08-06
「かっこう」には藤見がいた。コーヒーはさっき飲んだばかりだ。簡単に昼食を取ろうと思って、ピラフだけを注文する。
「珍しいですね」と藤見は言った。
「今日はひとりでおでかけですか?」
「このあと、ひなた先輩と会う予定」
「ふむ」
藤見はちょっと複雑そうな顔をした。
「わたしが言うのもなんですけど、彼女と会う前に知り合いの女子のバイト先に来るのって、どうなんです?」
「そんなこと言うなよ。俺とおまえの仲だろ?」
「……」
訝しげな顔をされて、さすがに冗談にしてはタチが悪かったかと考える。
「まあ、べつにだめとは言わないですけど。ひなた先輩に甘えてると、そのうちひどい目に合いますよ」
「かもな」
「あと、わたしにも」
「……肝に銘じとくよ」
「ごはん食べに来たんですか?」
「うん」
はあ、と彼女は溜息をつく。
「本当に気分屋ですね」
「そうかもね」
「千枝ちゃん、元気ですか?」
「……どうだろうな」
「話してないんですか?」
「まさか」
「ですよね」
「なんか、部誌を作るって言ってたな」
「それは、楽しみですね」
「うん」
「せんぱいも……」
「ん」
「や、なんでもないです」
藤見は、ちょっと視線をそらした。
ピラフを食べたながら、ひなた先輩のことを考える。それから、大澤のこと、森里のこと、遠野のこと。
道塚のこと、ギンジのこと、ツバキのこと、相羽のこと。それから、相羽の姉……結局、俺のほうは名前を聞き損ねてしまった。
暇そうな様子で、テーブルに近付いてきた藤見は、「サービスです」と言いながらアイスコーヒーをよこしてくれた。俺は厚意に甘えることにした。
「部長は」
「ん」
「大丈夫ですかね」
「俺はどちらかというと、西村のほうが心配だけど」
「ううん。部長のほうが危なっかしいです」
彼女が言うなら、そうなのかもしれない。
たしかに、最近の大澤は様子がおかしい。
森里もそうだ。
……けれど。
「大丈夫だろう」
「……ちょっと冷たくないですか?」
「そうかもしれないけど……」
俺たちは別々の人間だ。
たとえば俺たち三人が並んで歩いているとして、その先が十字路になっているとする。
俺たち三人は、きっと別々の方向に進みたがるのかもしれない。
そんなふうに思う。
「あいつはたぶん、思い切り考えて決断するやつだから」
だから大澤は、俺に何も言わない。
森里だってそうだ。
あの日、あんなことを言っていたのに、最近はまた飄々としている。
言ったことの責任なんて気にしないで、いつだってやりたいように振る舞うんだろう。
俺は、それでもいいと思っている。
テーブルの上にはグラスがある。片方は水、片方は厚意のコーヒー。
俺は水のグラスを眺める。
青い光が見える確率は、何分の一なんだっけ。
大澤が何を考えて、どういう結論を出したのか、俺には理解できない。西村はわかっているのかもしれない。
でも、それは俺がとやかく言えることじゃない。
「あのさ藤見」
「……はい」
「こないだ、屋上で……止めてくれてありがとな」
「……」
彼女は、あっけにとられたような顔をした。
「わたしは……」
「悪いと思ってたんだ」
「……でも、あんなこと、しなくてもよかったです」
「なんでだよ」
「せんぱいがあんなふうになっても、止める資格なんてないです」
「……思いの外めんどくさいやつだな」
「……」
せんぱいにだけは言われたくないですけどね、と言われなくても思っているのがわかった。
「千枝が、部誌を作るって言ってたって言ったろ」
「はい」
「俺にも書けって言うんだよな、あいつ」
「……それはまた」
「それが責任だって」
「……責任ですか」
「だからってわけじゃないけど……」
「はい」
「書こうと思うよ。……やっぱ、情緒不安定で悪いなって思うけどさ」
「……」
彼女にはもう、関係のないことかもしれない。
彼女はもう、俺に書いてとは言わない。
それでも言っておくべきだという気がした。
藤見は、俺が席を立って会計を済ませても、まだ何かを考えるような顔をしていた。
そして、ドアを開けて店を出ようとしたときに、
「小説」
と、声をあげた。
「早く、書いてくださいね」
「……」
俺は、返事をすることができなかった。
「わたしは、ずっと待ってたんですからね」
「……」
「せんぱいがつらそうだったから、言わなかったけど。でも……待ってるんですからね」
俺は、こんなことを、いつかも言われたような気がする。
そのときは、どんなふうに返事をしたんだっけ。
なんだか、自分がすごく馬鹿な人間に思えて、思わず笑みがこぼれた。
「期待に添えるか、わからないけど」
「関係ないです」
と藤見は言った。
「……じゃ、また学校で」
「はい」
そう言って彼女は、笑って手を振った。
◇
ひなた先輩は公園のブランコに腰かけていた。
俺は声をかけずに、隣に座った。
「なにしてたんですか」
「ブランコ」
「……」
「空を見てたの」
「空ですか」
「虹が見えないかなあって。むこうのほう、さっき雨が降ってたみたいだったから」
言われて、空のむこうを見る。言われてみれば、水色の雲が遠くの方にかかっていた。
「修司くんは、午前中はなにしてたの?」
「後輩と会ってました」
「ふうん。女の子?」
「いや、男です。……女の子もいたけど」
「ふうん?」
「あとは、かっこうに」
「千歳さんのところ?」
「はい」
「ふうーん」
「……まあ、すみません」
「や、べつにいいよ?」
ほんとかなあ、と俺は思った。
「小説を」
「ん」
「書くつもりだって、言ってきたんです」
「ん、そっか」
ひなた先輩は、やわらかく笑った。
「今度は、一緒にいこうね」
「……そうですね」
ひなた先輩は、トン、と勢いをつけて立ち上がった。
「今度は、どんなのを書くの?」と、ひなた先輩は言った。
今度は何をするかな、と俺は考える。
わからない、と誰かが答える。
「……さあ、どうしましょう」と俺は答える。
「そっか」と彼女は頷いた。そして、
「もう行こっか?」と彼女は言った。
まだ彼女は、空のむこうを見ていた。
虹は見えそうにない。
それでも、
「……そうですね」
と、俺は頷いた。
「そろそろ、行きましょうか」
彼女は笑った。俺も、ほんの少しだけ笑った。
立ち上がって歩きはじめると、ひなた先輩は途端に落ち着かない様子になる。
「……で、でも、緊張するねえ」
「まあ、先輩はそうかもしれませんが」
「修司くんは、それは自分の家だしね」
「べつに、緊張するような家でもないですよ」
「そういう問題じゃ、ないんだよなあ」
「俺はもう、先輩の家に行きましたし、ここで躊躇されてもなあ、と思います」
「ん。ま、そうかもだけど」
「怖いやつじゃないですよ、うちの妹は」
「……んん。そうなのかな」
「はい」
「でも」
「ん」
「ちょっと、楽しみかもね」
そう、今はそんな気分だ。
◆
万年筆をくれたあの春の夜、ひなた先輩は言っていた。
「もっと素直に笑ったり、泣いたり、甘えたり、怒ったりできたらよかったんだろうね」
そんなふうに言っていた。桜の花びらが紙吹雪みたいだった。
「でも、きっと……そうできないから、きみは書くんだろうね」
そうかもしれない、そうじゃないかもしれない。
「きみの書いた文章が好きだよ」
そう言って、彼女は笑っていた。
その万年筆は手帳と一緒に今日もポケットに入ったままだ。
祈りみたいだと思った。
おまえには無理だよ、と誰かが言った。
きっとそうなんだよな、と俺は思う。
だったらもう、それでいい。
書くか、書かないか、何を書くのか、何のために書くのか。
そういうのは全部、きみが決めることだと思います、とひなた先輩は言った。
俺も、今はそう思っている。それが、誰かにとっての何かになればいいと思う。
かつて、彼女がそう言っていたように。
◇
千枝とひなた先輩は、その日、ふたりで一緒にクッキーを焼いて、焼き上がるのを待ちながら、庭で一緒にシャボン玉を吹いて、それから、少し固めに焼けたクッキーをかじりながら、困った顔をしていた。
俺は、いつか今日のことを思い出すんだろうな、と、なんとなく、何の根拠もなく、そう思った。
愚かな者の語ること へーるしゃむ @195547sc
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