかしいことに気付く」


 トートロジーのように同じような言葉ばかりを繰り返していく。そしてゆっくりと奥ヘ奥へと進んでいく。


「彼女が感じているような不安について、姉は知っているだろうか? 姉もまたそうした不安を経験したことがあるだろうか? それともないだろうか?」


「わからない」と遠野は言う。


「姉がそうした不安を感じたことがあるかどうか、わからない」


 オーケー、と俺は呟く。それでかまわない。


「彼女はカップ麺の出来上がりを待っている。やはり上の空だろう。姉はどうする?」


「……」


「そもそも姉は何をしにキッチンにやってきたんだろう? 彼女は眠っていて、たまたま目がさめたのか、それとも起きて何かをしていたのか?」


「姉は……」


 少し間が空いた。遠野はじっと目を瞑り、口を半開きにして何かを言いかけるような素振りを見せる。それが何度か繰り返された。


「眠っていて、喉に渇きを覚えてキッチンにやってきた……あるいは、姉もまた眠れなかった」


「どちらだろう?」


「……姉は"眠っていて、たまたま喉の渇きを覚えて起きてきた。キッチンには水を飲みに来た"」


 オーケー。


「上の空の様子の妹を見て、姉は少し気にかける。やかんの湯が沸いたのにも気付かないくらいだから、ちょっと心配になったんだろう」


「そういうこともあるだろう。そのまま放っておいたら麺を伸ばしてダメにしかねない」


「そうなる。実際にそうなったら少しおもしろいかもしれないというような感情もあったかもしれない」


「それは実際にそうなるんだろうか?」


「そうなる。姉はもう十分な時間が経ったことを妹に伝える。妹は言われて気付き、カップ麺の蓋を開ける」


「姉はそのあとどうする?」


「さすがに妹が上の空であることを指摘するだろう」


 オーケー。


 と、そこで予鈴が鳴った。


「……時間だな」


 遠野は戸惑ったように顔を上げ、俺を見た。俺は食べかけの弁当をしまい、手帳と万年筆を胸ポケットにしまう。


「続きは放課後にしよう」


 そう言って俺が立ち上がってからも、遠野は何か気にかかることがあるような顔で俺の方を見ている。


「どうした?」


「……いや。どうだろう。これって、物語になるんだろうか?」


「後で考えろ」


 彼は俺を見る。俺は彼を見ている。彼が考えていることが、どうしてかわかるような気がした。


「"何も思いつかない"よりずっといい」


 彼は不安げに頷いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る