06-03


 なおも心配げな様子の藤見に連れられて、俺は部室に戻ることにした。どうせ荷物は置きっぱなしだったのだ。扉の前まで言ったとき、誰かが怒鳴るような声をあげているのがわかった。どう考えても部室の中から聞こえている。

 俺が扉をあげると、その声が止んだ。みんなが一斉に俺の方を見た。部室には、大澤と枝野と西村、それから相羽、立川がいる。染谷の姿はない。


 相羽だけが立ち上がって、携帯電話を握っている。


「どこにいる?」と相羽は言った。電話をしているらしい。聞き逃すまいというように、相羽は慎重に押し黙った。他のみんなも、戸惑った様子で相羽を見ていた。


「……駅? どこの?」


 切羽詰まった様子の相羽を、俺はそのとき初めてみた。


「地下鉄? 駅名は? ……"わからない"? 駅から離れたの? 今どこにいるの?」


 相羽の言葉だけが部室に響いている。


「周りに何がある? ……分かった。とにかくそこから動かないで。携帯の電池は? ……分かった。とにかく迎えに行くから」


 そう言って、相羽は通話を切った。


「……ちょっと、急ぎでいかなきゃいけないところができました」


「……トラブル?」


 みんな黙ったままだったので、とりあえず俺がそう訊ねた。相羽は取り繕うような笑みを浮かべる。


「ええ、まあ」


「迷子か?」


「みたいなもんです」


 と言ってから、少し考えるような表情になり、


「先輩、この辺の地下鉄駅とか詳しいですか?」


「……地下鉄駅?」


「駅名はわからないんですけど」


「……ああ」


「小さい駅です。駐車場が広くて……近くに大きい道路が走っている」


「うん」


「近くにレンタルショップと、フライドチキン店のチェーンがある」


「分かった」


 相羽は少しあっけにとられたみたいだった。俺は心当たりの駅名を伝える。


「急ぐのか?」


「ええ、少し」


「駅までの足は?」


「走っていきます」


「俺の自転車使えよ」


「……え?」


 俺はパイプ椅子に置きっぱなしだった荷物を手にとった。


「貸すから」


「でも……」


「急ぐんだろ?」


「はい」


「じゃあ行くぞ」


 駐輪場まで歩く間、相羽は気まずそうに、けれど気がかりが頭から離れない様子で黙っていた。


 俺の自転車はちゃんと駐輪場にあった。


「じゃあ……お借りします」


「ああ」


「……あの、先輩」


「ん」


「その手……どうしたんですか?」


 俺は自分の手を見た。


「……なんでもない」


「……そうですか」


 相羽は何か言いたげなまま、結局自転車にまたがった。


「恩に着ます」


「そうしてくれ」


 俺は適当に返事をした。相羽の姿を見送ってから、そのまま俺の歩いて帰ることにする。


 何かを考えなきゃいけない。







 何かを考えなきゃいけない。じんじんと痛む拳を握りながら、俺は周囲の風景に意識をむける。何かってなんだろう? 風と景色がここにはある。自転車はない。だから俺は今歩いている。自分の足で。ひとまずのところ。


 書かずにはいられない。どうやらそうらしい。でも書かなかった。なぜ? それが悔しい。だったら書けばよかったんだ。そう、そのとおり。そう、俺は書かなきゃいけない、書かずにはいられない。なにひとつ浮かばないんだ。いや、それは嘘だ。その気になればきっと書けるだろう。うん、そんな気がする。それで?


 そうだな、じゃあ書けるんじゃないか。書いてかまわないんじゃないか。そうだろう? そうしなきゃ意味がない、この腕も、体にも。


 書きたい。書ける。そうすることができる。


 ……。


 不意に、海が見えた気がした。もちろん錯覚だ。やはり、まだ凪いでいる。そんな海が見えた。波の立たない海。空は晴れているのに、風ひとつない。

 

 風は吹かない。帆は張らない。嵐の予兆さえもない。


 海はどこまでも凪いでいる。風がなければ、船は進まない。


 風が、風がなければ……。

 

 ──だから、待ってるの。


 どうしてか、そんな声を思い出した。


 どうして、今まで忘れていたんだと、そう思うくらいはっきりと、思い出した。

 そんな声を聞いたことを、今の今まで、どうして思い返さずにいられたんだろう。


 ──風が吹くのを待ってるんだよ。


 覚えている。

 その日は雪が降っていた。






「ゴドーって、何者なんでしょう」


 冬空の空白をしとやかに埋め尽くす白い雪の粒を部室の窓から眺めながら、ひなた先輩は俺の言葉に首をかしげた。


「何者って?」


 彼女はそのとき振り返らなかった。覚えている。二月のことだった。


 俺はパイプ椅子に腰掛けたまま、彼女の小さな背中を見つめて、なんとなく悲しい気分になったのだ。


 外では雪が桜の花びらのように風に踊らされていた。制服の中に着込んだカーディガンの袖に手の甲を隠しながら、俺はそっとひなた先輩から視線をそらした。


「二人は、始まりから終わりまで、ずっとゴドーを待っているだけです。あちこち痛む体と、潰されていくだけの時間と、どうにもならない、どうしようもないような自分たちと……そのなかでゴドーを待っているだけです」


「うん。そうだね」


 俺は自分の右手の爪を左手の指先で撫でながら言葉を続けた。


「ゴドーは……きっと来ない。それなのに、ふたりはゴドーが来ることを期待して待ち続ける以外に術がない」


「……考え方は、いろいろあるみたいだよ」


 彼女はそこでようやく振り返った。俺が視線を向けると、かすかに目が合う。そのあとすぐに逸らされてしまった。


「ゴドーっていうのは神様のことだとか、あるいは、ゴドーが何者であるかとかは関係ないとかね。もっとも、ゴドーは戯曲だし、その本質は舞台で見ないとわからないって人もいる。それから、"ゴドー"の本質は、"何もなさ"を演出家が舞台の上でどう調理するかだって言う人もいる」


「……」


「修司くんにとって、"ゴドー"はどうだった?」


「……さっき、神様って言いましたね」


「うん」


「だとしたら、神様は来ない、っていうお話なんでしょうか」


「どうかな。ただ、そうだよね……どん詰まりの、待ち人来たらず、って感じではあるよね」


「……ふたりはもう限界で、自分たちの力では自分たちをどうすることもできなくなっていた」


「かもね」


「だから、ゴドーを頼った。ゴドーとの約束がたしかであったかどうかさえ、確証はない。でも、ゴドーを待ち続ける」


「そうだね」


 そして、第一幕の最後に、ゴドーからの使いの少年がやってくる。"今日は来ない、しかし明日は来る"と、ゴドーからの言伝を少年は伝える。

 しかしゴドーは翌日になっても姿を現さない。やがてまた少年がやってくる。同じ伝言を携えて。


 けれどおそらく、明日もゴドーは来ないだろう。


 記憶も人物も、同一性も変化も、なにもかもが朧気で頼りない。昨日会ったはずの少年とは、昨日は会っていないのかもしれず、昨日会ったはずの男は、自分たちを覚えていない。いつからそこにいたのか、いつまでそこにいるのかもわからない。


「深い意味をすくいとろうとするのは間違いで、その無意味な反復がただゴドーなんだ、っていう人もいる。解釈なんて余計だって考えだね。解説には、"ベケットはもはや演じられるべきことはなにもないと宣言した"って書いてあったかな」


「そうなんでしょうか?」


「さあ? 解釈なんてそういうものだよ。解釈は半分くらいは投影でできてるから。だから、解釈を好む人間は、正しさとはあんまり仲良くなれないものだと思う」


「……先輩はどう思います?」


「ゴドーを?」


「あの話自体を」


「……そうだなあ」


 少しだけ考えるような素振りを見せた後、ひなた先輩は楽しそうに笑った。


「修司くんが好きそうだよねー」


「……そういう話がしたいんじゃないんですけど」


「うん。ごめんね」


 ひなた先輩は、今度は真面目な顔をして押し黙った。それからまるで、口に出しながら思考するように、


「……ふたりは、ゴドーに会ったことがなかった」


 と、そう呟いた。そのはずだ。ヴラジーミルは、「ゴドーさんには髭があるのかい?」と少年に訊ねる。二人は、会ったことのない人間を頼りに、ただ舞台の上で待ち続けなければいけない。

 

「それなのに、ゴドーを待ち続けていて、ゴドーも、少なくとも二日連続で、"来る"と約束した。それなのに来ず、"明日は来る"と言伝する」


 もういこう、とひとりが言う。

 だめだよ、ともうひとりは言う。

 なぜさ? 

"ゴドーを待つんだ。"


「これが神様のことで、神様の不在についての話だとしたら、ふたりは、神様の救いや赦しを待っているんだろうね。でも、それはたぶん、やってこない。次の日も次の日も」


 次の日も次の日も、ゴドーはやってこない。

 ふたりはゴドーに永遠に会うことができない。


「"神様"といってしまうから、ほんの少しだけつかみ取りにくくなるし、戯曲を読んだことがあるだけのわたしがベケットを語れる気なんてしないけど……」


「はい」


「ゴドーは、"解決"なんだよ」


「……解決?」


 ひなた先輩は少しだけ笑った。


「ふたりの主人公はどん詰まりのなかにいて、そこにはもう語るべきことも残されていなくて、自分たちではどうにもならない。だからふたりは待ってるの。"解決"を待ってるの。痛む足をおさえて、言葉遊びをしたり、後悔したり、何かを忘れたり、何かに怒ったり、自殺しようとしたりしてね」


「でも、"解決"はやってこない」


「そう。それがどんな解決であれ……救いであれ、赦しであれ、待ち人来たらず。ゴドーは気まぐれで、期待ばかりもたせて、結局姿を見せない。高みから見下されてるみたい。でも、明日こそは来るかもしれないから、人は待ち続ける。うまく死に切ることもできずに」


「……」


「だから、わたしは……人間を憐れんでるみたいな話だな、って思う」


「……憐れみですか?」


「うん。もう、自分ではどうしようもないの」


「……」


「だから、待ってるの」


 ──風が吹くのを待ってるんだよ。


「……先輩も、そうなんですか?」


「わたし?」


 一瞬だけ、ひなた先輩は、本当に意外そうな顔をした。


「わたしは……べつに?」


「……そうですか」


 彼女はほんの少しだけ困ったような顔をした。


「……修司くんは、どう思う?」


「なにがですか」


「ゴドーを、どんな話だと思う?」


「俺は……」


 俺は……そのときなんて答えたんだ?



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