07-04


「やっぱり変だよ、今日の修司くんは」


 そうかなあ、と思いながら、俺は少しだけ首をかしげる。


 喫茶店を出て、ふたりで並んで歩く。チーズケーキの美味しい店をひなた先輩は調べてくれて、俺はそこに行こうとかたくなに進言した。


「修司くんもスマホにしたらいいのに」と彼女は言う。


「わかってはいるんですけど、なんだか億劫なんですよ」


「それはわかるけど」


「便利ですか、スマホは」


「それはまあ」


「……ふむ」


「というより、不便だね、キャリアメールが」


「……そうなんですか?」


「うん」


 これは、もしかして。


「……それは、ご迷惑をおかけしてます」


「うん」


 やっぱりひなた先輩は、少しすねている気がする。

 でも、なんだろうな。


「今日はいい天気ですね」

 

「……うん」


 本当にいい天気だった。風は穏やかで、日差しはあたたかで、激しすぎない。きっと今日は、こんな天気のままなんだろう。


「でも、風が吹くよ」


 と、ひなた先輩は言った。


「……そんな予報、出てたんですか?」


「……ううん」


 彼女はかすかに笑った。


「でも、嵐の前の静けさだから」


 俺は、いつか彼女が歌っていた歌を思い出した。夢うつつで耳にした、ささやかな歌声。夢の中で、何度か聴いた歌。


 今は、それについて何も言わないことにした。


 東口を抜けて、通りを歩く。


「ちょっと歩くみたい」とひなた先輩は言った。


「かまいませんよ」と俺は言う。彼女はちょっと困ったみたいな顔をする。


 彼女はやっぱり、何かを勘付いているんだろう。だとしたらもう、言ってしまっていいのかもしれない。


 妙な形をしたモニュメントの横を通り抜ける。寄り集まった鳩の群れが、不思議そうに顔をあげた。歩道に面したカフェの店内から、ガラス越しに誰かの姿が見える。


「小説を……」


 と、口に出したからには、もう引き返せない。


「書こうと思うんです」


「……うん」


 ひなた先輩は、それがなにか大切なことかのように、深く頷いた。


「本当は書くのをやめようと思ってました」


「……そうなんだ」


 まるで興味がないみたいな反応だな、と俺は思う。実際、そうなのかもしれないし……そうではないのかもしれない。

 

「どうしてか、聞かないんですね」


 そう言われて初めて、"そう言うべきだったのだ"と気付いたみたいに、彼女は顔を上げて、いつもどおりの笑顔を見せた。

 そう装っているように見えた。


「どうしてなの?」


「どうしてなんでしょう。とても馬鹿らしい理由なんですけど」


「……聞かせて」


 街路樹の緑が目につく。もう季節は初夏を過ぎているのだ。陽の光に透ける葉の黄緑がやけに鮮やかで、俺は急に励まされたような気がする。


「何かを捨てないと書けない気がしたからです」


「……」


「俺はそれを捨てたくないんだけど、書くためにはそれを捨てなきゃいけない。そう思ったからです」


「……そっか」


「でも……」


「でも、書くんだ」


「はい」


「それってさ」


「俺は……」


 俺は……。


「書かずにはいられないですから」


 違う。

 書かずにはいられないと、思いたいだけだ。


 それでも俺は、書き続ける自分でいたい。


「ずっと考えてたんです。でも……」


「うん」


「考えるまでもない話ですけど。書くために何かを捨てなきゃいけないなんて、そんな話、あるわけないです」


 ひなた先輩は、ちょっとだけ驚いた顔をした。


「……あれっ?」


「はい?」


「や。……えっと、なんでもない」


 交差点の信号が赤だった。俺たちは立ち止まり、その場で道の向こうを見る。目的地はまだ先みたいだ。


「変なところ、ありました?」


「や。なんとなく、話の流れが想像と違ったから……」


「かもしれないです。俺も、どっちかしかないって、ずっと思ってて……だから書けなかったところがあるのかもしれない」


 どうだろう。

 理由なんて、いつだって多層的で複合的で、よくわからない。

 自分の感情なんて、混沌そのものだ。

 

 整理がつかない。


「森里が、言うんですよ。何かを捨てれば、俺は書けるようになるんだって」


「森里くん?」


「はい。大澤は違った。そのうち書くだろうって。枝野と藤見は、書かなくてもいいんじゃないかって。後輩には、書く気がないだけなのに書けないなんていうなって言われた」


「……」


「別のやつには、俺は、認められたから書けなくなったんだ、って。全部、そんな気がした。でも、そんなのどれでもよかったんですよ」


「どういう意味?」


「森里に、何かを捨てれば書けるようになるって言われたとき、俺は考えたんです。何かを捨てて、書けるようになった自分のこと」


 魂を売り渡せよ、と森里は言った。

 けれど……。


「それって何の意味があるんだろう? 自分にとって大切なものを捨ててまで書き続けて、その結果書き上げたものが、いったい何になるんだろう」


 信号は青になる。彼女は俺の方をずっと見ている。俺は視線だけで彼女を促す。彼女は戸惑った様子で歩き始めた。俺はその隣に並んでいる。


「抱え込んだまま書くのがつらいから、抱え込むのをやめて書く。それって結局、楽をして逃げてるだけで……その結果出来上がるもの、結局俺が書きたいものじゃないと思うから」


「……」


 どうだろう。

 こんな言い方で、何かが伝わるような気はしない。俺はたぶん、いつも言葉が足りない。


 彼女はこんな言葉、求めてないかもしれない、不快なだけかもしれない。

 わからないけれど。


「楽をしたくないから……いや、違うか」


 そう、それは少し違う気がする。

 それで合っているような気もするけれど、ほんの少し、違う気もする。


「結局俺が、欲張りなだけかもしれないけど……」


 ひなた先輩は、ずっと黙っていた。彼女の歩調に合わせながら、なんとなく町並みを見る。彼女の方を見るのが怖かったせいかもしれない。

 今、急にこんな話をして、戸惑わせていないだろうか? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


 そう考えるたびに、言葉がうまく出てこない。


「……うまく言えないです」


 彼女はまだ黙っている。なにか考え込むような様子で。


「……それって」、と不意に彼女は口を開いた。


「結局、どういうこと?」


「ええと、結局……」


「うん」


「そうですね、結局……」


 そうだな。


 枝野が、いつか言っていたっけ。


 ──もしも自分が、自分にとっていちばん大切なものがなにかってことを見誤っているとしたら、それは不幸なことなんだろうね。


 彼女はひょっとして、最初から分かっていたんだろうか。


「俺はひなた先輩のことが好きなんですよ」


「……」

 

 彼女はゆっくりと首をめぐらせて俺を見た。ここは目をそらしてはいけないよな、と思って、俺は彼女の瞳を見返す。


 どうしてなんだろうな。


 どうしてこんなに綺麗だと思うんだろう。


「たぶん俺は、ひなた先輩に、小説を書いてって、そう言ってもらいたかったのかもしれないです」


「……わたしは」


 彼女は急に立ち止まった。俺も合わせて立ち止まる。何かを言いあぐねるみたいに、彼女は苦しそうな顔をする。


「わたしは……」


 胸に溜まったなにかを吐き出そうとするみたいに、彼女は深く息を吐いた。

 

「……先輩?」


「……お店、ここ」


 彼女の視線を追った先に、四角い看板と青いテントのひさしが見えた。


 ガラス越しの店内にはいくつかの丸テーブルと椅子、それからショーケース。


「……入りましょうか」


「……うん」


 ひなた先輩は、どうしてか、複雑そうな顔をしている。


「天気予報は、大いにはずれ、かなあ……」


 小さく、彼女がそう呟くのが聞こえた。


「なんですか、それ」


「……なんでもないよ、もう」


 やっぱり彼女は、すねているように見えた。


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