03-02



 そんな有様で数日が過ぎ、約束の土曜日になった。

 

 空は好天と言えば好天だ。待ち合わせに指定された駅前広場の噴水のそば、ベンチに腰掛けて、俺は「花束のつくりかた」を読んでいた。

 こんなときでも本を持ってきてしまうのは、悪癖と言えばそうなのだろう。けれど、頭はどうにも落ち着かなくて、目はページの上を滑ってばかりだった。

 

 ひなた先輩に直接会うときは、いつも静かな緊張が手足をこわばらせる。


 去年まではそうじゃなかった。それは当然のことだ。部室に行けば当然のように会えたときの関係とは違う。今はもう、自分たちがお互いに、会うという意思を持たない限りは、会えない。もう受動的なままではいられないのだ。

 

 そして俺もひなた先輩も、お互いに会おうとする意思を抱えている。おそらくは、今のところは。


 どうだろう、ひょっとしたら、今日、彼女は来ないかもしれない。


 約束の時間は十一時半。今はその十五分前。遅れるのが嫌だからいつも早めに来ることにしているけれど、なんだかなんだで、さほど待たされたことはない。

 と、思ったところで、彼女の声がした。


「や」


 声をかけられ顔をあげると、そこにひなた先輩が立っていた。

 いつまで経っても私服姿が見慣れない。大学に入ってから、彼女の髪はほんの少し伸びた。肩まで伸びた毛先にウェーブがかかっている。俺はいつもそれを上手く直視できない。


 目が合って、笑いかけられて、その瞬間、血が沸騰しそうになる。

 毎日会っているときは、こんなことにはならなかった。


 それなのに今、考えていたことも、めくっていた本のページも、頭から抜けて意識がもっていかれる。


「ひさびさだねえ」


 噴水の音のせいで、その声はほんの少し遠く聞こえた。日差しを背中に浴びて、彼女の顔がよく見えない。


「おひさしぶりです」


 と俺は言った。


 困ったみたいな顔で、ひなた先輩は笑う。それから、俺の隣に腰掛けた。


「何読んでたの?」と言いながら、池を覗き込む子供みたいな素振りで俺の手の中の文庫本の表紙を見る。そして、ちょっと戸惑ったような顔した。

 

「高宮さゆ?」


「知ってますか?」


「うん。えっと……一昨年か。賞とったんだよね」


「有名なんですかね」


 ひなた先輩はちょっと複雑そうに眉を寄せた。


「……たぶん、あんまりじゃないかな。ほら、地元の子だったから、本屋さんとかで宣伝されてたんだよ」


「ああ」


 なるほど。そう言われてみれば、地元の学生なんかがデビューしたりすると、特設コーナーを作ったりする本屋も中にはある。

 とはいえ、そんなコーナーを見た記憶もないから、やはり、いつ買ったのかもわからない。


「読みましたか、これ」


「ん。わたしは読んだよー」


「どうでした?」


「うん」


 頷いてから、ひなた先輩は考えるような素振りを見せた。いつも笑っている彼女は、自分の感情について考えるときだけ、ほんの少しの間だけ笑みが消える。

 不意に、あたりが暗くなる。空を見上げると、大きく厚い雲が太陽に覆いかぶさっていた。周囲の空気がほんの少しだけ温度を変える。


「くじらみたいな雲だねー」


 見れば、ひなた先輩もその雲を見上げていた。小柄な彼女が空を見上げる素振りをすると、中学生くらいに見える。

 それからふっと彼女は視線を下ろし、俺の方をちらっと見たあと、


「……いま、失礼なこと考えた?」


 と、急にそんなことを言い始める。


「なにも」


「うそだ」


「根拠もなく人を疑うのはどうかと思いますよ」


「修司くんね、自分で思ってるよりわかりやすいからね。わたしを内心でばかにしてるときはすぐにわかるよ」


「そんな自称エスパーみたいなこと言われても困ります」


「修司くんは図星をさされたときとか嘘をつくときほど、いっつも自信ありげな口調になるんだよ」


「まさか」


「ほらー」


「……」


 これ、当たってなかったら永遠に会話が成立しなくないか? まあ当たっているのだけれど。


 彼女がじとっとした目で俺を見つめる。俺は三秒くらい耐えてから逸らして、思わず笑った。


「ほらー!」


 と、これでもかと言わんばかりに、ひなた先輩はぱしぱし俺の背中を叩いた。そのあとちょっとだけ、変に嬉しがってるみたいな顔になった。


「……いや、さすがですね」


「うん。修司くんのことは四割くらいは分かってるつもりだからね」


「意外と少ない」


「そう? これでもちょっと多めに言ってみたんだけどねー」


「……」


 話題が宙ぶらりんになってしまった。


「あれ、何の話してたんだっけ」


「この本です」


 俺は、文庫本を持ち上げてひなた先輩に示した。「あー」と彼女は頷いた。


「反応的に、微妙だったんですか?」


「ん。ううん、よかったと思う」


「……ふむ」


 だとすると、本当によかったんだろう。

 ひなた先輩はあまりものを貶さないけれど、よかったとか悪かったとか、そういう部分に関してはシビアな感想を言う。

 そういうところを、俺はなんとなく羨ましく思う。


 くじらのような雲が動いたのだろう。陽の光がまたあたりに散らばって、視界が白く明るくなる。


「でも、修司くん、まだ途中なんだよね?」


「はい」


「じゃあ、なんにもいわない」


 そう言って、彼女は照れ笑いみたいな顔をした。


「なんとなく、修司くんがそれを読んでるのは意外だけどねー」


「そう、なんですか?」


「ん。意外じゃないと言えば意外じゃないけど、意外と言えば意外」


「……よくわかりません」


「ん。まあ、読んでみて」


「……はい」


 そうは言うものの、今読めという意味でもないだろう。俺は文庫本を鞄にしまう。


「映画の時間、何時でしたっけ」


「一時過ぎ。それまではブラブラしよっか」


「ブラブラですか」


「ん。どうせモールにいくしねえ」


 映画を見るのは、決まって駅から近い複合商業施設に併設された映画館だった。このあたりでは一番上映している映画の本数が多いし、アクセスも簡単だからという理由で。

 地元の人間はその店を「モール」と呼ぶ。そこで暇を潰そうと思えば、簡単に一日を潰せてしまう。


「お腹空いてますか?」


「んー。お昼はまだいいかなあ」


「じゃ、適当にモール見て回って、軽く飯でも食いましょうか」


 ひなた先輩は頷いた。


「そうしましょう」


 俺たちはようやく立ち上がった。座るのをやめると、ひなた先輩の背丈は俺の肩くらいにしか届かない。

 こうして立って並ぶとき、ひなた先輩はいつもちょっと不服そうな顔をする。

 むっとした、なんとなく納得がいかないような顔。


 それも一瞬で、歩きはじめてしまえば、いつものように穏やかな顔で喋り始める。


「最近はどう?」


 というのが、ひなた先輩のいつもの会話の切り口だ。それに対する俺の反応もたいがい決まっていて、


「ぼちぼちですね」

 

 という程度。


「ぼちぼちですか」


 彼女はうんうん頷いて、困ったような顔をする。

 俺はそれを見ているのが少し楽しい。


 週末の駅前広場はそれなりに賑わっていて、俺たちは見ず知らずの他人とすれ違ったり追いかけたり追い越されたりしながら歩かなきゃいけない。

 

「……そういえば、前から思ってたんだけど」


「はい」


「修司くんって、わたしに歩調合わせてる?」


「……ん」


 不思議そうな顔で見上げられて、俺は答えに窮した。


「……いや、そんなつもりはないですけど」


「……そうなんだ、ふうん」


 ……本当にそんなつもりはなかったのでそう答えたのだけれど、嘘でも多少は気を使っているというアピールをすべきだったかもしれない。今の反応だと単に配慮が欠けている人間みたいだ。いや、単に配慮が欠けている人間ではあるのだけれど。


 人の流れを縫うように歩いていると、自分がささやかなせせらぎにでもなったような気分がした。


「じゃ、無意識なのかな」


「なにがですか?」


 ひなた先輩は、前を向いたまま口を開いた。


「や、わたし、背ちっちゃいから、友達とかと歩いてても、いつもちょっと早めに歩かないとけっこう置いていかれるんだよね」


「そうなんですか」


「そうなんですよ。でも、修司くんと歩いてるときって、そういえばそうなったことがないなって」


「はあ」


 そうだっけ?


「……けっこう置き去りにしてる気がしますが」


「うん。置き去りにはされてるけど。でもそれは修司くんが何も言わずにいなくなるからで……」


「面目ないです」


「ん。すぐなにかに気を取られていなくなっちゃうもんね」


 モールを歩いていても、ちょっとした商品なんかに気を取られて、立ち止まったり勝手にあちこちに移動したりしてしまう。

 ちっちゃい子供みたいだね、と呆れた顔で言われたことがあった。見た目がちっちゃい子供みたいな人に言われると恥じ入るしかない。


 話しているうちにモールに着く。

 自動ドアを抜けると、空気が急にすっと冷たくなる。電灯の灯り、天窓から差し込む光。モールはいつも人で賑わっている。


「気をつけているんですけどね」


「気をつけなくていいよ」


「でも、こないだ怒ってたじゃないですか」


「え?」


「先月」


「や、あれは……あれはまあ、うん」


 話しながら歩いていたとき、平置きされている本に気を取られた俺が、ふとした瞬間に立ち止まり、それに気付かなかったひなた先輩が、ひとりで喋り続けてしまったと怒っていたのだった。


「いや、怒ったっていうか、恥ずかしかったからね、あれは」


「悪かったと思ってますよ」


「でも、わたしは治さなくていいと思うよ、そのくせ」


「……そうですか?」


「うん」


 やけに断定するようにそういうので、俺は反論できなかった。


「でも、不思議だねー」


「なにがですか」


「さっきの、歩調の話。修司くん、人に合わせるの苦手そうなのに、やけにそういうのだけ上手いんだなーって」


「自覚ないんで、わかんないですし、上手いつもりもないですけど」


「んー。まあ、わたしがそう思うってだけだけど……昔からよく誰かに合わせてたとかなのかな」


「心当たり、ないですけどね」


「そうなんだ。じゃあ、才能かもね」


「才能ですか」


「うん、才能」


 喋りながら通路を歩き、ふと、


「ところで、今どこに向かってるんですか?」


 と訊ねると、彼女はきょとんとした顔をして、


「修司くん、どこに向かってたの?」


 と訊ねてくる。


「いや、先輩がどこかに向かってるんだと思ってました」


 なんだそれ、と、ひなた先輩は笑った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る