02-01


 湿り気を帯びたやわらかい空気が、風に揺れることもなく舗道の上を漂っている。

 

 早朝の町並みは白く霞んで見える。玄関の扉を閉めたとき、その音がやけに大きく世界に響いた気がした。

 

 軽く手足を伸ばし、靴紐を結び直し、履き心地を確認する。

 俺は自分の体が自分の思ったとおりに動いていることを確認して、ほんの少しほっとした。


 肩を回し、瞼を閉じて軽く深呼吸をする。それから俺は静かに走り出した。

 

 習慣と呼べるほどおおげさではないにせよ、走ることがある程度俺にとって日常になりつつあることを改めて感じる。

 

 近頃は気温も落ち着き、天気も悪くない。早めに眠っていることもあって、早起きすることはさほど苦痛に感じなくなっていた。


 たいした距離を走るわけではない。何かの目標があるわけでもない。それでも、天気が良い日、気分がそこまで悪くない日、面倒に思わない日、という条件が揃った朝は、走ることにしていた。

 以前までは、朝起きたばかりには靄がかかったように頭がすっきりしなかった。それが夕方までずっと続き、一日中鈍い意識のまま過ごしていることがしょっちゅうだった。


 改善と言っていいのかはわからないが、それでも走り始めてからは、頭がクリアに澄みきって、少しだけ過ごしやすくなったように思える。もっとも、そこにはなにか別の要因があるのかもしれない。


 とにかく俺は、白く霞がかったような五月の早朝の町並みを走り出す。朝の静けさのなか言葉もなく走っていると、さわやかな夢を見ているような気分になる。


 家々の並ぶ通りを抜け、十字路の横断歩道を渡る。信号はまだ赤い点滅が続いている。あと一時間もすれば、車通りが多くなって、世界は当たり前の日常の景色に変わってしまうだろう。


 舗装された道路をしばらく走ると、大きな川と、それをまたぐ古い橋がある。隣県との境の連峰から流れてくる一級河川だ。特に思い入れがあるわけではないけれど、川を見ているのは嫌いではない。走りながらその水面の様子を眺め、通り抜ける。


 体を動かしていると余計な考え事をする余裕はなさそうなものだけれど、スローペースのジョギングくらいであれば、同じ姿勢で縮こまっているよりもむしろ頭が回るということに気付いたのは、けっこう最近のことだ。

 

 中学の頃だめにした膝は、運動するとまだ痛む。当時の顧問には運動を控えていれば治るものだと言われたけれど、未だに治る気配はない。気になって調べてみたら、運動をいくら控えても痛みがひかず、二十代や三十代になっても治療を続けている人もいると言う。もしかしたら俺もそちら側の人間なのかもしれない。いまだに膝にはラクダのコブのような膨らみがあり、正座をするどころか、屈むことさえ億劫になってきた。

 まったく運動していなかった時期でさえ治らなかったのだから、ジョギングを控えたところでもう関係ないだろう。それに、もうスポーツをする予定もない。消えない痛みならその痛みと無理のない範囲で付き合っていくしかない。運動をしなかったらそれはそれで病んでいきそうな気もする。なにより、俺だって走りたい。


 膝のことを考えるとき、俺はいつも同じことを考える。

 

 この世の中に、いったいどれくらい自分の意思でコントロールできるものがあるというんだろう。

 どれだけの人が自分の意思で自分の人生を切り開き、何かを成し遂げているというんだろう。

 

 俺は、

 何かを考えようとして、

 それをすぐにやめる、

 そんな自分を押し止める。


 とにかく俺は、自分が生きているようなやりかたで、他の誰もが生きているように錯覚しがちだ。

 誰もが俺と同じように感じながら生きていると、そんなふうに考えてしまう。そんなことはないのだとわかっていたとしても。


 意思。


 責任。


 どうして小説を書けなくなったんだろう。何度も考えてしまう。違う。考えたふりをしている。


 以前の俺にとって、文章を書くことは濁流に呑まれることだった。


 耐えぬ怒号と雷鳴の中、波濤に浮かぶ小舟の上でオールを握りしめているような頼りなくささやかな抵抗にすぎなかった。

 俺が漕ぎ出すことがなくても、船は水流に揺られて転覆しそうになりながら勝手にどこまでも運ばれていった。


 俺はその意味では自発的に文章を書いてすらいない。

 荒波が一本の櫂で流れを変えるわけもない。


 いま俺は、その海が嘘のような静寂に包まれているのを感じている。


 水面は波打つこともなく、凍てついたように揺らがない。

 透き通っていてなにもない。


 景色を眺める。

 息を切らして走っているはずなのに、視界も思考もどこまでもクリアに澄んでいく。

 

 文章を書いていたときの、あの霧雨のような感覚をどこまでも遠く感じる。


 ──わたしは……それは、せんぱいにとって良いことだと思うんです。


 そうかもしれない。

 そうじゃない。


 川の流れの果てに街が見える。街の向こうに朝日が昇っている。

 

 おまえには無理だよ。


 頭の中で誰かがそう言う。


 どこまでも景色は透き通っている。


 なにもない。


 湿気った枝で焚き火をしようとしているような、そんな気分だ。

 枝をどうにかして乾かせば火はつくかもしれない。


 けれど、わざわざ枝を乾かしてまで、火をつけるべきなんだろうか

 そこに嘘は生まれないだろうか。無理は、生まれないだろうか。

 その嘘はなにかを台無しにしないだろうか。


 俺は、ひなた先輩と別れたら、ひょっとしたらまた文章を書けるかもしれない、と、そんなふうに考えている自分がいることに、やっぱり気付いている。


 舗道に立ち止まり、空気が揺れていないことを知る。目を瞑り、海をイメージする。


 どこまでも凪いでいる。

 凪いでいて、澄んでいて、綺麗で、そこに付け加えられるべきものはないような気がする。


 嘘のように。


 俺は、

 

「おまえには無理だよ」


 と、自分で呟いた。





 朝、早めに教室について本を読んでいると、西村美里が俺のところにやってきた。


「おはよう」


 と彼女は言う。

 

 雰囲気としては柔和で、穏やかそうに見える。気が弱そうにも思えるくらいだ。


「何読んでるの?」


 どう返事をするか、考えてしまった。言われそうなことはもう分かっている。

 結局、


「テンペスト」


 と答えた。


「テンペスト?」


「シェイクスピア」


「『あらし』? 通だね」


 俺は首を横に振る。


「結局賢ぶりたいんだよな」

 

 彼女は納得したように頷いた。栞を挟んで本を閉じる。


「言いたいことは分かってる」


 そう言うと、西村は「そうだろうなあ」と言いたげな曖昧な顔をした。


「分かってるんだ」


「部室に出ろっていうんだろ」


「うん。そうだね」


 西村は俺と目を合わせなかった。俺も西村の方を見ないことにした。何を言えばいいのかもわからない。

 二年の頃に編入してきた西村。入部してきたときには、まさか彼女にこんなことを言われるようになるとは思っていなかった。

 

 もっともそれも当然の話かもしれない。

 俺にはいつだって、未来なんてものが本当に存在するのかどうか、どうしても実感できないままだ。


「佐伯くん、どうして部室に来なくなったの?」


 さあ、と答えようとして、やめた。


「わからない」


「そう」


 彼女はどうでもよさそうだった。


「部誌の原稿はどうする?」


「……」


 俺は、少し躊躇したあと、今までもさんざん口にしてきた言葉を、また繰り返してしまった。


「……俺が書かなくても、誰も困らないだろ」


「拗ねてる」


「……」


 そういうんじゃない、と言ったところで無駄だ。実際、拗ねているだけと言われたら、そうなのかもしれない。

 

 違う。

 違わない。


 どうなんだ?


「……出られそうなら部室出て、書けそうなら原稿書いて」


「どうして?」


「なんでって……」


「そういう部じゃなかった」


「……そうかもしれないけど、でも、新入部員だっているんだから」


 俺は頭を振って考えた。西村が悪いわけじゃない。


「出られそうだったら出るよ」


「そうして。……ひなた先輩だってきっと」


 俺は、その言葉に反応しなかった。


 西村は、結局言葉を続けずに教室を出ていった。苦い思いで俺は唇を噛む。今の言い方じゃ、西村を責めているようなものだ。べつに彼女は間違っていない。


 本を鞄にしまって、代わりにノートを取り出した。

 シャープペンを握る。


 ノートは始めのページから順番に、意味をなさない落書きと文章のなりそこないで埋まっている。

 

 思いつくままに叩きつけたような単語の羅列、

 どこかで聞いたなにかのフレーズ、

 執拗に繰り返される本の一節、

 途中で書くことをやめられた漢字のかけら、

 読んでいた小説の冒頭一ページの単純な複製。


 そして俺が書いていたはずの文章はどこにもない。

 

 気分が悪い。

 自分の文字を見ていることが嫌で嫌で仕方ない。


 厭な臭いがするのだ。


 俺はそこに甘んじている。


 その腐臭が自分自身から放たれているというのに、それを俺は嫌っていたというのに、いま俺はそれに甘んじている。それをどうすることもできていない。


 そんな気がしてならない。

 


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