07-01
屋上には鳥の影が落ちる。俺はそれを眺めている。ここに立っている。そしていま、何かを考えようとしている。
「それで……」と枝野は続きを促した。
「それでって、なにが」
「連絡。とったの?」
「誰に」
「ひなた先輩に」
「ああ」
「ふうん。……それで?」
「会うことになったよ、土曜に」
「そう」
枝野はどうでもよさそうにカフェオレを口に含んだ。
「その割には、浮かない顔だね」
俺はなんと答えればいいのかわからなかった。
自分が何に戸惑い、何に怯え、何をためらっているのか。それがもう自分でもわからない。
何も起きてなんていないという気もするし、何かが起きたのだという気もする。
枝野はどうでもよさそうな顔でフェンスの網を掴んだ。囚人が牢屋の柵を揺するような仕草に見えた。
「そういえば、訊きたいことがあったんだ」
枝野はそう言って、俺の方を振り返る。目が合って、驚いた。彼女はかすかに笑っているように見えた。
からかうのでも、喜ぶのでも、挑発するのでもなく、ただ何気なく笑ったように見えた。
「あんたはさ……」
俺は、どうしてか、それを他人事のような気分で眺めている。
「ひなた先輩の、どこが好きなの?」
「……」
「ひなた先輩は、あんたのどこが好きなんだろう?」
「……」
俺は、それを、今まで考えなかったわけではなかった。
「……あんた、ひょっとしてさ」
「……」
「ひなた先輩が知らない男と歩いているのを見たとき、もしかしたら、なんだけど……」
彼女もまた、どこか他人事のように呟いた。彼女にとっては、まさしく他人事なのだけれど、そのせいで、俺にとっても他人事みたいに聞こえた。
「──安心したんじゃない?」
「……」
「きっとさ」
枝野は、小さな子供に笑いかけるように、言った。
「あんたは結局、ひとりの方がいいんだよ」
◆
放課後の文芸部室には誰もいなかった。大澤も西村も藤見も、一年生の連中も。みんなこの場所のことを忘れてしまったみたいだった。
長机のそばにパイプ椅子を用意して、鞄を置いて腰掛ける。机に頬杖をついて、俺は窓の外を眺めた。燃えるような夕焼けだ。そんな時間なのだろうか? もう、日の長い季節だというのに。もしかしたら、俺が思ったよりも今はずっと遅い時間で、みんなは一度ここにやってきていて、俺が来る前に帰ってしまっていたのかもしれない。さっきまで自分が何をしていたかすら、俺にはわからない。
机の上で腕を伸ばし、それを枕にして体重を預ける。俺はいま何かを考えようとしている。何かを考えようとしているはずだ。
……違う。
考えたふりをしていただけだ。ずっと。
安心、という言葉の意味を思い出そうとする。安心、安心。
俺はどうして枝野の言葉を否定できなかったんだろう。考えるまでもなく答えが出た。それは事実だったのだ。
俺は、あのとき、安心していた。それは事実なのだ。
どうして?
「どうしても何もないでしょう」と声は言った。
少なくとも安心するのはおかしい、という気がする。あの状況で俺はどうあるべきだったのか? たぶん、不安がるべきだったんじゃないか。
「これは前にも言ったことがあるけど」と声は言う。「やっぱり、わたしの言った通りだったでしょう?」
じゃあ、どうして俺は不安にならず、むしろ安心したのか? その答えは、むしろはっきりしているような気がする。
安心、気がかりなことがないような状態。もしくは、気がかりなことがなくなったような状態。
俺があの瞬間に安心したのは、きっと、その直前までずっと、ずっとずっと不安だったからだ。
「結局、同じことを繰り返すだけだって、わたしはちゃんと言った」
声は、何度も聞こえている。
認めなきゃいけない。今はその声が聞こえていること。彼女の言う通り、また繰り返しているってことを。
俺は静かにまぶたを閉じた。その声に返事をしなければいけないことは分かっている。俺は、そうすることを選んできたんだから。
でも、今は、何もできる気がしない。
ひなた先輩と一緒に歩いていた男が、彼女の弟だと、俺はその可能性を一度も検討しなかっただろうか?
そんなわけはなかった。けれど俺は、その可能性を決して選び取ろうとはしなかったし、実際に確かめることもしなかった。
なぜだ?
そう思うことが不安だったからだ。
「ねえ、わかってる?」
声はそう呟く。
わかっている。
「本当に気付いている?」
と声は続けた。
「もう、扉は開きっぱなしなのに?」
◆
部室の扉は開け放たれたままだ。俺は自分のことばかりを考えている。頬杖をついて窓の外を眺める。こんな夕日を以前にも見た気がする。いつだろう?
ひなた先輩とは、土曜日に会う約束をしている。電話で軽く話した感じだと、いつもと変わらない様子だった。
「あのとき、誰と一緒にいたんですか?」と、思いの外あっさりと俺は言うことができたのだ。
「弟だよ」とひなた先輩は言った。
「修司くんと一緒にいた子は?」
「バイト先の子です。たまたま一緒になったので」
「そうだと思った」
あのとき俺は、ひなた先輩が俺の知らない男と歩いていたのがショックだったわけでは、きっとない。
──ひなた先輩は、あんたのどこが好きなんだろう?
そんなこと、俺にわかるはずがない。
だから俺はずっと不安だった。俺と彼女が付き合ってるなんて本当なのか? 勘違いじゃないのか?
本当は彼女はとっくに俺にがっかりして、離れたがってるんじゃないか?
ただ言いにくいだけで。あるいは、言いたくないだけで。もう終わっていることなんじゃないのか?
窓の外を眺めているのは、今の俺だろうか。それとも去年の俺だろうか。俺が眺めているこの夕暮れは、今の夕暮れだろうか。それとも記憶の中の夕暮れだろうか。
あの人はそんな人ではないと思う自分と、そう判断できるほど彼女のことを知っていると断言しきれない自分が、自分自身の感情を秤にかける。
信じるとか裏切るとかそういう話でさえない。
いい加減認めろよ、と俺は俺に言う。
おまえはとっくに気付いていて、見ない振りをしていただけだろう?
なぜ俺は、文章を書けなくなったのか?
──つまり……ものすごく身も蓋もない言い方をすると、せんぱいは、ひなた先輩と付き合い始めたわけじゃないですか。
──それで、せんぱいはある程度、精神的に満たされたわけじゃないですか。
"満たされたから、書けなくなった"?
──センパイはね、失望されるのが怖いんだよ。
──がっかりさせるのが怖いの。
"失望されたくないから、書かなくなった"?
──下手なものを書いたらがっかりさせてしまう。そうしたら、みんな、どこかへいってしまう。ああなんだ、こんなものだったかって、いなくなっちゃう。それならもう書かなければいい。がっかりさせるくらいだったら、消えてしまったほうがいい。
そう、たしかにそのとおり。
否定はできない。がっかりさせるくらいだったら、書かなきゃいい。でもそれは、書かない理由だったのだろうか?
……違うよな?
認めてしまえよ。
俺は、"ひなた先輩に振られてしまいたかったんだ"。
ひなた先輩と付き合っている間、俺は彼女の感情が自分に向いているのか、彼女の心の中に俺がいるのか、ずっと不安に思ってしまう。
今は平気でも、いつがっかりさせて、いつ離れていってしまうのかと、ずっと不安に思ってしまう。
そうならないために、一生懸命に良い自分を装おうとする。立派な人間になろうとする。無理をして、自分を飾り立てようとする。
彼女を引き止めるために。
置いていかれないために。
そうして俺はいろんなことを気遣う余裕を失っていった。部誌の原稿、勉強、バイト、人間関係? 部員同士の関係性? そんなあれこれに配慮している余裕なんてなかった。ひなた先輩と会うたびにほっとして、ひなた先輩も俺と一緒にいることを選んでくれているような気がして安心できた。でも離れればすぐに不安になった。彼女の表情が真実なのかどうか、俺は見極める術を持っていない。記憶はすぐに感情に加工されて、不安に思えば思うほどにそのすべてが嘘みたいに思えた。彼女と会っていない時間、彼女の気持ちが自分から離れているような気がして不安だった。そして、彼女がもう俺のことなんて考えていないと、それが事実なんだと思い込もうとすると、とてもとても安心できた。
彼女がそんな人じゃないはずだと思う自分が、そう思いたいだけじゃないかと思う自分に否定される。それを覆せないのは、自分に自信がないからというだけじゃない。そう思っておかないと、もし本当に「自分が好かれていなかった」と思い知ったとき、受けるショックが大きい。俺は、自分が傷つかないために、ひなた先輩をそういう人間かもしれないと仮定することをやめられなかった。そんな自分に嫌気がさしているのにやめられなかった。
ひなた先輩が見知らぬ男と歩いていたとき、どうして安心したのか?
もしひなた先輩が俺から離れてしまえば、もう、思い悩むことはない。「失うかもしれない」と不安になることはない。失ってしまえば、それは事実になる。
"事実に怯える必要はない"。と俺は唱える。コインロッカー・ベイビーズ。
"ただ認めて何日間か泣けば良かったのだ"。
みんな俺の部屋を去っていく。扉を開けて入ってきて、また、同じ扉から出ていく。
でもそれは、終わってしまえばそれだけのことなのだ。
もしそうなれば俺は、ただ何日間かだけ泣いて、それでもう不安にならずに済む。頭を悩まされずに済む。こんなことばかり考えている自分に嫌気がささずに済む。彼女にはもっとふさわしい人間がいるんじゃないかとか、どうして俺はそうなれないんだろうとか、そんなことを延々と考えずに済む。肩の力がすっと抜けて、ずっとずっと楽になる。
俺はそうなってしまいたかった。
そうなってしまいたかったのに、本当にがっかりされるのは怖くて、いなくなってしまうのは嫌で、だからずっと、平気なふりをして、なるべく当たり前の表情で、言葉ひとつひとつさえも気遣って、気取られないように、なるべく、当たり前に、よい人間であろうとした。
だって、"いい子にしていないと、置いていかれてしまう"。
だから俺は、"いい子でいなくちゃいけない"。
そして今、俺は何を考えているだろう?
ツバキに馬鹿にされて、遠野と一緒に作った漫画も負けて、書いていないことが悔しくて、書いていない時間のすべてが無駄に思えて、書こうとしても出てくるのはくだらないガラクタばかりだ。理想の自分と実際の自分との距離に疲弊して、風が吹かないと管を巻いている。
そうして今の俺に何が残った?
何も残っちゃいない。
ひなた先輩が映画を一緒に見に行った相手は、弟だという。
そう、彼女はそういう人だ。
でも、そういうことだ。少し前までなら、彼女は俺を映画に誘っただろう。でもそのとき、彼女は俺ではなく、弟を誘った。
それはひとつの答えなんじゃないか?
部室の扉はもう開きっぱなしだ。俺はぼんやりとその先の廊下に視線を投げる。いまのところ、そこには誰の気配もない。それを確かめようとも思わない。俺はもう、立ち上がってこの部屋を出ていくことができる。閉じ込められているわけじゃないのだ。俺はいつだってここを抜け出す準備ができているはずだ。それなのに今、全身に力を入れることさえもかなわずに、ただぼんやりと頬杖をついている。
どうすればいいかなんてとっくに気付いている。
ひなた先輩との関係を維持することに、俺は足りない脳のキャパシティの殆どを費やしてきた。それがなくなってしまえば、俺は書くことができる。ほとんど限界まで使用されてもはや余剰のないメモリに空白ができて、他のことを処理するだけのスペースが空く。
そうすればもう、風を待つことはない。
"疲れ切ったままでも書けるはずだ"なんて、"無理をしながらでも書けるはずだ"なんて、そんな期待を持たずに済む。
風で帆が膨らむのを待つ必要はない。波のない海をオールを漕いで進むなんて、とても簡単なことのはずだ。
"ゴドー"なんて来ない。
期待を持たせるだけ持たせて、待ち人来たらずだ。
俺には、ゴドーを待ってる暇なんてない。
わかってる。
「そうだね」と声は言う。
「あんたは結局、ひとりのほうがいいんだよ」
まどろむような感覚のなか、誰かが歌をうたっているような気がした。
──きっと風が吹く、嵐になるだろう。
この歌を俺は聴いたことがある。どこで? ……夢の中で。
……違う。
俺はこの歌を、どこかで聴いたことがある。
どこで?
部室で。この部室で、俺は聴いた。こんな燃えるような夕暮れが窓の外に覗いていた。
あのとき彼女は歌っていた。俺が起きていることに気付かずに、歌っていたのだ。
──さあ、嵐に備えよう。
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