02-03
部室に出るつもりには、やはりなれなかった。
いつも、途中までは行こうとする。それなのに、なぜだか足が遠のいて、結局屋上に向かおうとする。
最近はそんなことばかり繰り返している。
いつものように東校舎の階段を昇り、屋上へと向かう道すがら、不意に声をかけられる。
「佐伯」
振り返ると、知らない男子生徒が立っている。
見覚えはあるけれど、話したことはない、はずだ。たぶん。
「……」
背の高い、体格のいい男子生徒だ。何度か廊下ですれ違ったことがある。たぶん同学年だろう。
偶然俺を見つけて名前を呼んだというよりは、なにか理由があって俺に話しかけたといった雰囲気の声だった。
「なに」
どうしてか、近頃は人に話しかけられることが多い。
周囲に人が増えすぎている。
新しい名前が多すぎて、混乱する。
俺はもっと小規模な人間関係の中で生きていたはずだった。
学校、部活、バイト先、知らぬ間に関係が増えている。
元来、得意じゃない。
混乱する。
彼は、俺を見て、覚悟を決めたような顔をした。
「文芸部の佐伯修司だよな」
わかりきったことを確認するような調子で、彼は言う。俺は頷く。
少し影の差した廊下の床に、彼の床が長く伸びている。
俺はなんとなく不吉なものを感じた。
「頼みがある」
「……頼み?」
「ああ」
戸惑いが顔に出ていたのだろうか。彼は、一度呼吸を整えるようにしてから言葉を続けた。
「俺は遠野。遠野 雅秋だ。たぶん話すのは初めてだな」
「そうか」
「急に話しかけて、悪いな」
「いや。ほっとした」
彼は少し怪訝そうな顔をする。
話すのが初めてでよかった。話したことのある相手を忘れているよりずっといい。
遠野雅秋。
やはり聞き覚えのない名前だ。
「頼みって?」
一応、聞いてみるしかない。内容も聞かずに断るのは、少し勇気が必要だ。
案外、たいしたことのない頼みかもしれない。
無理そうな頼みなら、断ればいい。そう思った。
「文芸部の部室と同じ階に、漫研の部室があるの、知ってるか?」
「……漫研? て、漫画研究会だよな」
「そう。俺、そこに入ってるんだ」
「……はあ」
嫌な予感、のようなもの、が、まとわりついている。
「漫研はいま、大喧嘩の真っ最中なんだ」
「……喧嘩?」
「そう、派閥争いって言ってもいい」
面倒そうな話になってきた、と俺は思った。
「漫研って言っても、まともに漫画を描いてるやつは何人もいない。主だったのは二人。片方は部長、もう片方は平部員。どっちも三年だ」
「そうか。受験勉強もあるだろうに大変だな」
「人のことは言えないだろう、文芸部も」
「俺はサボってるよ」
「まあ、とりあえず聞いてくれ」
遠野は俺の反応を意にも介していないように話を続ける。
「もともと、部長とその平部員ってのは、描いてる漫画の傾向が似ても似つかないタイプで、反りが合わなかった。それでもこれまで二年は一緒にやってきた仲だ。表立って喧嘩することはなかったけど、漫研の中じゃあぶつかり合うことが多かったふたりってわけだな」
「はあ。そういえば会なのに部長なんだな」
「便宜的に会って呼ばれてるだけで、扱いは部なんだよ。それで、ついこの間のことだ。その平部員がある日部室に行こうとすると、途中で部長と他の部員たちが立ち話してるところに鉢合わせた。立ち聞きするつもりはなかったが、そいつは部長が自分の陰口を言うのを聞いてしまった」
「なんて?」
「あいつの描いてるもんは自己満足の代物にすぎない。エンターテイメントじゃない。面白いと思えない。あんなの読んで喜ぶ奴がいるとは思えないってな」
「ふむ」
「さて、平部員は感情的なやつでな。なんとなく思われていそうなことは見当がついていたとしても、直接腐されてしまうと黙っちゃいられない。それで部長に食って掛かったわけだ。おまえの描いてるもんだってエンタメとは名ばかりの流行りのサブカルの寄せ集めの集積でオリジナリティのかけらもないゴミクズだ、絵もコマ割りも演出もわざとらしくて見てられない、と、まあそんな具合だ」
「なるほどね」
「さて、ここでふたりは完璧に袂を分かつことになったわけだ」
袂を分かつという言葉がこの場合正しいかどうかはわからないが、ひとまず俺は続きを促した。
「それで?」
「しばらくは冷戦状態だったが、このたび部長がついに決断したんだ」
「なにを」
「宣戦布告だよ」
俺は思わず眉をひそめた。
「部長は部員全員を集めたミーティングで部内でのコンテストを提案したんだ。つまり、規定の枚数の漫画を仕上げられるものが仕上げて、各部員が一票を持ち、投票形式で優秀作品を決める、という形で。ただ、さっきも言ったとおり、漫画をまともに描いてるやつは、部長とその平部員の二名のみ。実質的には宣戦布告だってわけだ」
「……ふむ」
なかなかおもしろそうなことをやっている。少年漫画的で素晴らしい。
「コンテストが実施されるのは六月始め。それまでに、部長と平部員は漫画を仕上げなきゃいけない」
……さて、未だに話が見えない。
「とりあえず」と俺は声を上げた。
「その平部員ってのは、おまえのことでいいんだな?」
遠野雅秋はゆっくりと頷いた。
「よくわかったな」
「そうじゃなきゃ、話が繋がらない」
「そう、話が繋がらないのはよくない」
「……」
わかったようなことを言う奴だ。
「頼みっていうのはそれなんだ、佐伯」
遠野は一拍置いて、まっすぐに俺を見た。
「俺の漫画の原作を書いてくれ」
俺は、また眉をひそめた。
「……なんでそうなる」
「俺が必要だと思ったからだ」
「違う。おまえひとりで勝たないと勝負の意味がないだろうが」
遠野は首を横に振った。
「部長には許可をとった。あいつもあいつで、どうせ他のやつらと相談しながらアイディアをまとめてるんだ。いつもそうだからな。今回俺がそれをやって悪い理由がない」
「だとしても」
と俺は言った。
「なぜ俺が手伝わなきゃいけない」
「もちろん、手伝わなくてもいい。そのときは俺がひとりでやる」
「……」
違う。
そんな質問じゃない。
俺は、言い直す。
「……どうして俺なんだ」
そう。その問いが正しい。
どうして俺なんだ。
「文芸部だから話を考えられると思ったら、大間違いだぞ」
「そういうんじゃない」
と彼は言う。
「誰かに協力を求めるって考えたとき、おまえのことが浮かんだんだ」
「……話したことが一回もないのにか?」
「おまえの書いた話なら読んだことがある」
俺は、そのとき、
どきりとした。
「手伝ってくれ、佐伯」
まだ、彼はまっすぐに俺を見ている。
「あの馬鹿野郎どもにわからせてやらなきゃいけない。でも、俺だけじゃそこまではいけない」
「……」
「俺は、自分の描いてるもののほうがあいつらより優れてるなんて言う気はない。でも、あいつらにほんの少しでも思わせてやらないといけないんだ。『こういうものがある』って」
俺は。
ひとりでやれよ、と、そう言おうとしたのに、言えなかった。
「佐伯、おまえの小説は面白いよ」
そんなことを、言われたことはなかった。
逃げ出したいような気分になる。
顔を隠して、今すぐにでも走り去ってしまいたいと思う。
それなのに、靴の裏が床に縫い付けられたみたいに動けない。
言い訳をしたい。でも、誰に言い訳をすればいいのかもわからない。
ただ、苦い気持ちで視線を見つめ返す。それなのに、逃げられないと思う。
どうしてだ。
どうしてこうなるんだ。
「頼む、佐伯」
彼はそこで、頭を下げた。
俺は、凍りついたように動けなかった。
どうしてそんなことになるのか、わからなかった。
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