06-04


 翌日の放課後、バイト先に向かう途中、店の近くでたまたまユウと一緒になった。


 ユウはいつものように、試験や勉強や、学校や部活や、テレビや音楽の話なんかをした。それからほんの少しだけ鼻歌を歌っていた。


 ふたりで店へと向かう途中、俺は、ひなた先輩が、俺の知らない男とふたりで歩いているのを見た。

 彼女と俺はたしかに目が合った。そしてお互いに声をかけなかった。ただ視線だけがずっと絡み合っていた。

 どうしてだろう?






「ばかみたい」


 とツバキは言う。


「書かない以上は書きたくないからじゃないかとか、書きたいなら書いてるはずだとか、ばかみたい」


 コンビニの軒先で、彼女は壁にもたれてコーヒーを飲んでいる。


「『やりたいことはやりたいけど、他のことを楽しんでるうちに優先度がさがって、だんだん触れなくなって、そのうちやらなくても平気になること』って、べつに誰でも当たり前にあると思うけど」


 ツバキはもう、俺に中途半端な敬語を使わなくなった。


「恋愛だってそうでしょ? 今の相手を嫌いになったわけじゃなくて、むしろ好きなんだけど、他にもっと好きな人ができたとか、もっと他に優先したいことができたとか、そんなの、よくあることなのに。書くのは書きたいからだとか、小学生の子供みたい。理由なんて複雑で、自分じゃ整理がつかなくてあたりまえじゃないの?」


 自動ドアのむこうからギンジが出てきて、煙草に火をつけた。道塚のバイト終わりに、また遊びに連れ出しに来たらしい。俺は少しだけ話したら、そのまま帰るつもりだった。


「『好きだったら別れなくていいはずだ』って引き留めようとする、未練たらしい男みたい。そうあってほしいだけなのに。理屈ばっかりで考えてると、そういう無茶苦茶を正当だって思うようになるの?」


 ツバキはどうでもよさそうな顔で、両手の自分の指と指とをくっつけて遊んでいた。


「センパイはやっぱり、誰かが自分のところから離れていくのが嫌なだけだよ」


 俺は返事をしなかった。


「誰かを引き止めるために、『書きたいと思ってる自分でいたい』だけ。ほんとはもう書かなくても平気なくせに、そういう自分じゃないと誰かに好かれないって思ってるだけ」


「……」


「万年筆が重いんでしょう?」


「……違うよ」


 ツバキは今までになく鋭い目で俺を睨んだ。


「どうせセンパイの彼女だって、センパイがうだうだ考えてるあいだに、すぐにセンパイ以上に好きな相手を見つけるよ」


 そう言って彼女はギンジの車に乗り込んだ。それを見送って、ギンジが煙と一緒に楽しげな笑みを口からこぼす。


「ずいぶんあいつに好かれたな」


「逆だと思うけど」


「まあ、そうも見えるか」


「……あの子はどうも、俺に誰かを重ねてるような気がする」


「誰かっていうかね」


 ギンジはまた笑った。


「自分だろ」


「……」


「途中から聞いただけだけど。佐伯くん、彼女となんかあったの?」


「べつに、なにも」


「ふうん。てっきり振られそうなのかと思った」


「縁起でもない」


「振られてみるのもいいもんだよ」


「……なんだそれ」


「本当に惚れてる相手と別れると、案外平気な自分に気付けるからな」


 俺はギンジの横顔を見た。少なくとも冗談を言っているふうではない。


「こいつがいないと駄目だと思う相手にあっさり振られて、それでも生きていけるって思ったら、もう、誰かに好かれようとして無理をする必要はない。そういうのを……」


「……そういうのを?」


「自立って言うのかもね」


 ギンジは煙草を灰皿でもみ消したあと、運転席のドアを開けた。残された俺に、店から出てきた道塚が「お疲れでした!」と声をかけて去っていく。車のエンジンがかかり、静かにバックしていく。中の様子は見えない。俺は適当に手を挙げて、それから、何を考えたらいいかを考えた。








 家に帰ってから、ノートパソコンを開いた。白紙の画面を開き、他のすべてのことを考えないように意識する。そしていつものように書き始める。言葉のひとつ、助詞のひとつ、形容詞のひとつ、比喩のひとつ、漢字をひらくかどうか。そんなことを考えながら、ちまちま、ちまちまと書き進める。なんだ、書けるじゃないか、と俺は思う。ここはこうじゃない。ここはこっちのほうがいい。まるで割れた花瓶を接着剤でくっつけようとするみたいに、ひとつひとつ確かめながら。こうじゃないな、こうかもしれない。


 それは本当に、本当に地味で、地道で、どうしようもなく惨めな作業に思えた。自分がすごく無力で、なにひとつ成し遂げることのできないこどものように思えた。きっとみんな、こんなふうにつっかえながらじゃなく、文章が書けるのかもしれない。でも仕方ないじゃないか、と俺は俺に言い聞かせる。これが俺の限界なんだ。


 夜中の二時を過ぎた頃、俺は不意に書き進めることができなくなった。これ以上はどこにも進みそうにない。俺はそれまでに書いた文章のすべてを消した。それからまた考える。どこからやり直せばいい? いいや、ゼロからかもしれない。わからない。それでも俺はキーボードを叩いた。一行目を書く。消す。また書く。過去形か? 進行形か? わからない。単語選びが間違ってるのかもしれない。進まない。


 仕方ないじゃないか。


 風が吹かない。


 海は凪いでいる。


 書いてどうなる?

 わからない。


 ──修司くんは、どう思う?


 ──ゴドーを、どんな話だと思う?


 俺は……。





  

 ──これがおまえなんだって、馬鹿にされてるみたいな気がします。



 


 とにかく書くより他なかろう、と俺は大仰な口調で自分に言い聞かせてみた。


 とにかく書いてみて、もうごめんだと思えば書かなければいい。そう思うまでは書いてみてもバチは当たらない。

 

 書きたいか書きたくないかはそのあとに考えればいい。


 書くものが思いつかなければ、書くことがないということを書けばいい。これまでだってずっとそうしてきたのだ。


 そう言い聞かせて、言い聞かせて、何度も何度もつっかえながら、俺はキーボードを叩く。

『を』……ではなく、『に』……かもしれない。『が』……ではなく、『を』かもしれない


 そんなささいなことにこだわっている自分自身が、とてつもなく愚かで惨めな人間だという気がした。


 劇的でもなければ、格好もつかない。


 ただどこまでも惨めったらしくキーボードを叩いているだけなのだ。


 ほとんど呻くみたいに、ひねり出しているだけなのだ。


 ああでもない、こうでもないとわめきながら。

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