06-05
ソファに腰掛けてまどろんでいると、不意に鼻歌が聞こえた。どこかで聞いたことのあるメロディーだと思う。それを思い出そうと、眠たいままで考える。なんの曲だったっけ? 俺はそれを知っている。たぶん。
「はい、コーヒー」
と、千枝が俺の前にマグカップを差し出した。俺は受け取りながら、まばたきを何度かする。
「……それ」
「ん」
「その曲、なんだっけ」
「えっと。なんだったかな」
なんだったっけ。たぶん有名な曲だ。
今はいつだったっけ? ……朝だ。そうだろう、窓からさす陽も、時計の針も、千枝が制服を着ているのも、状況は朝だと言っている。あと十数分もしたら、家を出なきゃいけない。
なんだったっけ、さっきの歌は。
なんとなく、覚えている。セイレーンを連想するような曲だった気がする。千枝が歌っているのは、意外だという気がする。
なんだったっけ。たしか……。
「ああ……」
「ん?」
「『強く儚い者たち』だ」
「……そんなだった気がする」
千枝は曖昧にうなずいた。
「部活の子に教えてもらったんだけど……なんとなく耳に残ったから」
「……」
友達に勧めるような曲だろうか。
……少なくとも、俺が今のタイミングで聴きたい曲ではない。
ため息をつくと、千枝は困ったような顔をして、俺の隣に腰を下ろした。
「眠そうだね」
「……うん、まあ」
「夜ふかししたの?」
「そんなところ」
「ちゃんと寝ないと」
「……うん」
そうだ。ちゃんと寝ていればよかったのだ。
「わかってるんだけどな……」
「……眠れなかったの?」
「いや、いろいろやってたら……」
「何時まで起きてたの?」
「……三時くらい?」
千枝は呆れたような、心配するような、微妙な顔になった。
「……気をつけるよ」
「ん」
◇
教室につくと、森里が俺の席でなにかをしていた。声をかけずに後ろから覗きこんでみると、どうやら消しゴムとカッターを持っている。
「……なにやってんの?」
「おお」
「なにやってんの?」
「消しゴムはんこつくってる」
「……なんで?」
「楽しそうだったから」
「……そう」
俺の反応に、森里はつまらなそうな顔をした。
「なんだよ、冷めてんな。もっと興味持てよ」
「……唐突すぎて何をいえばいいのかもわからない」
「よし、これで……なあ、朱肉とか持ってない?」
「持ってねえだろ、普通」
「おまえは普通じゃないだろ……」
今更何を言ってるんだ、という顔をされる。
「……さすがに納得がいかない」
「……ったく。大澤もおまえも、近頃妙に付き合い悪いよな」
「大澤のことは、俺にはわかんないけど」
「なんで? 部活には出るようになったんだろ?」
「あんまり話さないからな」
「ふうん……」
森里はちらりと俺の方を見たあと、消しゴムをつまみあげてしげしげと見つめ、再びカッターを握った。
「俺の席なんだけど」
「知ってるよ」
「なんで俺の席でやるんだよ」
「自分の席が汚れるのが嫌だからだよ」
ひどい話だ。
「……おまえ、なんかあった?」
「なんかって?」
「わかんねえけど」
「わかんねえけど、なんだよ」
「……いや、いいわ」
彼は立ち上がった。
「それやるよ」
「それって……」
……机の上に置きっぱなしの削られた消しゴムのことだろうか。
削られた部分は、どうやら何かの文字になっているみたいに見えた。
「……なんだよこれ」
「俺たちのことだよ」
と森里は言った。
手にとって確かめてみようとするが、鏡文字になっているせいでよくわからない。
無性に気になって、俺はノートを取り出す。とはいえインクになるようなものは持っていないから、消しゴムの表面を見ながら、森里がなんと書こうとしたのかを想像するしかない。
浮かび上がったのは、デジタル表示のように角張り、妙なところに隙間が空いたような、いびつな形をした四つの数字だった。
「 5993 」
◇
昼休みの屋上に遠野はやってこなかった。
◇
放課後、部室に行くと、いつもより人数が少なかった。藤見と枝野、それから大澤がいない。一年生たちは揃っていたが、他には西村しかいない。
「みんなは?」と訊ねると、西村は曖昧に笑った。
「わかんない」
ふうん、とうなずいたあと、藤見がやってきた。べつに変わった様子はない。
俺は鞄から読みさしだった「花束のつくりかた」を取り出し、読み進めることにした。
どうしてか、ついこの間までよりずっと集中して読むことができる。
どうしてか?
考えることから逃げているのかもしれない。
少し経ったあと、不意に相羽から声をかけられる。
「佐伯先輩」
「ん」
「この間のことなんですけど」
「この間?」
「自転車借りたじゃないですか」
「ああ」
「助かりました。昨日はお礼言うタイミングがなかったので……」
「うん……」
どうでもいいや、とまでは言わないけれど、あんまり頭には入ってこない。
「なにかお礼がしたいんですけど」
「……お礼?」
「はい」
「や、いいよ」
ちらりと相羽の後ろを見る。パイプ椅子に腰掛けた染谷が、何かを言いたげにこちらを見たけれど、すぐに視線をそらした。その様子がこの間までと少し違って見えるような気がした。
「でも」
「自転車貸しただけだろ」
「でも、助かったので」
「解決したの?」
「はい」
「じゃあいい」
尚も何か言いたげにする相羽に、
「それじゃ、今度コーヒーでもおごってくれ」
と、適当に告げる。相羽は困ったような顔で笑って、「わかりました」と言った。
「花束のつくりかた」は、もうだいぶ後ろの方まで読み進めていた。
「……それ」
「ん」
「『花束のつくりかた』ですよね」
「……うん。読んだの?」
「ええ、まあ……」
含みがありそうな言い方だった。
「みんな読んでるもんなんだな」
「……どうですか、それ」
「……」
妙に真剣な顔つきで、相羽はそう訊ねてくる。俺は少し怪訝に思った。まるで自分が書いたものの評価を求めるみたいに、緊張したような表情だ。
「おもしろいよ」
と、俺は言う。相羽は続きを待つように唇を引き結ぶ。
「おもしろいし、巧い」
「……そう、ですか」
相羽はかすかにうなずいたように見えた。
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