08-05



 それでも俺が彼の言うとおり、土曜に駅前を訪れたのは、べつに彼がしつこかったからというわけじゃない。単に、そういう気分だっただけだ。


 待ち合わせ場所に、相羽は時間に少し遅れてやってきた。俺はちょうど、「花束のつくりかた」をそのときに読み終えた。彼の背後には、見たことのない女の子がいた。


「……彼女?」


「いえ。……まあ、気にしないでください」


 それは無理があるだろうと思ったけれど、詳しいことは気にしない。


「それ、読んでたんですか」


「ん」


 相羽はやけに、この本を気にする。


「うん」


 と返事をすると、彼は少しだけ考えるような素振りを見せた。相羽が連れてきた女の子も、なんだか不思議そうな顔でこちらを見ている。

 相羽よりも背が低く、大きな瞳はどこか眠たげで、肌はとても白い。肩まで伸びた黒い髪。べつに、何も言ってこない。

 

 どうしてだろう。

 どこかで見たことがあるような気がする。


「……こんにちは」


 と声をかけると、彼女はびっくりしたみたいだった。


「……こんにちは」


 と、よこした返事も、小さく頼りなく、細く、聞き取りづらい。


 困ったみたいに笑って、相羽は言葉を引き継いだ。


「姉です」


「お姉さん?」


「はい」

 

 どちらかというと妹みたいだな、とは言わないでおいた。


「……じゃあ、店行きましょうか」


 そして連れて行かれた店は、コーヒーが一杯一二○○円くらいする喫茶店だった。

 ホットのブレンドを頼むと、「暑いのによく飲みますね」と感心した様子で相羽は溜息をついた。


「このあいだは本当にありがとうございました。おかげで助かりました」


「いや。……自転車貸しただけだし」


「いえ。おかげで事なきを得たので」


「……」


 冷静に考えれば、あのとき相羽が慌てていた理由が、この、相羽の隣に座っている女の子だったのかもしれない。


 それなら、まあ、わからないでもない。


「よく迷子になるんです」


「……迷子ね」


 ただの迷子じゃないだろう。

 そんな気がした。でなければ、あのときの彼の態度は必死すぎた。


「あの」


 と、相羽の姉はそこで初めて声をあげた。


「さっき読んでた本」


「ん」


「……『花束のつくりかた』、だよね」


「……ああ」


 どうしてそんなに、みんなこの本をきにするんだろう。

 藤見も、相羽も、この子も、ひなた先輩も、一度だけ屋上で会った、相羽からの伝言を伝えてくれた子も。

 俺がこの本を読んでいると、みんなこの本に触れる。


「どうだった?」


「どう……」


 みんなそう聞くよな、と思った。

 でも、そのたびに思う。


 みんな、どうしてか、真剣な顔をしてそう聞くのだ。


「どうって言われると……」


「……つまらなかった?」


「いや、そうじゃないけど」


 ハッとした顔になって、彼女は俯いた。


「……ごめんなさい」


「いや……」


 相羽の方をちらりと見ると、彼は困った顔をしていた。

 困りたいのは俺だ。


 みんななんて言ってたっけ。


 森里は、いい本だったって言ってた。

 ひなた先輩は、複雑そうに、よかったと思う、と言っていた。

 屋上で会った、名前も知らない子は、「甘ったれで嫌い」と言った。

 藤見は……興味がなかったから読まなかったって言った。

 相羽は、何も言っていなかったっけ。


 俺は……?


「よかったよ」


 と俺は言った。


「なんていえばいいんだろうな……」


 甘ったれだって言葉も、なんとなくわかる気もした。

 けれど……。


「痛いけど優しいって感じがした。きれいだけど、きれいなだけじゃなかった。それから……」


 これは、ひょっとしたら、俺の個人的な印象なのかもしれない。


「なんだか、不思議なんだけど、懐かしい感じがしたんだ。だから……」


 よかったと思う、と、もう一度言いかけた。

 きっとひなた先輩があんなふうに感想をいいあぐねたのは、俺に先入観を植え付けたくなかったからだったのかもしれない。

 たぶん、彼女はこの話が大好きなんだろう。


 そんな気がする。


 ふと顔をあげると、彼女は泣いていた。


 目をあけて、まっすぐにこちらを見て、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしていた。俺は目をそらせなくなる。戸惑いよりも先に、不思議な感覚が俺を襲った。

 こんな姿をどこかで見たことがある気がする。


 目を離せずにいると、彼女はまたハッとして、手のひらで目元をこすりはじめた。店員がコーヒーを運んできて、最初に彼女をちらりと見て、俺と相羽を交互に見て、それから笑顔を残して去っていった。


「ごめんね」と彼女は言った。


「いや……」


 なんと言えばいいのか、わからない。

 目の前で何が起きたのか、よくわからない。


「わたしが書いたの」


「……」


「わたしが書いたんだよ、その本」


「……」


 俺は、彼女の言葉の意味が理解できなくて、相羽のほうに視線をやった。彼はまだ困ったふうに笑っていて、仕方なさそうに頷いた。


「……高宮さゆ?」


「……うん。そう」


「……なるほど」


 さすがにちょっと混乱した。けれど、それで納得がいくことは、少しある。だから、疑う気にはならなかった。


「よかったよ」


 と俺は繰り返した。

 

「ありがとう」


 彼女はようやくそこで笑った。


「よかったよ」


 それ以外に何を言えばいいのかわからなかった。


「……剽窃したくなるくらいに」


 っていうのは、褒め言葉になるんだろうか。


 彼女は苦笑した。


「そっか。……あのね」


「うん」


「読んでほしい人がいたの」


「……」


「自分なんかいなきゃよかったって、そう言ってた子がいたの」


「……うん」


「その子が読んでくれたらなって、そう思ってたの」


「……」


「だからね……」


 赤くなった目のまま、彼女は笑っている。

 

「ありがとう」


 どうして俺はお礼を言われてるんだろう。そんなことさえわからずに、ただ彼女の視線を受け止めることしかできない。



 コーヒーは、本当は味なんてよくわからなくて、それでも美味しかったような気がして、そんな全部がよくわからなかった。


 気付けばもう七月で、外は太陽がやけに眩しくて、アスファルトはやけにじりじりと熱気を放って、全部が全部嘘だったみたいに見えた。


「本当にありがとうございました」と相羽は言った。「今日は、礼を言うのは俺のほうだろう」と言うと、彼は苦笑した。


「先輩はこのあとどうするんですか?」


「少し用事がある」


「彼女さんですか?」


「……そんなところ」


「じゃあ、俺たちは帰ります」


「ありがとう」


「こちらこそ」


「じゃあ、佐伯先輩、また学校で」


「ああ」


「ばいばい、修司くん」


 そんな声を背中に受けて、俺はとりあえず歩き出した。


 少ししてから、ふと気付いて振り返る。ふたりはもうこちらに背を向けて歩き始めていた。


 今日、俺は彼女に名乗ったっけか?


 

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