06-02



 階段を昇っている。昇っていることはわかる。よくなかったな、今のは。どうだ? 今のだけか? わからない。ずっと駄目だという気がする。ずっと自分のことばかりだ。


 目の前に扉がある。ノブを回すと音がなる。扉は重々しく開いていく。広がる景色は見慣れたものだ。また屋上に来てしまった。

 

 遠野の原稿のこと、自分のこと、藤見や、西村や、大澤の腫れ物に触るような態度。悪いとは思うけれど、それがやけに、癇に障るような、そんな気分だった。

 

 ひなた先輩とは、一週間近く連絡を取っていない。ひなた先輩からの連絡もない。俺も、連絡をしていないし、する気にもなれなかった。不必要な言葉を言ってしまいそうな気がした。


 少しだけ落ち着こう、と俺は俺に言い聞かせる。ここには誰もいないんだ。俺は今、どこまでも自分に正直になることができる。"どんな気分だ?"


「……そうだな」と俺は言う。「控えめに言って……」嘲りのような笑みが溢れた。「最悪だ」


 扉に体をもたれて、俺は深く深く息を吐く。何かを考えるべきだという気がした。


 ポケットの中の手帳を取り出した。それをしつこいくらいに眺めてみる。自分で書いた文章のかけらなのに、その意味が自分で理解できない。腹が立って何度も何度も読み返す。それなのに、何を意味しているのかがわからない。

 やけに落ち着かない気持ちになって、屋上を何度も何度もぐるぐると歩き回りうろうろとさまよう。舌打ちが出そうだった。大丈夫だ、と俺は俺に言う。ここには誰もいない。


 何に腹を立てているんだ?


 気にすんなよ、と遠野は言った。


 ギリギリのところからあれだけのものが描けたんだ。感謝しなきゃいけない。そう言った。


 あれだけのもの。


 そうだ。


 決して手は抜いていなかった。全力を尽くしたつもりだった。遠野だって時間がないのに十分すぎる出来に仕上げてきた。それでも負けた。

 

 負けた。


 遠野は俺に"もうひとり"が仕上げてきた漫画を見せてくれた。なるほどたしかに面白かった。けれど遠野が言うとおり、それは俺の好みではなかったし、俺向きではなかった。それでもそっちが勝った。好みの差とか受けの問題だけじゃない。そんなものをねじ伏せるくらいものを作れなかった。それだけのことだ。


 塔屋の壁を睨みながら、俺は考える。

 

 俺は何をやっているんだ?

 どうして俺は何も書いていないんだ?


 まだやれることがあったはずだ。俺はどれだけの時間を無駄にしたんだ? 自分の文章さえ書けずに?


 何をやってるんだ?


 俺は自分の手のひらを見つめる。からっぽの、どこかいびつな、手のひら。


 この手で、この手でやっておくべきことがあったはずだ。


 俺は何をしていたんだ?


 こんな手が……。


 俺は、

 自分の手を思い切り、壁に叩きつけようとした。


 それは半分くらいしかうまく行かなかった。俺の中の何かが勝手に力をセーブしている。ある程度の痛みで済むようにセーブしている。自暴自棄になることさえ上手にできやしない。もう一度だ、と俺は思う。壁を思いきり殴りつけようとする。


 今度は半分もうまく行かなかった。


 誰かが俺の腕を掴んだ。


「な、なにやってるんですか!」


 藤見だ。

 いつから居たんだろう。


 藤見は、俺の腕を後ろから抱きかかえるようにしていた。前に向かおうとした腕の力に引っ張られて、彼女の体は頼りなく揺れた。俺の拳は壁にほんの少し触れただけだった。それでも鋭い痛みが走る。


「なにって」


「なんで、こんなことしてるんですか」


 なんでだろうなあ、ってとぼけようとしたのに、できなかった。


「いらないんだよこんな手」


「……何言ってるんですか」


「書かないならいらないだろ、手なんて。書く以外価値ないのに、書かないなら意味ないだろ」


「は、はあ?」


「放せよ」


「嫌です。意味分かんないです」


「頼むよ」


「……なんで」


「もっとうまくやれると思ってたんだ」


「……」


「部誌の原稿だってちゃんと書こうとしたんだよ。そりゃ書けてなかったけど、手を抜いたわけじゃない。ずっと書こうとしてたんだ。でも駄目だな、所詮こんなもんだ。この程度なんだよ、俺なんて」


「……なに言ってるんですか?」


「いいから放せよ」と俺は言った。


「愚痴っぽいことしか言えないんだよ、今は。でもべつに励ましてほしいわけじゃないんだ。でもきみが居たら、きみに愚痴っぽいこと言ってたら、止めてほしいみたいだろ」


「……そんなに悔しいなら! 書けばよかったじゃないですか!」


「……」


 俺は振り返らなかった。


 知ってるよ。

 俺は書けばよかったんだ。


「なんでこうなんだろうな?」


「知りませんよ」と藤見は苛立ったみたいに言う。


「甘えないでください!」


「……」


「……」


 ふっと、肩から力が抜けた。

 藤見が、ほんの少しだけ、俺の腕を掴んでいた力を緩める。


 振り返ると、彼女の瞳がかすかに揺れているのがわかった。


「……俺は」


 また、知らず笑みがこぼれた。


「……甘えてるのかなあ」


 甘えてるのかもしれない。

 

 怖いとか、嫌だとか、書きたくないとか、書けないとか、ああしてほしいとか、こうありたいとか、甘ったれた弱音ばっかりだ。


 悔しいなら書けばいい。

 書けるなら書けばいい。


 わかってる。


「せんぱいは……」


 拳が痛む。

 

 ──センパイはね、失望されるのが怖いんだよ。


「せんぱいは、無理、しないで、いいと思う」

 

 ──がっかりさせるのが怖いの。


「ひなた先輩だって、きっと……せんぱいが無理するくらいなら、書かなくていいって、言うと思います」

 

 そうかもしれない。


 でも、違う。


 自分でわかってる。


 書きたいんだ。

 書きたい。書かずにはいられない。


 でも、書いてしまえば、濁流に飲み込まれてしまう。霧雨で視界が奪われて、他のことがわからなくなる。

 そこに落ち込んでしまったら、俺は、誰かを蔑ろにしてしまうだろう。


 そうなることが嫌だ。

 そうなりたくない。


 ──でも、そういうのはぜんぶ、きみ自身が決めることだと思います。


 わかってる。

 俺が決めるしかないんだ。


 ゆっくりと、体から力を抜く。まだ少し緊張したように、藤見もまた、俺の体から自分の体を離していく。


「大丈夫」と俺は言う。


「大丈夫だから」


 彼女はまだ不安そうな顔をしていた。


「悪かった」


「いえ……」


 何か足りないというふうに、彼女は後ろめたいような様子で視線を泳がせる。


「違うんです」


「なにが」


「……なんでもないです」


「……なんだそれ」


 もどかしそうな顔で、彼女はうつむいた。


「でも、大丈夫ならいいです」


 俺は贅沢なんだろう、きっと。贅沢を言ってるんだろう。


「大丈夫」


「……本当ですか?」


「うん」


「ひなた先輩に誓って?」


「……」


「……なんで黙るんですか」


「きみはひなた先輩の名前を出せば俺を黙らせることができると思ってる節がある」


「……違うんですか?」


 藤見はきょとんとした顔になった。


 

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