05-05



 翌朝、遠野が俺の教室までやってきて、一冊の大学ノートを俺に差し出した。俺はページを開き、一通り目を通したあとそのまま受け取って、「昼休みに屋上で」と言った。遠野は頭痛をこらえるような顔つきで小さく頷くと、ふらふらと教室を出ていった。


「なにあれ」と森里が言った。


「さあ」と俺はとぼけた。


 そして昼休みの屋上で、遠野はフェンスにもたれて目を閉じて休んでいた。


「疲れてるみたいだな」と声をかけると、それさえもようやくと言った様子で彼は瞼を開く。


「おかげさまでな」と彼は言う。


「調子はどうだ」


「おかげさまで」と彼は繰り返した。


 正午過ぎの太陽は静かに空に浮かんでいる。そのあたたかさに静かな後ろめたさを覚えながら、俺は彼の傍まで歩いていった。


「眠そうだな」


「眠ったんだけどな」


「何時間?」


「三時間」


「粘ったな」


「割とな」


 俺は遠野に手渡されたノートを広げる。最初の数ページでは、言葉と絵があちらこちらに散らかっていた。そのあとには、人物の簡単なデザインだろう。何度も描き直された形跡があって、それが次のページに持ち越されてまた描き直されている。それが数度繰り返されていた。


「詐欺にでもあった気分だ」と彼は言う。


「こっちの台詞だ」と俺は言った。彼は意外そうな顔をした、ように見えたけれど、日の光が目にしみただけなのかもしれない。


「なにが」


「昨日来なかったから、逃げたんだと思ったんだ」


「ああ、悪かったな」


 たいして悪びれた様子もなさそうに、遠野は笑った。


「逃げたと思ったか」


「逃げたと思ったよ」


「それは悪いことをした」


「で、何が詐欺みたいだって?」


「おまえのやりかただよ」


「……何が詐欺みたいなんだ?」


「いや、言う通りだった」


「……なに?」


「何も思いつかないよりずっといい」


「そうかい」


「それで、どう思う?」


 俺はノートのページをめくる。ネームというものなのだろう。描き込みは少なく、状況がうまくつかめない箇所もある。本人がわかればそれでいいのだろう。コマ割りと台詞はある程度かたまっていたけれど、空白になっている部分もあった。それでもおおまかな流れは出来上がっている。


 キッチンの少女。湯を沸かしている。姉が現れる。俺たちが十数分考えたあの話は、今となっては冒頭にすぎない。けれど、場面は変わらない。劇的な変化は起こらない。淡々とした雰囲気で、淡々とした会話と淡々とした日常の間に物語らしきものが浮かび上がってくる。登場人物は主人公と姉のふたりだけ。時間は夜。場所はキッチンと繋がったダイニングルーム。起きるのはほとんど会話だけ。動きは少なく日常的で、漫画的と言っていいのかはわからない。

 一幕劇。


 これは正解だろう。昨日の話で遠野がこだわったのは、「その日、彼女を支配した不安」についてだ。だとするなら、その日の彼女がその不安について語るのが適している。


「足りないな」


 と、それでも俺は言った。遠野は短く頷いた。


「そう、俺にも分かる」


 それから彼は二、三度まばたきをしてから首を回した。


「佐伯、あれ貸してくれ」


「あれ?」


「おまえの手帳」


「ああ」


 俺はさして考えずに手帳を取り出して彼に渡した。そのとき、一緒に入れておいた万年筆が落ちそうになった。


「あ」


 と俺は声をあげる。落としてなるものかと何度かお手玉するような格好になり、どうにか掴み上げたけれど、そのときに万年筆のキャップだけが外れてしまった。


「大丈夫か?」


「……問題ない。と、思う」


 不意に、奇妙な熱のようなものが頭の奥の方で広がった。思わず額を抑え、瞼を閉じる。ゆっくりと呼吸を整えてから、万年筆の様子を見る。あまり触れたことがないから知らなかったが、ずいぶんデリケートな代物らしく、扱いには注意しているつもりだったのだけれど、これじゃこのさきも心配だ。今掴んだ衝撃でインク漏れしたりは、さすがにしないと思いたいが。


 さいわいキャップも地面に転がっただけで、問題はなさそうだった。あとは様子を見るしかないだろうか。拾い上げるときに、やはり何か奇妙な感覚があった。


「『肝心なこと』が掴めてないんだ」と遠野は言った。そうして手帳をめくりはじめる。俺は自分の身に何が起きたのかを考える。


「……肝心なことね」


「それがわからなけりゃ、どうしようもない」


「……そう、そうだな」


 そのとおり。


「何も思いつかないよりマシ」とはいえ、物語としてアイディアを成立させるためにはプロセスがいる。なんでもかんでも書けばいいということにはならない。そこには材料があり、手順があり、決まりがある。


「佐伯はどう思う」


「なにが」


「肝心なこと」


「ああ」


 ……肝心なこと。


 少女の不安、その由来。それが解決するのかしないのか、どうすれば解決するのか。わからないからこその不安だといって、それをそのまま描くのも悪くはないだろうが……。もし、俺が遠野の立場で、その不安の理由を決めていいのなら、俺はどうするだろう。


 俺なら、どんな不安について語ろうとするだろう。いくつかのことを思い出す。開かない扉、堂々巡り、人型のロボット。蝉の抜け殻、愛されずに死んだ猫、忌み嫌われた怪物。大きな樹と、静かな海。そのどれもが、適切であるような気もする。けれど、本当にそうだろうか。それはひょっとしたら、表面的なことかもしれない。もっと根本的なところに、問題は潜んでいる。それはずっとそこにあって、今もここにある。それをどう言語化すればいい? それはどんな言い方ができる?


 堂々巡りが続くのは、扉が開かないのは、愛されずに死んだ猫のことを考えるのは、忌み嫌われた怪物に自分を重ねるのは、海が静かなのは……。


「……"自分が誰かにとって必要な人間だと、どうしても思えないから"」


「……」


 遠野は考え深そうに溜め息をつく。俺の頭のなかで、何かが鳴り響いたような気がした。これは違う、と俺は思う。そう、これは違う。何が違うんだろう。違わない。問題の解としては適切だ、けれど……。


「……これはダメだな」と俺は言う。


「どうしてだ?」


「これは……剽窃だ」





『自分が誰かにとって必要な人間だって、どうしても思えないんだ』


 という台詞は、昨日途中まで読み進めた「花束のつくりかた」の中にあった一節だった。その一節を読んだとき、俺はあの本を買ったのがたしかに俺だったのだと分かった。その文章に見覚えがあったからだ。俺は本屋で平置きされていた「花束のつくりかた」を手に取り、何気なくそのページで目をとめ、そしてその一文に惹かれて本を買ったのだ。そして今、俺はそれを自分が思いついたかのように呟いた。そういうことが頻繁にある。文章を書き散らしていると、以前どこかで読んだ文章と、以前どこかで書いた文章を区別するのが難しくなる。昨日、部室から出たあと、廊下を歩きながら藤見が鼻歌をうたっているのを聴いて、俺が思い出したのはゴーイングステディの「銀河鉄道の夜」だった。森里が聴いていて、たまたま耳にして気に入ったのだけれど、彼は俺にこう言った。「この曲はパクリらしいな」「それはそれとして、俺は好きだけど」。少し気になって、あとからネットでそれについて調べてみた。出てくるのは大抵、個人のブログやサイトに書かれた批判的な意見だったけれど、調べているうちに、本人がそれについてのインタビューに答えている記事を見つけた。そこには、衒いのない言葉が載っていた。「たしかに何かに似てるような気がしたけど、メンバーの間では「似てるね」で終わった」「メロディーの大部分が重なっていたとしても、全体の構成が違うのならば、それは違う曲だろうと考えた」おおまかに言うと、そういう種類の内容だった。


 一面的には正しく、一面的には間違っているかもしれない。そのことについて、俺はあれこれと語るような立場にはない。俺にとって重要な問題は、剽窃だと騒がれていた当人たちが、『それを意図的に剽窃しようとしたわけではない』ということだ。彼の言葉を信じるならば、『出来上がったメロディーが結果的に他の楽曲に似ていて』、『その着想に際して他のアーティストの楽曲のイメージが紛れ込んでいた可能性はある』。それが意識的でなかったにせよ。


 このことを考えると、俺はどうしても不安になる。俺の中にはオリジナルなものなんてない、そう分かっているつもりでも、あらゆることに自信が持てなくなる。


 俺が書いている文章は、本当に俺が考えた文章だろうか。

 

 のみならず、俺の考えは、俺の悩みは、俺の態度は、俺の中の、俺が俺だと思っているあれこれすべては、何かからの借り物なんじゃないか。

 そんな不安が湧いてきて、なにひとつ覚束なくなる。




「剽窃」と遠野は繰り返した。


「……」


 そして、彼は言う。


「いや、いい」


「……いい?」


「べつに、そのまま使うわけじゃない。イメージとして、まとまっていればいい。それに、俺は納得がいった」


「……」


「今度はそこから広げて落とし込まなきゃいけない。細部にこだわっている時間はない」


「……そう」


「納得いかなそうだな」


「……まあな」


「まあ、べつにおまえがパクるわけじゃない。それでも俺から言えることがあるなら……」


「……あるなら?」


「あまり気にするな」と彼は本当にどうでもよさそうにいった。


「べつに書いたものの中に登場させたわけでもないだろう。それに、おまえが今その言葉を思い出したのは、結局、その言葉がおまえのなにかに引っかかったからだろ。だったら、その引っ掛かりはおまえ自身のものだ。あとはおまえのやり方で消化すればいいだけだ」


「……」


「とりあえず、俺はそれで考えてみる」


 そう言って遠野は、俺の手からノートを取り、かわりに手帳を返してから、少し早い歩調で振り向きもせずに屋上を後にした。置いていかれた俺は、手帳を受け取った手の中にキャップを握ったままだったことに気付き、万年筆に蓋をした。頭がしんと冷えていく。何かを思い出せそうな気がしたけれど、すぐにまたわからなくなってしまった。



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