愚かな者の語ること

へーるしゃむ

01-01


 昨日の夜交わしたメールのやりとりを、何度も見返している。 

 最後の返信の最後の行を読み終えたあと、またすぐに読み返してしまう。どうしてなのかはわからない。ずっとそればかりを繰り返している。


 型落ちのフィーチャーフォンにはまぬけな顔をしたクマのストラップがついたままだ。「おまえがつけるにはかわいすぎるな」と友人にはからかわれるけれど、今のところ外す気にはなれていない。そろそろ外してしまうべきなのかもしれない。なんとなく、そう思う。


「でも、そういうのはぜんぶ、きみ自身が決めることだと思います」

 

 最後のメールの最後の行。そのあとに、「おやすみなさい」と続いている。普段とはうってかわって、絵文字のひとつもない。


 これで最後にしようと思って、本文を全部見返したあと、画面を閉じて携帯を折りたたんだ。


 息をついて周囲を見回す。

 目の前のガラステーブルの上に、筆記用具とノートパソコンが広がっている。ぜんぶ俺の持ち物だ。テーブルの上には、他に、飲みかけのコーラのペットボトル、ついこないだ発売した漫画の新刊、古いゲームソフトが置かれている。こっちは俺の持ち物ではなく、部屋の主の持ち物だ。


 その当の部屋の主は、ベッドの上でエアコンの風を浴びながら横になったまま、気だるげに俺の様子を見て、「どれかひとつにしろよ」と言った。


「どれかって?」


「ノートとペン、パソコン、携帯」


「携帯はもう閉じた」


「じゃ、どっちかにしろよ」


「どっちも必要なんだよ」


「どう必要なんだ?」


「相関図とかメモはアナログの方が手っ取り早い。文字を打つのはキーボードの方が早い」


「なるほどね」


 さして興味もない様子で相槌を打つと、彼はまた枕に顔を埋めた。端正な顔をしていると、寝ぼけ顔でもある程度さまになるものなんだな、

と俺は変に感心した。


 五月にしては暑すぎる土曜だ。約束はしていなかったけれど、部屋に行ってもいいかと連絡をしたら、かまわない、と返信が来た。「寝てるから勝手に入ってくれ」。それで本当に来てみたら、本当に寝ていた。我が友人ながら、豪気といえるかもしれない。


「それで」


 と豪気なる我が友は寝そべったままそう言った。


「何の用だ、土曜の朝っぱらから」


 時刻は午前十一時半。俺が来たのは十一時頃。けっして朝っぱらと言えるような時間ではない。が、あえてそこには触れなかった。


「用事は特にない」


「ない?」


「特に」


 少し間を置いて、彼は顔を上げてこちらを見た。


「おまえが? 用もなく俺んちに?」


 心底不可解だというふうに目をすがめられ、俺は頷きだけを返した。彼は体を起こしてカーテンを開けると、窓の外を覗く。


「雪は降ってないな」


「五月だぞ」


「そういう意味じゃない」


 もちろんわかっていた。俺は溜め息をついてから言葉を返す。


「暑いから涼みにきた。エアコンつけてるだろうと思って」


「……図々しい奴め」


 呆れたように笑ったあと、彼は寝返りを打って仰向けになった。


「ファミレスにでもいけよ。バイトしてんだから金はあるだろ」


 俺は返事をせずに、目の前のノートパソコンを手の甲で軽く叩いた。


「……なんだ?」


「これ。五万円」


「買ったのかよ」


「おかげで金がない。節約しなきゃならん」


「バーカ」


 そう言って楽しげに笑ったあと、あくびをひとつして、彼は起き上がった。


「腹が減ったな。飯食いにいくか」


「金ないって」


「そう言っておいていくらかはあるだろ。おまえはそういう奴だ」


「……まあな」


「んじゃ、ラーメンでも食いに行くか」


「涼みにきたのにな……」


「どうせノートもパソコンも真っ白じゃねえか」


 たしかにどっちも真っ白だった。仕方無しに、俺は一文字も書けないままで全部を鞄に突っ込んだ。




「最近はどうよ」


 と、家を出てすぐ、彼はそう訊ねてくる。


「なにが」


「いろいろ。部活とか」


 相変わらず、漠然とした話し方をする奴だ。自転車の籠にリュックサックを突っ込んでサドルにまたがってから答える。


「べつに、相変わらずかな」


「あいつは? 最近付き合い悪いけど」


「部長? 新入部員入ってから、なんか様子が変だな」


「あいつの様子が不安定なのはいつものことだと思うけど」


 彼の言葉に、俺は曖昧に首をかしげた。俺の中での部長の印象とは合致しない。俺にとってのあいつは、ぶれない、揺るがない、安定している、そういう奴だ。たしかに去年の暮れくらいから、不安定な様子を見せていた気もするが、それがいつものことだと言われると納得がいかない。


 外は少し蒸し暑く、日差しは白く薄い雲に濾されてぼんやりと辺りに散らかっていた。俺と友人はふたり、自転車を漕いで住宅地を抜けていく。


「でも、おまえも何か書いてるってことは、文芸部はまた部誌でも作るのか?」


「まあ、そうだな」


「じゃあ、あいつも不安定なだけじゃないってことか?」


「いや、どっちかっていうと、部長じゃない奴が主導だ」


「っていうと?」


「部長の彼女」


「へえ。ていうか、部員入ったのか、文芸部」


「言ってなかったっけ?」


「まあ、こっちも興味ないから聞いてなかったし。何人?」


「三人」


「意外と大漁だな」


「まあ、たまたまだろうけどな。それで女子が張り切ってるんだ」


「で、おまえも張り切って五万のノートパソコンなんて買ったわけだ」


「ん」


「違うのか?」


「あー……」


 まあ、そういう言い方もできる。単純に、前からほしかったからバイト代を貯めていて、それでようやく買えたというだけなんだけど。

 

「あいつは彼女とはうまくいってんの?」


 そう訊ねられて、俺は思わず考え込んでしまった。


「……さあ? 本人に聞けば?」


「見てるだけだとわからんか」


「傍から見ててもわかんないもんだと思うし」


「そういう言い方したらそうだけどな」


 用水路沿いの狭い道を自転車で走る。ブロック塀からはみ出した家々の庭木のおかげで、動いていても少し涼しく感じられる。裏道から抜けて県道を少し上れば大通りに出る。こいつの家からだと、いろんな店へのアクセスが簡単なのが羨ましい。


「しかし、ちょっと寂しいもんだよな」


「なにが」


 なにがって、と彼は不服そうに溜め息をついて、からかうように笑った。


「去年の今頃は一緒にぐだぐだやってたのに、あいつもおまえもなんだかずいぶんやる気になったもんだなってさ」


「べつにやる気になってるわけじゃないけど」


「でも、ノーパソまで買って書いてるんだろ。おまえは文芸部の活動なんて、やってもやんなくてもどっちでもいいって思ってるもんだと思ってたけどな」


「……まあな」


 頷いてはみせたものの、嘘をついているような感覚が拭えない。

 用水路をまたぐ石の橋を抜けて、駄菓子屋の角を通り抜ける。狭い道のむこうから車がやってきたので、俺達は路肩に寄ってスピードを緩めた。


「やっぱ、彼女とかできると違うもんなのかね?」


「ん」


「おまえもあいつもさ」


「……まさか」


 笑おうとしたけれど、うまく笑えない。見逃してもらえるかと思ったけれど、彼は不審げな声をあげた。


「うまくいってねえの?」


「や」


「曖昧な返事だな」


「……」


「そりゃ、いろいろ難しいだろうとは思うけど」


「……べつに、そういうわけじゃないけど」


「ふうん?」


 彼の声は、興味なさそうに聞こえた。でも、それはたぶん本当ではないような気がする。たぶん、興味がないわけじゃないのだろう。単に、俺が期待するほど大きな興味を寄せてくれていないというだけのことだ。色恋沙汰なんて、他人からしたらその程度のものなのだろう。それは当たり前のことなのだ。


 赤信号の横断歩道の前に停まって、彼は器用に歩行者用の横断ボタンを押す。車はやってきていないけれど、無視したくなるほど待たされるわけでもない。

 信号が切り替わるまでの間、彼は話題の移り変わりなんて気にした様子もなく、


「今日は味噌の気分かなあ」


 と言って、寝癖をかきながらあくびをした。


 彼、森里悠真と俺は同じ高校に通う友人同士で、普段はもうひとりの友人と一緒に、三人でつるんでいることが多い。帰宅部なのは森里ひとりで、俺ともうひとりは文芸部に所属している。そしてもうひとりのほうが去年の秋から文芸部の部長になった。先代の部長がいた頃は、みんな自由気ままに好き勝手やりながら適当に文章にまつわるあれこれをするという感じだったが、今年の春に新入部員が入ってからは、ちょっと様子が変わっていた。


 部長はしっかりしているタイプだけれど、あれこれ提案したりすることとは無縁な、いわゆる受け身なタイプだった。その悪いところが出て、いつまで経っても自分から何かを始めようとは言い出さない。元来気ままなメンバーが集まっていた文芸部だから、とくべつ困りはしなかったのだが、それをよく思わなかったのは、文芸部の部員であり部長の恋人でもある西村だ。せっかく部員も獲得できたことだし、今年もさっそく部誌をつくりましょう、と言い出したのが先月末のことである。


 協調性と社交性が人より"ほんの少し"欠けている俺としては、新入部員たちの士気と向上心がそこそこ高いのも相まって、最近の部室にはかなり居づらく、西村が部誌作りを言い出してからというもの、あまり寄り付かなくなってしまった。おかげで部内での俺の評判はだだ下がりで、唯一味方してくれると思った後輩にさえ、「自分が言いだしたときは人を強引に誘ったくせに」と腹に据えかねる様子で文句を言われる始末だった。事実、去年暮れ頃の部誌作りのときは、俺と後輩が主導し、他のメンバーをけっこう強引に巻き込んだものだから、返す言葉もない。


 とはいえ、作るというのなら、もちろん原稿を用意しなければならない。どうにかして。

 

「……おい、青だぞ」


「ん。ああ」


 前を見て、ペダルを漕ぎ出す。自転車はゆっくりと加速している。

  

 問題はそこなんだよな、と俺は思った。

 俺は何かを書かなきゃいけないんだ。どうにかして。


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