07-03
土曜日の午前十一時、駅ビル一階のコーヒーショップでノートパソコンに向き合っていたところに、ひなた先輩は現れた。
キーボードを叩くのをやめて彼女の方を見る。いつもどおりといえばいつもどおりの様子で、彼女は立っている。ほんの少し驚いた顔をしながら。
俺はちょっとだけ笑ってみせようとする。それがうまくいったのかどうか、いまいち自信は持てない。けれど彼女は笑みを返してくれた。
「……小説、書いてたの?」
ひなた先輩はそう言って、テーブルの向かいの椅子に腰掛ける。俺はノートパソコンをたたみ、鞄の中にしまった。
「いちおう」
「調子は?」
「すこぶる、とはいきませんが」
こんな言い方でいいのだろうか。
「……以前よりは」
「……そっか」
ひなた先輩は、どうしてか少し悲しそうに見えた。
コーヒーを飲みながら、俺達は最近の身の回りの話をした。そうしながら俺は、ここ最近に自分の周りで起きた出来事について思い出そうとしたけれど、ところどころが虫食いのようになっていてよくわからない。
いつもそうだ。何をしても誰といてもすぐに忘れてしまう。
そんなところにいったっけか?
そんな話をしたっけか?
そんなことを、俺は言ったっけか?
なんにも思い出せなくなる。
すぐに、何もかも。
俺は今、自分が何を言おうとしているのかをわかってる。
いま、俺は現実を生きているんだろうか。
それとも夢の中にいるんだろうか。
さっきまで文章を書いていたせいかもしれない。視界のすべてがなんとなく、平板に、退屈に思える。
ひなた先輩の表情の変化さえ、どことなく遠く、ささやかで、取るに足らないものにさえ思える。
そう思うべきだと、自分が考えているような気もした。
なるほど、と俺は思う。
この期に及んで俺は迷っているらしい。
……いや。
それとも、開き直っているんだろうか?
「なんだかひさしぶりだね」
どこかよそよそしい笑みを浮かべながら、ひなた先輩は言う。俺は彼女から視線をそらし、店内のカウンターの方へと目を向ける。バイザーをつけた店員の笑顔がやけに忙しなさそうに見える。
「そうですね……かれこれ……」
「うん、かれこれ……どのくらいだっけ?」
「……どうだったかなあ」
なんにも思い出せないや、と俺は思った。
分かってるよな、と森里は言った。
俺たちには無理なんだ。どうやったって不可能なことはある。俺たちにとって、これがそれだったってことだ。
俺は答えた。それでも、上手くやれるって思ったんだ。
彼は続けた。その結果はどうだった? そんなありさまで、まだ上手くやれてるつもりか?
それでも、と俺は何かを言い返そうとしたのだ。
俺はひなた先輩の表情をうかがう。彼女は今、何を考えているのだろう。もちろん、そんなことが俺にわかるわけがない。彼女に、俺が何を考えているのか、わかるわけがないように。
……そうなんだろうか?
「でも、会いたかったですよ」
何を考えていても、どういうつもりでも、その言葉は素直に出てきた。
ひなた先輩は、一瞬あっけにとられたような顔で俺を見て、それから悔しがるみたいに口元をゆがめた。
「……なにいってるのー」
じとっとした目で睨まれて、そんな顔をされるようなことを言ったのかな、と考える。
おかしくて思わず笑うと、彼女はすねたみたいに目をそむけた。
会いたかったのは本当だ。かわいいなと思う。それだって嘘じゃない。
でもおしまいなんだよ、と森里は言う。
おまえにはもう無理なんだ。人にはどれだけ頑張ったって不可能なことがある。
それが嘘だと思うなら、おまえ、内角の和が180度じゃない三角形を作ってみろよ。
「……小説」
と、ひなた先輩は言った。
続きを待って少し首をかしげると、彼女は伏し目がちに口を開いた。
「書き始めたんだね」
それがなにか良くない予兆だと言うみたいに、彼女はほんの少し寂しそうに微笑んだ。
俺は急に胸が苦しくなる。
「ええ、まあ」
胸に何かがつかえたみたいに、急に息ができなくなる。
絶対にこんなことはおかしいんだ。
バカみたいじゃないか、こんな何気ない会話のひとつひとつに、圧迫されていくなんて。
彼女の表情のひとつひとつに、萎縮していくなんて。
俺はひょっとしたら、期待していたんだろうか。
また小説を書き始めたら、彼女が褒めてくれるかもしれないなんてことを?
「そうなんだね」
と、なんでもないことみたいに、ひなた先輩は受け流した。
まるで俺が書いていることにも、書いているものにも、まるで興味がないみたいに。
そうなのかもしれない。
「……それで、今日は」
と、何かを振り切ろうとするみたいに、ひなた先輩は笑った。
「どうしよっか?」
「ああ……」
どうしよう。
あんまり考えてなかった。
「どうしましょう」
ひなた先輩は、不服そうな顔をした。
「……修司くんが、今日会おうって言ったんだよ」
「それは、そうなんですけど」
「うん?」
「会いたいなってことしか考えてませんでした」
「……今日はどうしたー?」
わざとらしくおどけてみせる彼女に、俺はほんの少しだけ笑う。
彼女はいつもみたいに、ほんの少し驚いた顔をした。
「……なんですか?」
訊ねると、すぐに首を横に振る。
「ううん、なんでもない」
なんでもないなら、いいんだけど。
「じゃあ、思いつくまでおしゃべりしてよっかー」
「それもよいですね」
「……なんか、へんだよ、今日の修司くん」
「……そうかな」
「うん。絶対、変」
やけにはっきりと言ったかと思うと、
「……あ、いや、ううん……」
と、今度は急に考え込みはじめる。
くるくると変わる表情、困ったみたいな声。
決めろよ、と森里は言った。魂を売り渡せよ。
俺はもう覚悟を決めてきた。
だから、変に見えるのかもしれない。
「まあ……変でもないか」
「……どっちです?」
「急に変になる修司くん、今までもあったし、そう考えると、まれにあるみたいな」
「……はあ」
やっぱりよくわからない言い草である。
「最近、部活は? みんなの様子はどう?」
「藤見から聞いてるんじゃないんですか?」
「千歳さんに? どうして?」
「なんか、よく連絡とってるみたいなこと言ってましたけど」
「あ、うん。たまにね。そんなに、よくってほどかは、わからないけど」
「ふうん」
「……な、なに」
「え?」
「なにか言いたげな顔してる」
「……いや、べつに」
「ん、んー」
「……ひなた先輩のほうこそ、今日、ちょっとおかしい気がしますけど」
「……あ、そうなのかな」
「はい」
「はい、って……」
また、不服げに眉を寄せる。
「まあ、いいや。それで、部のみんなのようすはー?」
「おかしいですね」
「修司くんより?」
「はい」
「……それはよっぽど変だねえ」
「どういう意味ですか」
「なんでもないよ?」
にこりと笑う。ちょっとあてつけっぽく感じるのは、気のせいではないと思う。
まあいいや。
「まあでも、みんなの様子がおかしいのも、いつものことと言えばそうかもしれないですが」
「進化の前触れかもね」
「進化?」
「あれ……伝わらない?」
「ええと、すみません」
「そ、そうなのかー」
ひなた先輩はどうしてかショックを受けていた。
「んー……」
「どうしたんです?」
「チーズケーキがたべたい」
「……はい?」
「いや……チーズケーキがね、食べたいなあ、って」
「突然ですね……。この店置いてましたっけ?」
「……ん、んん」
「どうかしました?」
「……や。なんでもないよ。なんとなーく、食べたくなっただけだから」
ひなた先輩が、何かを欲しがることは珍しい。食べ物であれ、なんであれ。
「じゃあ、チーズケーキを食べにいきましょうか」
「……ええ?」
「……なんでちょっと嫌そうな顔するんですか?」
「や、やなわけでは、ないけどー……」
「じゃあ、食べに行きましょう」
「ええー」
「なんで不満そうなんですか」
「修司くんこそ、今日はどうしてそんなに乗り気なの? チーズケーキ好きなの?」
「好きか嫌いかで言えば」
「言えば?」
「好きですね」
「……そうなんだ。意外」
彼女はどうしてかすねたみたいな顔をした。
「……なんでちょっとすねてるんですか?」
「……すねてないよ」
「すねてないんですか」
「すねてないよ。なんなんだよー、もう……」
すねてるように見えたのだけれど。
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