02-04
ひとまず話をしよう、と、そう言った遠野に、素直に頷いてしまったのはどうしてなんだろう。
廊下を歩く彼は、こちらを振り返りもしない。俺がついていくと信じているような素振りだ。
それを振り切れなかったのは、単に、ことわりもせずにいなくなったら悪いから、という理由だけではないような気がする。
自分でもよくわからない。最近はそんなことばかりだ。
……たぶん、考えないようにしているんだろう。そう自覚しているのに、頭が回る気はしない。
彼は俺を連れて一階に降り、東校舎と本校舎をつなぐ渡り廊下まで歩いた。
そして不意に立ち止まる。
「なにか飲むか?」
校舎の隅に置かれた自動販売機に、彼は小銭を突っ込む。
「いらない」
と俺は答えた。彼は軽く頷くと、缶ジュースを一本買った。
プルタブをひねると炭酸の抜ける音がする。一口飲み込んだかと思うと、彼はまっすぐにこちらを見た。
「どこから話したらいいだろうな。俺の側の事情は、さっき言ったので全部なんだが」
彼は、途方に暮れるような顔をした。
俺は溜め息をついて、質問を考える。
「……他のやつでもいいだろう」
「ん」
「大澤や、枝野や西村でもいいだろう。なんでよりにもよって俺なんだよ」
「……」
「俺は……」
誰かを楽しませるようなものなんて書けない。
誰かの期待に沿ったものなんて書けない。
俺には書けない。
「……まあ、そういう質問が出てくる気もしていたが」
壁に背をついて、遠野はひとつ息をついた。
「俺はべつに誰でもいいわけじゃあない。おまえがいいと思った」
どうせ適当に言ってるだけだろう。そう思ったけれど、言わなかった。どっちでも同じことだ。
「どうして」
「どうして?」
彼は眉をひそめる。俺は言葉を続けられない。
彼は考えるような間を置いたあと、口を開いた。
「他の奴らの小説もたしかに面白い。でも、俺が描きたいものとは違う」
「……俺の書いたのは、そうだっていうのか?」
「ああ」
彼はあっさりと頷いた。
「厳密に言うと、俺が目指す手法に一番近い」
「……遠野」
冗談よせよ、と俺は思った。
「無理か?」
気遣うように、彼はそう訊ねてくる。そんな顔をしてほしいわけじゃない。そんな顔をさせたいわけやない。
それでも、
「無理なんだ」
「……そうか。まあ、そういうなら、仕方ない」
思っていたよりもあっさりと、彼はそう言った。言いようのない悔しさが胸の内側にじわりと広がる。
毒を盛られてるような気分だった。
いたたまれなさ、ではない。申し訳なさ、でもない。
歯痒さに、一番近い。
べつに言葉を続ける必要なんてどこにもなかった。
それなのに俺は、何かを吐き出すみたいに、声をあげる。
「書けないんだ」
彼は、戸惑ったみたいに俺を見る。吐き出す言葉が熱を持っているような気がする。
くだらない。
ちょっと前までの俺なら、こんなことは受け流せたはずだった。
へらへら笑いながら悩めたはずだった。
大澤や森里とバカ話をしながら、普通に過ごせていた、気がする。
それなのに今、俺は自分の腹の中にたまった熱にやられて身動きもとれない。
何をしていいのかもわからない。
自分の中のいろんなものが怒りや攻撃性で希釈されている。
誰彼構わず、噛みついてしまいそうになる。
「書けない?」
遠野は不思議そうな顔をした。
「ああ」
頷きを返すのも、エネルギーがいる。声に出したら、それを認めたことになる。
書けない。
そういうときもあるよ、とひなた先輩は言うだろう。
これまでもそうだったように。
気分が乗らない日くらいあるよ、と。
違う。
そうじゃない。
「嘘をつけよ」
と遠野は言った。
「おまえはどうせ書くよ」
どこか憤りを含んだ口調で、彼はそう呟いた。
◇
とりあえず読んでみてくれ、と言って渡されたのは、遠野がこれまで書いたらしい漫画をまとめた冊子だった。
ぱらぱらとめくってみたかぎりだと、何篇かの短編がまとめられているらしい。
絵柄は、華やかではないがバランスの取れた落ち着きのあるものだった。漫画の良し悪しはわからないし、素人目だけれど。
遠野が立ち去ったあと、俺は中庭のベンチに腰掛けてその漫画を読んでみることにした。
台詞が少なく、場面の転換も少ない。モノローグもほとんどない。
登場人物も少なく、展開も希薄だ。こういう漫画を俺はどこかで読んだことがある。
それで、ふと思い出した。
「リバーズ・エッジ」だ。
とってもおもしろいよ、と俺に教えてくれたのは、ひなた先輩だったっけ。
もちろん画風は全然違う。岡崎京子のものに比べると、描き込みが多い。それでも、絵の切り取り方なんかに、そうした雰囲気を感じる。
内容は、どちらかというと日常的な生活を主眼に置いているように見えた。
何気ない風景、何気ない人物、何気ない会話。
それらがふとした瞬間に見えない地雷を踏む。そして描かれた人物が隠した心境に触れていく。
きわめて地味な作風だ。
一篇目は成人したふたりの男女を主役にしていた。片方は姉、片方は弟。遺品整理の最中に、ふと亡くなった父が昔言っていた言葉を思い出す。
その言葉を起点に、ふたりの過去の回想が会話のなかで行われる。そこに認識の齟齬が生まれ、お互いに隠していることに踏み込んでいく。
二篇目と三篇目は、たとえるなら江戸川乱歩と中村航のいささかこわばりがちな握手と言った風情だった。
四篇目は、数人の少年少女を主役にした、この中では一番明るい話。少しだけSF的要素も混ざっている。
そして五篇目は……。
「やあ」
後ろから声をかけられて振り返る。
紙パックのカフェオレをストローですすりながら、そこに大澤伸也が立っていた。
文芸部の現部長。俺にとって数少ない、友人と呼べる相手。
「ああ」
返事をすると、彼は頷いて俺の隣に座った。
「なにやってんの?」
問いかけに、曖昧に頷いた。
「うちの学校に漫研があるだろ」
「漫研? ああ」
「遠野ってやつに読んでくれって言われて渡されたんだ」
「なんでまた」
「……」
言うか言うまいかを迷って、結局、口に出した。
「話を考えるの、手伝ってくれってさ」
「……」
大澤は、少し困ったような顔をした。
「手伝うの?」
「……」
「美里が」
「ん」
「部、出ろってさ」
「……」
「部誌、書けそう?」
「……わからない」
「そっか」
大澤はそれ以上何も言わなかった。
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