05-07


 その日の夕方はバイトがあった。気分が晴れないまま仕事を終えると、軒先でツバキが煙草を吸っていた。


 道塚なら休みだと俺は言った。「センパイに会いにきたんですよ」と彼女は笑う。俺は笑えなかった。


「どうして?」


「べつに」と彼女は言う。


「ねえセンパイ、センパイのこと、話してください」


「……どうして?」と俺は繰り返した。


「べつに」と彼女もまた繰り返した。

 

 どうでもいいやと思った。


 俺は、ツバキに話すことにした。


 静まり返った海のこと、書けなくなった文章のこと、どうしてか話すことができた。たぶん、自分に関係のない相手だったからだろう。






「教えてあげようか?」とツバキは笑った。夜の公園のベンチに膝を抱えて座り込んだ彼女の笑顔は、チカチカと明滅するぼんやりとした街灯の灯りの下で死んでいるようにも見えた。


「センパイがどうして書けないのか、わたしが教えたげるよ」


 そう言って、からかうように俺を見上げる。俺はその姿を眺めている。


「センパイは書けないんじゃない、書きたくないんだよ」


「そうじゃねえよ」


「そうだよ」


「……」


「センパイは書くのが怖いんだよ」


「……これまでだって、ずっとそうだったよ」


「そうじゃないよ」


 ツバキのニヤケ顔は薄明かりの下で奇怪な印象画みたいだった。


「センパイはね、失望されるのが怖いんだよ」


「……」


「がっかりさせるのが怖いの」


「……」


「本当にひとりぼっちだったら、センパイは今でも書けてたの」


 俺のことを全部見透かしているみたいに、彼女は笑っている。まるでその恐怖を知っているみたいに。


「でも、センパイは気付いちゃった。自分を認めてくれるヒトとか、自分の書いたものを褒めてくれるヒトがいるってことに気付いちゃったの」


「……」


「それってセンパイにとってかなり致命的なことなんだよ。だって、センパイにとって文章は、唯一の武器だったから。それをもってしか自分に自信が持てなかったから。どれだけ他人から見たら馬鹿らしくても、愚かでも、稚拙でも、センパイにとって文章は唯一の何かで、それがなくなったら自分は"なんでもなくなってしまう"。だからセンパイは書くしかなかったし、書き続けるしかなかった。でも、だからセンパイは死ぬの」


 ツバキは言う。


「センパイは、他人に承認されたから、死ぬの。承認されたがりのおばけだったから書き続けることができたセンパイは、誰かに認められた瞬間に書けなくなったの」


「違う」


「違わないよ」とツバキは笑う。


「だって、褒めてくれるヒトがあらわれたら、次に書くものも褒められるようなものじゃなくちゃいけない。下手なものを書いたらがっかりさせてしまう。そうしたら、みんな、どこかへいってしまう。ああなんだ、こんなものだったかって、いなくなっちゃう。それならもう書かなければいい。がっかりさせるくらいだったら、消えてしまったほうがいい」


 センパイは、誰かが自分のもとを離れていくのが怖いんだよ。


「きみの書いた文章が好きだよ」とひなた先輩は言った。


 俺はちゃんと覚えている。


(おまえには無理だよ)


「……違う」


 と俺は繰り返した。


「違わないよ」とツバキはやっぱり繰り返した。


 そうじゃない、と俺は頭の中で繰り返した。


 書けないんだ。

 

 どうしてだ?


 蓋がされているからだ。


 誰が蓋をしているんだ?


 俺だ。


(おまえには無理だよ)


 何が無理なんだ?


 どうして俺は蓋をしているんだ?


 俺は何を恐れているんだ?


 ツバキは、うんざりしたみたいな顔で、立ち上がった。


「……つまんないや」


 じゃあね、と言って、彼女は勝手にいなくなった。チカチカと灯りが明滅している。





 夜の公園のベンチに座り込んでいる。夏の夜のぬるい空気の中で、俺は何かを待っている。ツバキの言葉の意味を考えている。


 どうしてこんなありさまになったんだっけ? 昨日までどうやって生きていたんだっけ? 俺の手の中には万年筆がある。いつもどおりだ。それは全然当たり前のことじゃない。


「センパイは、他人に承認されたから、死ぬの」


 そうなんだろうか。

 そんな、たかだかそんなことのために、俺は書けなくなっているんだろうか。


 違うような気がする。でも、一面的には、それが正しいような気がする。

 

 認められたから、次も認められるようなものを書かなきゃいけない。


 たかだか、そんなことのために?


 納得はいかない。たぶん、足りていない。それだけでは足りていないのだ。


「書けるのに書かない。それなのに、書けないって言って書かない。つまり、書く気がないってことじゃないですか」


 染谷の言葉は、正しい。アイディアなんて出てこないといいながら、俺は、アイディアなんてかけらも出てこないのだと言った遠野と一緒に、話の種を考えた。あの方法を使えば、俺もまた何かを書くことはできるだろう。それがくだらないものであれ、なんであれ、書き出すことができるだろう。じゃあ、俺はどうして書けないと思っているんだ? 


「センパイはね、失望されるのが怖いんだよ」


 そうなのだろうか?


 そんなふうに叩き出したアイディアで、誰かを満足させるものが書けそうにないから、俺は書こうとしないのだろうか? 


 考えながら、俺は立ち上がり、歩き始める。どこに? どこにだろう。自転車、そう。今日は自転車でバイト先までいった。さっき、ツバキと並んでいたときは、引っ張っていた。どこに停めた? そうだ、入り口にある。公園の入り口にある。俺は自転車へと向かう。そして自転車を引っ張って歩き出す。どこに?


 月は頼りなく空に浮かんでいる。背後を振り返ると誰も居ない公園がある。バスケットゴールがある。俺はそれをしばらく見つめたあとその場を後にする。歩いていく。どこに?

 

「書けないわけじゃないらしいと思ったんだ」と大澤は言った。そのとおりなんだろう。書けないわけじゃない。みんなそう言う。きっとそうなんだろう。


 じゃあ、どうして俺は書いていない?


「どの道馬鹿な話さ」と俺は呟いた。言葉はあたりの空気に馴染んですぐに消えていく。


「書くのが辛いのに書くというのも」


"書くのが辛い"。


 どうして?


 書くのが怖い? 書くのが辛い? 書きたくない? 書けない?


 どうしてだ?


 ──そうしたら、みんな、どこかへいってしまう。


 俺はどこに向かって歩いているんだろう。


「書くの、やめてもいいんじゃないの?」「でも、そういうのはぜんぶ、きみ自身が決めることだと思います」「わたしは……せんぱいが書きたくないと言うなら、もう、書かなくてもいいんじゃないかと思います」「書きたくないなら書かなけりゃいい。書くのがつまんなくなったんなら、やめちまえばいいと思う」


 そうだ。ツバキは間違っている。まるで俺が、誰かに認められて、誰かに期待されて、誰かに必要とされているような言い方をしていた。それは事実じゃない。

 

 俺が書く文章のことなんて、誰も待っていない。誰も必要としていない。最初からそうだったし、これからもそうだ。何度か褒められたとして、それで何かが覆ったりしない。俺が書く文章は、いつだって、不穏で、幼稚で、我儘で、どっちつかずな代物だった。それは今でも変わらない。だから、ツバキの言うことは、あたっていない。


 ……本当にそうか?


「もちろん、せんぱいが書かなくても困る人は誰もいません」


 そう、藤見はそう言っていた。


「去年までのわたしなら、書いてくださいと言ったかもしれませんけど。今は、そこまでしないです」


 そう、藤見は俺に何も強制しなかった。


 でも、それで俺は救われたりはしなかった。


 部室からの帰り道、どうして俺は、藤見が何を言いかけたのかをずっと気にしていたんだろう。もう答えは自分で分かっているような気がした。


 俺はあのとき、いや、もっと前からずっと、藤見に、他の誰かでもいい、誰かに、書いてくれと、そう言ってもらいたかったんじゃないのか?


 俺の書く文章が必要だと、俺が書くのを待っているんだと、誰かにそう言ってほしかったんじゃないか?


「……馬鹿らしい」


 だとしたら俺は、ツバキの言葉を借りるなら、承認されたがりのおばけのままだ。


 誰かを楽しませるようなものなんて書けない。

 誰かの期待に沿ったものなんて書けない。

  

 俺には書けない。


 最初からそうだった。


 だったら、

 俺はどうして書かない?


 本当に、俺は、もう何も書けないのか? なにひとつ思いつかないのか?


 ──だからセンパイは書くしかなかったし、書き続けるしかなかった。でも、だからセンパイは死ぬの。


 ……ああ、そうか。


 ツバキの言っていたことは半分正しく、半分間違っている。

 俺にとって書くことが唯一の何かだった。それはたぶん、正しいんだろう。俺にはそれしかない。書くこと以外に方法がない。


 そして、幸福や満足が俺から書くことを奪うのだとしたら、俺は幸福を諦めなければならない。俺にとって書くことは唯一の何かで、それを失うことは俺自身から何もかもがなくなってしまうことを意味する。書くことを除けば俺はからっぽのがらんどうで、何者でもない。

 

 書けない。書きたいものがない。書く気になれない。書きたくない。

 嘘だ。


(おまえには無理だよ)


 声はそう言っている。


 わかっている。


 街灯が等間隔に並んでいる。俺は自転車にまたがって夜道を駆け抜ける。風が吹き抜けている。ただの夏の夜なのに、深い海の暗がりの中をさまよっているような気分だ。俺はこの道を知っているはずではないのか? わからない。


 どこか遠くから歌声が聴こえた気がした。


(おまえには無理だよ)


 そうだ。ちゃんと知っている。最初から分かっていた。聞こえないふりをしていただけだ。


 書くのをやめるなんて、俺には無理だ。

 

 俺には無理なんだ。そんなの。書くのをやめたら、俺は俺じゃなくなる。生きていく術がない。書かないと、なにもわからない。書くことでしか満たされない、書くことでしか許されない。書き続けることでしか、自分の価値を見いだせない。書かないと何もわからない。整理がつかない。混乱のただなかに置き去りにされてしまう。


 知っているはずの道を突き抜けて、知らない道へと走っていく。住宅街をつらぬくゆるい坂道を上っていく。空には月が薄ぼんやりと浮かんでいる。朧月だ。書かない俺には価値がない。意味あるものを書かないと、俺は誰にも必要とされない。だから俺は書き続けるしかない。ツバキの言う通りなのかもしれない。俺はどこかで承認されることを望んで書き続けてきたのかもしれない。褒めてくれるヒト? たしかにいるのかもしれない。でもそうじゃない。この坂道のむこうに何があるんだろう。俺はそれを知らない。


 ……本当にそうか?


 俺はもう書かなくても平気なんじゃないか?


 思考が何度も同じところを行ったり来たりする。どこかから歌声が聴こえる。


 藤見も、枝野も、書かなくてもいいんじゃないかと言う。染谷は俺に、やめてしまえばいいと言うだろう。大澤は、書けないわけじゃないらしいと言った。ただ蓋をしているだけだと。ひなた先輩は、俺が決めることなのだと言った。


 書かなくてもいい、と言われるのは、突き放されたのと一緒だ。俺には文章しかない。文章を書かなくてもいいと言われるのは、俺にとって、おまえは必要がないと言われるのと同じことだ。

 だから俺は、藤見に、書いてほしいと言ってほしかった。ひなた先輩に、書いてと言ってほしかった。そんな甘えに、今の今まで気付かなかった。


 けれど、それならどうして……俺は書かないんだ?


 書くのが唯一のなにかだと言いながら、書かないのはどうしてだ?


 ──センパイはね、失望されるのが怖いんだよ。


 ……そうなのだろうか?


 坂道を上っていく。息が切れるのを感じる。歌声が聴こえる気がする。俺はその声を聴いてはいけない。どうしてか、そんな気がする。


 ……こんなんじゃ、駄目だ。


 こんな、自分のことばかり考えていては、駄目だ。文章を書くとか、書かないとか、そんなことを、自分勝手に考えていたら、見放されてしまう。書くのをやめようが、やめまいが、見放されてしまう。もっと、別のことを考えなければ。こんな自分勝手な悩みをもっているやつのことなんか、誰も相手にしない。今に見放される。だからやめないと。暗いことを考えるのも、余裕がないのも、駄目だ。そうしないと、見放されてしまう。


 不意に、坂道が終わる。


 そこは公園だった。丘の上に、鉄棒とブランコと水飲み場、砂場、それからベンチ。木立が暗がりの中でざわめきひとつ起こさない。風がないのだ。見晴らしがいいこの場所からは、町は海の底に沈んでいるみたいに見えた。

 彼女はブランコに体をあずけ、鎖の音をきしませて、静かに歌をうたっている。

 

 俺はその歌を聴いてはいけない。その歌を聴いたら、"蓋が外れてしまう"。

 蓋が外れてしまったら、俺は書かずにいられないだろう。俺が書くものはきっと、幸福に満ち満ちるものではないだろう。そうなればきっと、あの人は傷つくだろう。だから俺は、書いてはいけない。


 ブランコを揺らす背中に、後ろ髪が髪がなびいている。


 彼女のことを俺は知っている。

 俺のことを彼女は知っている。


 彼女は、歌っている。


 ──きっと風が吹く、嵐になるだろう。


 俺は、その歌を知らない。


 ──おかしくなりそうに辛いのに、何故か心は穏やかで。


 俺はその声を聞かずにはいられない。


 ──「嵐の前の静けさ」って言うじゃない、きっと、これは、そう。

  

 彼女は何を言おうとしているんだろう。


 ──さあ、嵐に備えよう。


 彼女は、ゆっくりと振り返る。俺の目と、彼女の目が合う。


 ──嵐は、誰にも、止められない。


 歌を終えて、彼女は微笑む。


 俺は身じろぎひとつできない。


「……だめだよ」と彼女は言った。


 だめって、なにが? 訊ねようとしても、声が出ない。


 彼女は唇を動かして、何かを言おうとする。俺は不意に胸が詰まるような感覚に襲われた。

 

 不意に、

 強い風が吹いた。

 

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