05-06
手のひらに万年筆を握り込んだまま、屋上を後にする。
眉間に力が入っている。自分でそう分かった。視線が下がっている。そういうとき、意識的に目線を上に向けてみる。そうすると少しだけ思考が止まるような気がしていた。
『自分が誰かにとって必要な人間だって、どうしても思えないんだ』
「……」
何かを思い出しかけている。
鉄扉にもたれて瞼を閉じて、溜め息をつく。何をやってるんだろう。どうしてこんなありさまなんだろう。
どうしてさざなみひとつ起きないんだ?
わからない。
不意に、
見上げられていることに気付く。階段の下から、こちらを見ている。
「……」
誰だっけ。つい最近見たばかりだ。昨日、見たばかりだ。
相羽じゃない方……染谷だ。見上げている。俺を。……違う、睨まれている、みたいに見える。染谷は、うざったそうな顔で、俺を見ている。
やがて、
「暇なんですか?」
と、どうでもよさそうな声で言った。
「……ああ、うん」
「……漫研の人」
「……」
「アイディア出し、手伝ってるって聞きましたけど。……書けないからサボってたんじゃないんですか?」
彼は、まだ、睨んでいる。俺を。まるで、俺にどう思われるかなんて、気にしてないみたいに。俺が、とてつもなく些細でどうでもいい人間だと言うみたいに。重要でもなんでもなく、どう扱っても支障ない人間だと教えようとするみたいに。
「書けないよ」
と俺は言った。
「そうかな」
やっぱり彼はどうでもよさそうだった。どうしてか、呼吸が浅くなるのを感じる。
──おまえには無理だよ。
「やる気がないなら、やめればいいじゃないですか」
「……手酷いね」
目を合わせられない。やる気がない。やる気がない。吐き捨てるように彼は続ける。
「……嫌いなんです。不真面目な人間。べつに、いる分には構わないけど、中途半端なのは、特に」
「そっか」
返事すら鼻につくと言いたげに、彼は顔をしかめた。
「申し訳ないと思わないんですか?」
「……なにに?」
「……それもわからないんですか?」
──あの人はたぶん、このサボり部の変型みたいな文芸部の中に、そんな部なりの規律みたいなものを作ったんだよな。
──それが、あの人がいなくなったとたん、バラバラだろ。
──それってなんか、あの人がしたことを台無しにしてるっていうかさ。
──寂しいだろ、そんなの。
ああ、
うるさい。
誰がそんなことを言ったんだっけ?
もうなんにも覚えちゃいない。
「やる気がないならやめればいいじゃないですか」
まだ、染谷は俺を睨んでいる。
不思議と笑みがこみ上げてきた。どうしてだろう。自嘲かもしれない。
「……俺が気に入らない?」
そんな笑みさえ気に入らなかったのかもしれない。
「気に入りませんね」
と、間髪おかずに彼は言う。
「気に入らない」
唾棄するような響きで、
「……気に入らない」
もう一度繰り返した。
「書けるなら書けばいい。書けないなら書けないなりに、書こうとすればいい。先輩はどっちでもないですよね」
「……」
「書けるのに書かない。それなのに、書けないって言って書かない。つまり、書く気がないってことじゃないですか」
「……」
「どうして書かないって言わないんですか?」
──ねえ、まだ、書くのが怖い?
もう、なにもかもがずっと、昔のことのように思える。
俺は今、どう返事をするんだろう。
書くのが怖い。怖い、怖いんだろう、きっと。
──怖いからって、背を向けて逃げ出したって何も変わらない。
もらった言葉くらい、ちゃんと覚えてる。
だけど、いま、俺が恐れているのは、きっとあのときと同じことじゃない。
──でも、わたしのような人間に、仲間がいることを教えるためだけに、必要のない苦しみの中に居続けることはないと思う。
──だって、きみはもう抜け出せたはずなんだよ。
「……書けないんだよ」
苛立ったように、彼は目を眇めた。
(おまえには無理だよ)
「……悪いな」
染谷は返事もせずに去っていった。俺は扉にもたれたまま、息を整える。そして、万年筆を握る。
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