07-02
部室を出て、階段を降りる。
いつもどおりに、そうする。
いくつかのことを、考えている気になっている。
誰のことを?
大澤のことを?
枝野のことを?
西村のことを?
あるいは、遠野のことを?
それとも、相羽のことを?
もしくは、藤見のことを?
道塚のこと? ギンジのこと? ツバキのこと?
「花束のつくりかた」のことを?
それとも、「彼女が部屋から出る小説」のことを?
それともやはり、自分のことを?
どこかに置き去りにされたような気分だ。
世界の端の方でひっそりと生きている仲間をもたない獣のような気分だ。
それなのに実際にはそんなことはなくて、俺は単純にこの街に生きている。当たり前に満たされながら、たぶん、そこそこに愛されながら。
そう、それはおそらく事実で。
いま俺は、ものすごく、ものすごく情けなく、愚かで、身勝手で、浅慮な振る舞いをしようとしている。
そういう考えにとらわれている。
あまりにも馬鹿げていて、まともじゃない。
俺の小説を褒めてくれる誰かがいる。
俺の存在を認めてくれる誰かがいる。
俺と一緒にいてくれる人がいる。
たぶん、俺が書けなくても。
俺が書けないでいても、きっと、そのまま、認めていてくれる。
書こうとするふりをしていても、きっと騙されてくれる。
いつか書くと、そう言い続けていても、きっと騙されてくれる。
でも、それじゃ駄目だ。
俺は決めなきゃいけない。
でも……。
それは……。
階段を降りきったとき、不意に肩を叩かれた。
驚いて振り返ると、そこに森里が立っている。
当たり前の顔をして。
「よう」
と彼は笑い、俺の肩に腕を回した。
それからどこか真剣そうに小声で耳打ちしてくる。
「どうだい、調子は」
怪訝に思いながら、俺は彼の腕を振り払った。
「……なんだ、急に」
「少しな」
「……」
「ひどい顔してるぞ」
「……そう?」
「そう。まあ、おまえより大澤の方がひどかったけど」
「……あいつが?」
「ああ」
「どうして?」
「知らねえよ」
それは、そうなんだろうな、と俺は思う。
「なんかあったんだろ」
「……だろうな」
「この世の終わりみたいな顔してるな」
「……」
「なにか言えよ」
言えることなんてひとつもない。
たいしたことがあるわけじゃない。
「まあいいや」
「ん」
「ちょっと付き合えよ。暇だろ」
「……」
暇? どうだったっけ。
何も覚えていない。
違うか。
何も覚えていたくないのだ。
とにかく俺たちは歩き始めた。付き合えと言った割に、森里はべつに、行きたいところがあるわけでもないらしい。
ただなんとなく、帰路の道すがら、あれこれと視線をさまよわせているだけだ。
「何も聞かないのか」
と俺が訊ねると、森里はバカバカしそうに笑った。
「何か聞いてほしいのか?」
「……俺や大澤は、ブレたりするけど」
「ん」
「おまえは、変わらないよな」
「……そうかね」
「そういうふうに見える」
「そうかもな」
森里は、俺の方を見ようとはしなかった。
「そりゃまあ、そうだろうな」
「そう、って?」
「俺は変わらねえよ」
「……」
「おまえらは、違うかもしれないけど……俺にはどうせ、何もできやしない」
「どうして」
素朴な疑問として、俺は問い返した。森里は鼻で笑った。
「そんな質問が出る時点で」と彼は言う。
「やっぱり変わったのはおまえのほうだよ」
「……」
そうなのかもしれない。
見慣れた道を抜け、大通りの交差点にたどり着く。信号の色は赤。俺たちはどこかに向かおうとしている。そんな気がしている。
「そんなに苦しいか?」と彼は言った。
「なにが」
「誰かを好きになって、誰かに好かれるっていうのは」
「……」
「俺はおまえに感心してたんだぜ」
信号の色は赤。変わらない。
「だっておまえはちゃんと自分で行動を起こしたからな。置いていかれたのは俺の方だ」
「……」
十字路はどこまでも広がって見える。
道の果てにはどうせ見知った景色しかないのに、今はそんなふうに感じる。
「書くことに、おまえが何を求めてるかなんて、俺は知らないし、知りたいとも思わない。そんなに興味もない」
「そうかい」
「……だけどな」
「ん」
「いや」
思い出したように、森里は顔を上げた。
「ああ、そういや、はんこ、見たか」
「……ああ」
結局、あれはなんだったんだろう。数字しか書いてなかったように思えたけど。
「何の暗号なんだ、あれは」
「暗号?」
「数字だったろ?」
「……」
ああ、というふうに頷いて、彼は笑った。
「なるほどな。まあ、そうなるよな」
「なあ」
「ん?」
「さっき何を言いかけたんだ?」
「何か言いかけたっけか?」
……。
「とぼけるなよ」
「……」
急に彼は笑みを消した。
「たいしたことじゃあない」
そういうわりに、言葉の響きは低く、重かった。
「俺はおまえに期待してたんだよ」
「……俺に?」
「文章についてじゃあ、ないけどな」
「そうだろうな」
それはもちろんそうだろうと頷いてから、俺はまた怪訝に思う。
「……だったら、何の期待だよ?」
「まあ、あえていうなら、同病相憐れむって奴だな」
「……同病ね」
「でも、まあ、こんなところだな」
「……どういう意味?」
「所詮こんなもんだろう、ってところだ」
「……俺なんてこんなもんだ、って?」
「実際、そう思ってるだろ?」
「……性格の問題だよ」
「そう。どうしようもない」
「じたばたしたって無駄だ」
「そのとおり。人間、やすやすと変われるもんじゃない」
「……苦しむだけ損だ」
「芯は結局おんなじだからな」
どこかでこんな会話を聞いた。
ほとんどそのまま、聞いたことがある。
「……苦しむなんて、バカのやることだ。バカな話だ、苦しいのに、苦しくてしかたないことを続けるなんて」
森里は、今度は鼻で笑った。
「だったら、やめちまえよ」
「……」
「信号、青だぜ」
俺は、横断歩道の先の信号を見る。たしかに青になっている。森里は歩き出そうとはしない。俺もまた、立ち止まったままでいる。
「最初から分かってたことだろう」
そのとおり。
誰かが俺の部屋の扉をノックする。そして部屋の扉を開ける。入ってくる。そしてやがて去っていく。
それはずっと繰り返されてきたことだ。
いい加減学んでも良い頃だ。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
と森里は言う。
「学習しなくちゃいけない、人間は」
そのとおり。
信号が点滅する。
俺は少しうんざりしている。
夕焼けがやたらと胸をつく。
「だから、結局こんなもんだよ」
と森里は言う。
「こんなもんだよ、俺たちなんて」
吐き捨てるというよりは、笑い飛ばすように。
「──俺たちには、どうせ、何もできやしないんだよ」
「……」
「決めあぐねてるなら、俺が決めてやるよ」
「……なにを」
「奇しくもここは十字路だからな。悪魔の役をやってやるよ」
「……はあ?」
「選択肢をやるよ」と彼は言う。信号はもう赤になっている。俺たちは交差点の一部分で静止した点になる。
「小説を書けるようにしてやろうか」
森里はそう言った。
「今よりもずっと上手く、何もかもが見えるようにしてやろうか。心を打つ文章を、陶然とするような物語を、書けるようにしてやろうか?」
「……」
「ひなた先輩と別れろよ」
「……」
「そうすればおまえは物語を書ける」
「……」
「人並みの幸福も、確固たる自己も、自信も、まっとうな人間性も社会性も、全部擲てよ」
俺は……。
「期待なんかするなよ。人並みになんかなるな。誰にも自分なんか見せるなよ。かまわないだろ? 元に戻るだけなんだ」
その言葉を聞いている。
「"魂を売り渡せよ"」
「……」
「そうすれば、おまえは小説を書けるんだろう?」
森里は、笑いながら、俺を見ている。
俺は、その目を見返している。
俺は……。
不意に、風が吹くのを感じた。
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