06-01


「朝だよ」と千枝が俺を起こしたとき、俺の意識の混濁は少しだけはっきりした。たしかに朝だった。千枝は俺の顔を覗き込むようにしてうかがっている。それが一日の最初に見たものだった。


 答えられずにいると、千枝は何かを思いついたみたいな顔で、


「じゃーんけーん」


 と手を振った。俺も思わず寝そべったまま腕を動かした。


「ぽん」


 と千枝の声がするのと同時に、結果は出ていた。俺はパー、千枝はチョキだった。


「おはよう」と彼女は言う。


「おはよう」と俺は返事をした。それから彼女は背を向けて去っていく。


「二度寝しないでね」


「うい」


 何か変な夢を見たような気がする。誰かが歌っているような夢。内容は朧気だけれど、そんなところだけがやけに頭に残っている。夢は夢だ。そうわかっている。それなのに、その夢が自分に何かを訴えかけているような気がして、頭から離れない。

 あの子は誰だったんだろう。誰が歌っていたんだろう。なんて歌っていたんだろう。





 当たり前に学校に行き、当たり前にバイトに行き、当たり前に家に帰り、当たり前に勉強して、当たり前に過ごす。昼休みに遠野の相談に乗る習慣は続いていた。彼はもう俺の力を必要にしているようには思えなかったけれど、ときどき何かの着想を求めるように俺に質問をした。一見どうでもいいようなことだ。俺はその質問にできるかぎり誠実に答えようとした。誠実に答えようと意識しないと、俺はすぐに適当な返事をしてしまう。


 手帳を眺め、万年筆を指の中で転がしながら、それでも文章をひとつも書けずに時間が流れた。文章のなりそこないだけが溜まっていく。自分がなんらかの目標に向かって進んでいるという実感がまったく沸かなかった。少なくとも一週間はそんなふうに過ぎていった。


 結局考えるのはいつも同じことで、書くとか書けないとか、書きたいとか書きたくないとかそんなことばかりだった。いい加減にしろよ、と俺は俺に向けて何度も言うはめになった。それでも書けやしなかった。

 

 ひなた先輩には、あまり連絡を取らなかった。なにか、自分がはっきりとした態度をとらないといけない時が来ているような、そんな気がしたのだ。


 波もない海の真ん中で、小舟に乗って何かが訪れるのを待っている。そんなイメージだけがずっとある。見渡す限り海と空だけで、頼れるものは何もない。


 ──どの道馬鹿な話さ。書くのが辛いのに書くというのも。


 駄目なんだろうな、と俺は思う。


 遠野の書いた漫画の原稿のストーリーの修正を、俺はいくらか手伝った。それはちゃんと完成した。できるかぎりの協力を、俺は彼にしたつもりだ。大筋から、細部、小道具や情報の配置、台詞の言い回しに至るまで、遠野の漫画の三分の一くらいは、俺自身の言葉を含んでいる気がする。


 そして、例の漫画同好会のコンテストとやらが実施されるタイミングになった。同じ週、文芸部の部誌が発行された。俺はその間何もしていなかった。なにひとつしていなかった。ただ手帳になんでもない何かを書き留めていただけだ。他に何をすればよかったんだろう。他に何ができたんだろう。


 漫研のコンテストの結果、遠野は負けた。それは俺の敗北でもあった。いっそ俺だけの敗北であってほしかった、と俺は思った。





 今度は何をするかな、と俺は考える。

 

 わからない、と誰かが答える。


 もう行こう、と俺は言う。

 

 だめだよ、と声は言う。

 

 なぜさ?

 

 "ゴドーを待つんだ"、と声は言った。

  



 

「……せんぱい?」


 藤見にそう呼びかけられたとき、俺は自分が放課後の文芸部室にいることをすっかり忘れていた。それどころか、今が何時で、今日が何日で何曜日で、どうしてここにいるのかも、はっきりとは分からなくなっていた。


「……ん」


 なんとか返事に近い息を漏らすと、藤見は少しほっとしたような顔になった。


「大丈夫ですか?」


「ああ……」


 ふん、と鼻を鳴らしたのは染谷だった。諌めるような顔で、遠野が彼の腕を肘で突く。俺は見ないふりをしながら藤見に向き直った。


「大丈夫だよ」


 何が大丈夫なのか、大丈夫じゃないのか、それもよくわからないままそう答える。何が大丈夫なんだ?


 俺が漫研の遠野の手伝いをしているのは、藤見も大澤も、一年の二人も知っていた。ということは、この部の人間はみんな知っているんだろう。俺は何も話していないけれど、きっとみんな、結果がどうだったのかも知っているんだろう。気遣われているのはなんとなくわかった。


 藤見はまだ俺の表情を見ている。何か言いたげに、でも、何も言わずに。染谷のことを俺は見ていない。けれど彼は、俺のことを気に入らないような目で見ているのだろう。枝野はどうだろう、大澤はどうだろう、西村はどうだろう、相羽は……。どうしてそんなことばかり気にしてしまうんだ?


 わからない。


 俺は立ち上がった。


「……どこかに行くんですか?」


「ああ」


 頷いてから、そうなのか、と俺は思う。俺はどこかに行くつもりだったのか。


(どこへ行こう?)と俺は考える。


「どこへ行くんですか?」と藤見は問いを重ねる。


「……その辺まで」


 と俺は答える。頭の中で声が鳴る。


"いやいや、ずっと遠くまで行っちまおう"


"駄目だ"と俺は答える。


"なぜさ?"


"また明日来なくちゃ"


"なんのために?"と声は言う。


"ゴドーを待ちに"、と俺は答える。


「その辺って?」


 藤見の声が聞こえる。

 俺は少しだけ面倒になる。行きたい場所なんてどこにもないのだ。最初からどこにもない。ただ立ち上がっただけだ。


 頬が勝手にひきつったみたいに笑みをつくるのがわかった。


「わからない」


 彼女は苦しそうな顔をした。どうしてそんな顔をするのか、俺にはわからない。わからない。


「わたしも行きます」


「いや、ひとりで行くよ」


「……」


 そして俺はひとりで歩きはじめた。部室のドアを開けて、廊下に出て、ドアを閉める。扉は閉まる。その音だけがやけに生々しい。


 どこへ行こう?



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