05-04


 部室に戻ると、大澤はいつもの定位置に座っていた。俺がドアを開けた瞬間に、待ち構えていたように目と目が合う。


「おう」


 と彼は言う。


「ああ」と俺は頷いた。


 大澤は曖昧に笑ったまま、視線をそらした。俺は自分のパイプ椅子に腰掛ける。


「なんだよ、急に」


「ちょっとな」


 大澤はそう言ったきりしばらく黙っていた。俺は何を訊ねるべきかもわからずに黙っている。そのまま数分が過ぎ、いい加減そうすることにも飽きてきた。


「最近はどうだよ」


「ん」


 最近? と大澤は首をかしげた。


「西村とか」


「ああ」と大澤は妙な笑い方をした。


「まあ、普通だな」


「ふうん」


「おまえは?」


「なにが?」


「先輩と、どうなんだよ」


「どうって……」


 俺は少しだけ考えた。


「……まあ、普通だな」


「そうか」


 聞いたくせに、大澤はどうでもよさそうだった。それもお互い様だ。


「なあ」


「ん」


 何かを言いかけて、大澤はまた黙る。俺は少し疲れてきた。


「なんだよ」


「……ああ、うん」


 小さくそう頷いたあと、


「リバーシでもしないか」


 と、大澤は言った。





 文芸部の部室にはリバーシのボードが置きっぱなしになっている。誰かがずっと前に持ち込んで、そのままにしてあるのだ。誰のものでもないから、誰も持ち帰ろうとしない。大澤は長机の上に盤を広げる。俺は長机を挟んで大澤と向かい合う。彼は俺の方を見ないようにしているみたいだった。

 盤の中央に白と黒の石が互い違いに置かれる。


 リバーシ、と俺は呼んでいたけれど、厳密にはこれはオセロに当たるという。その差の詳しいところはわからない。でも、オセロという遊びの名前の由来がシェイクスピアの戯曲であることは知っている。「オセロ」は奸計と嫉妬を描いた四大悲劇のひとつだ。


「さて」と大澤は黒石を掴んだ。俺は黙って彼がどこに置くかを眺める。べつにどちらもオセロに詳しいわけじゃない。たいした勝負にもならないだろうに、大澤はしばらく考え込んでいた。


「ここだな」


 と、ひとつ目の石が置かれる。白石がひとつ減り、黒石がふたつ増える。さて、と俺は考える。


「……なんで急にオセロなんだか」


 詳しい者なら、序盤の打ち方でも差がわかるものなのだろうが、俺にはわからない。ただ相手の石を減らせるところに置くだけだ。俺が打つのを見てから、「そういえば」と大澤は声をあげた。


「グリーンアイドモンスターってのは、シェイクスピアのオセローが元ネタなんだったっけ?」


「"目なじりを緑の炎に燃えあがらせた怪獣"か?」


 大澤はさして悩んだ素振りもみせずに石を置く。俺は返事をしながら少し考えて、どう攻めたものかを迷った。


「そう」


「……たしかそうだったと思うけど」


「ふむ」


「わからん」


 結局、正しいのかどうかもわからないまま、お茶を濁すように石を置く。様子見のつもりで、なるべく角には近付かない。

 大澤は盤面を見つめたまま、


「"何かあるから嫉くのではない、嫉かずにいられないから嫉くだけのこと、嫉妬というものはみずから孕んで、自ら生まれ落ちる化物なのでございますもの"」


 と諳んじた。それからやけにさめきった表情で石を置く。大澤は俺のような様子見を好まないのか、堂々と角へと近付いていく。俺は誘導されかかっていることに気付く。


「西村が嫉妬深いのか?」


「ん?」


 一瞬彼はきょとんとして、


「ああ、そういうわけじゃない」


 少しだけ笑った。


 俺は白石を指先でつまみあげ、手の甲に顎をのせて盤面を見る。どうも流れがよくないような気がした。


「あいつは悪くない」


「……」


 まるで、自分が悪いと言っているみたいな言い草だ。


「喧嘩でもしたのか」


「いいや。そうじゃない」


「じゃあ、なおのこと厄介だろうな」


「……まあ、そうなのかもな」


「おまえらはしょっちゅう喧嘩してるイメージだけど」


「うん」


 考えても仕方ないと思い、俺はとにかく白石をどこかに置くことにした。まだ打つ手はいくつかある。角の混戦をひとまず避け、また別の戦局を広げる。たぶんこれは悪手なんだろうな、となんとなく思った。


「『オセロー』は面白いな」


 と俺は言った。


「実は、あんまりちゃんと読んでない」


「へえ」


「どんな話だったっけ」


「嫉妬の話だな」


「ざっくりしてるな」


 大澤は当然のように笑いながら黒石を置く。俺の陣地がいくらか削られる。まだだ、と思ったが、打てる場所が突然に限られた。


「ふうむ」


 と俺は唸った。


「……結局のところ」と俺は言う。


「冷静に考え、冷静に話し合い、冷静に人を信じることさえ出来たなら、余計な悲劇は起きなかったという点で、あの話は面白い」


「……ん」


 大澤は、よくわからない、というように口角を下げた。


「嫉妬に限らず強烈な感情に呑まれている人間っていうのは冷静な判断ができない。正常な人間にはその判断がどれだけトチ狂っているのかっていうのがはっきり分かるが、当事者からすればそうじゃない。当事者は大きな嫉妬と恐怖と憎悪と失望……あれこれがないまぜになってぐちゃぐちゃになる。話し合えば解決するような疑問や疑念でさえ、うまくほどくことができなくなる。だからあの話を当たり前に読むと……『どうしてもっと冷静になれなかったのか?』と思う」


「……」


 俺は角を取られると分かっていながらそこに白石を置くしかなかった。


「だけど……大きな感情は正常な判断を奪う。正常な認識を奪う。その『当事者感覚』のない人間には、その混乱の意味がうまく掴めない」


「……"人間は所詮人間、いかによく出来た男でも我を忘れることはありましょう"、か」


「ずいぶん俯瞰された物語だよな」


「たしかにね」


 当然のように大澤は角をとった。ううむと俺はまた唸って頬杖をつく。


「あのさ」


「ん」


 訊き返したつもりだったが、大澤は何も言わなかった。俺は彼の方に視線を向ける。彼もまた俺を見ていた。何か言いにくそうな、そんな顔だ。


「美里はああ言ってるけど……俺は、無理して書く必要はないと思うんだ」


「……」


「そりゃ、何か相談に乗って解決するならそうするけど、おまえはそういうタイプでもないだろうし。たぶん書きたくなったら書くんだろうから」


「……」


「だから、無理しない方がいいんじゃないか」


「……ふむ」


 と、俺は石を置いた。黒の陣地をほんの少しだけえぐり取る。所詮、角を取られた上では敗色が濃厚だけれど、ただでやられてやるつもりもない。


「もちろん、そうするつもりだ」


 と言ったのは、本心だろうか。わからないまま俺は言葉を続けた。わざと得意げなふりをして、人差し指を立ててみた。


「シェイクスピアも言っていた」


「……なんて?」


「"生きることが苦痛でしかないときに生きるのは、愚かなことだ"」


 面白がるかと思ったけれど、大澤は笑わなかった。冷静に考えると、たしかに笑えるような台詞ではない。


「……そんな台詞、あったっけか?」





 大澤が疑問に思うのも無理はないだろう。格式張った警句めいたこの台詞は実際、そんなに大仰な台詞ではなかった。誰がどの書籍でこう翻訳したかは知らないが、少なくとも俺が読んだ「オセロー」にこのような記述はなかった。あったのはこうだ。


「どの道馬鹿な話さ、生きるのが辛いのに生きているというのも」


 これはイアーゴーに唆されて恋敵を貶めようとしたロダリーゴーが、結局その女をみすみす恋敵に奪われてしまったあと、やけになって呟いたぼやきに過ぎない。けれど俺がこの台詞を知ったのは、インターネットの格言や名言をかき集めた収集サイトが先だった。そこでは俺が呟いたとおりの引用のされかたをしていて、出典には「オセロー」の名前が出ていたが、細かい前後や文脈は記載されていなかった。


 




「……なあ大澤」


 一回目は俺が負け、続けて二度目のオセロが始まった。

 

「ん」


「そんなこと言うために呼び戻したわけじゃないよな」


「……」


 大澤は答えずに、また先攻の黒石を置く。


 ──どうして、石の壁を爪で引っ掻いてるみたいな気分になってでも、書かなきゃいけないんだろう。苦しいんだったらやめちゃえばいいじゃないですか。書くことが苦しいならやめればいい。なんで続けるんだろう。


 そう言ったのは誰だったっけ。


 ああ、そうだ。相羽がそう言っていたんだ。


「……"どの道馬鹿な話さ"」


「何がだ?」


「"書くのが辛いのに書くというのも"」


 大澤は一瞬怪訝そうな顔をしたけれど、あまり気にとめなかったらしい。俺も特に言葉を続けずに、あまり考えずに一手目を打つ。


 ──どうして、苦しんでまで続けなきゃいけないんですかね?


 相羽は、心底疑問だと言いたげに、そう呟いて笑った。


 書くのが苦痛でしかないなら、書こうとすることは、愚かなことだろう、きっと。

  

「少し話したいと思ったんだ」


 その言葉が、俺の質問に対する答えだと気付くまで、少し時間がかかった。


「いつでも、話なんてできるだろう」


「そうでもない」と彼は言う。


「最近はおまえが部室に来ないしな」


「まあ、そうかもしれないけど」


 それでも話くらいするタイミングはあったはずだけれど、まあ、そこに突っ込んでも藪蛇というものだ。


「でも、もういい」


 目をこちらに向けずに彼はそう言った。また角が取られる。俺はどうもこいつには勝てない。


「いいって?」


「さっき、言っただろ、無理に書く必要はないって」


「ああ」


「……まあ、そんな感じだよ」


「どんな感じだよ、それは」


「書けないわけじゃないらしいと思ったんだ」


 大澤は何の気もなさそうにそう言った。


「どうしてそう思う?」


「思っただけだ」と彼は肩をすくめ、テーブルの脇に置いていたミネラルウォーターに口をつけた。それからペットボトルのキャップを指先で回すように弄びはじめる。 

 

「書けないんだよ」と俺は言う。そう言ってしまうと喉の奥から苦いものがこみあげるような気分の悪さに襲われた。


「なんにも出て来ない」


 大澤はまだペットボトルのキャップを眺めている。俺は苦し紛れに石を置いて、盤面の黒石を少し削る。彼はそれをちらりと見てから、大きく伸びをした。そのあと、ミネラルウォーターのボトルにようやくキャップをする。すると彼は一瞬あっけにとられた顔をして、おかしそうに笑った。


「……なんだよ?」


「いや」と彼はまだ笑っていた。


「蓋をしてれば、出てくるはずがないだろうと思ってな」


 俺は何も言い返さなかった。結局、一度も大澤に勝てないまま部室を後にするはめになった。


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