07-05
イートインスペースのテーブルを借りて、俺とひなた先輩は注文したケーキが届くのを待った。コーヒーを注文すると、ひなた先輩は「さっきも飲んだのに」と目を丸くした。「ケーキを食べたらどうせ飲み物が欲しくなるじゃないですか」というと、たしかにという顔で、彼女もアイスコーヒーを注文した。
店内の色調は白と木目のような茶色で統一されている。柔らかな休日の昼下がりみたいな店だった。店内には俺たち以外にも何組かの客がおり、それぞれがテーブルでおしゃべりをしていたり、あるいはショーケースを眺めてケーキを選んだりしていた。俺はなんとなくそれを見回してから、ひなた先輩のほうへと目を向ける。
さっきから、彼女は何かを言いあぐねるように俯いて、俺と目を合わせようとしない。やはり、余計なことを言ったのかもしれなかった。通りに面した窓から差し込む日差しに照らされて、テーブルの上のグラスが光に縁取られている。彼女はそれを手にとって、手を動かしてからからと氷を回した。なんてことのない仕草で、なんてことのない表情なのに、彼女はいつもとどこか違う。いつもみたいに、笑っていない。
ひなた先輩はよく笑う人だ。にこにこしてて、あからさまに落ち込んだり、悲しんだりしている姿なんてほとんど見たことがない。というより、落ち込んでいるときでさえ、笑っているような人だ。柔和で、穏やかで、腹を立てている姿だって、ほとんど見たことがない。
グラスに口をつけることもなく、そのままテーブルの上に置いて、彼女はためらいがちに口を開いた。
「さっきね」
彼女はまだ、俺と目を合わせない。なんとなく、目が合ったら、彼女は笑うんだろうな、という気がした。いつもそうだ。
いつも笑っているせいで、逆に、何を考えているのかがわからない。そんなふうにも思える。
彼女は、ひょっとしたら、それが嫌だったんじゃないだろうか。なんとなくそんなふうに思う。
「修司くん、言ったでしょ。小説を書いてほしいって、言ってほしかったのかもって」
「……」
ひなた先輩は、そこでようやく、顔をあげて俺と目を合わせた。
いつもみたいに笑っている。
「わたしね、わかってたんだよ、本当はね」
「……」
「きっと、そう言えば、修司くんは書けるんじゃないかって。だって、今までだってそうだったから」
そこでまた、彼女は目を伏せた。
「でも、どうしても言えなかったの」
彼女は笑っている。でも、どうしてそれがこんなに苦しそうなんだろう。
「もし書いてって言ったら、修司くんはきっと小説を書いてくれたと思う。きっと、修司くんは、わたしにそう言ってほしかったんだって……わたしもそう思ってたの」
また、目を合わせて、いつもみたいに笑う。
「そうしたら修司くん、わたしのことなんて、どこかに置いてっちゃうような気がしたから」
本当にいつもみたいに笑うのだ。
この人はこの笑顔の裏に、いろんなものを隠してきたんだろう。
緊張や、不安や、怒りや、苛立ちも、ぜんぶ、この笑顔の裏に隠してきたんだろう。
「だから、ずっと言えなかったんだよ」
「……」
テーブルにケーキが届けられて、ひなた先輩はにっこりと笑って頭を下げる。俺もそれにならって頭をさげる。テーブルにはチーズケーキとコーヒーが並べられる。俺はコーヒーに口をつける。ひなた先輩はこちらを眺めながら、また笑う。
「本当はね」
先輩は、困ったみたいに笑った。
「もう書かないでって、言いたかったんだ。小説なんて、もう書かないでって」
そうしてまた目をそらす。その繰り返しだ。
どっちも結局、言えなかった。
ひなた先輩はそう言って、ごまかすみたいに笑った。
「そういう夢を、見たんだよ」
「……夢、ですか」
「うん。修司くんがね、小さな船に乗って、何かをさがして海に飛び出そうとするの。でも、わたしは置いていかれるのがいやだから、そんなのやめてって言う」
「……」
「それで修司くんは、海に出るのをやめて、わたしと一緒にいてくれるの。それでわたしはほっとして、これでよかったんだって思う」
それでね、と彼女は続ける。
「これでもう大丈夫なんだ、修司くんは一緒にいてくれるんだって、わたしは安心するの」
そう言って、また笑う。
「修司くんは一緒にいて笑ってくれるの。でも、それなのに、いつもどこか遠くを見てるの。ずっと、わたしといても、わたしのことじゃなくて、別のことを考えてるの。それでわたしにはわかるんだ。修司くんは、きっと、海のことを考えてるんだって。わたしがいなければきっと自分は海に出ていたんだろうって、そう考えているんだって、わたしにはわかるの。……それがきっと、いつか、わたしさえいなければ、って気持ちに変わるんだって、わたしは思うの。そんな夢」
「……」
俺は思わず笑ってしまった。
「……な、なんで笑うの?」
「いえ。……それは、変な夢ですね」
「……だ、だよね。何言ってるんだろう」
「俺も変な夢を見るんですよ」
「……修司くんも? どんな?」
「猿と踊る夢とか、自転車を漕ぐ夢とか……ひなた先輩が、歌ってる夢とか」
「……わたしが?」
「それから、海の上に、船を浮かべてただよっている夢です」
「……」
「俺はずっと何かを迷って、船の上で、風を待っていたんです。でも、風はいくら待っても吹かない。でもそもそも、船には帆がついていなかった。本当は、オールを使って、船を漕ぎ出せばどこかにいけるって知っていたんです。だから、オールを握って、海を進んでいく。そうして俺は、ひとつの島に辿り着くんです」
「……どんな島?」
「たくさんの植物に、たくさんの果物がなっていて、海には魚がいて、入り江はとてもきれいで……森の奥は、きれいなひだまりがあって、見たこともないようなきれいな鳥がいて、そこは、嘘みたいにきれいで、本当に、嘘みたいにきれいな島で……だから俺は、人ひとりいない場所なのに、その島が好きで、ずっとそこにいたいって思うんです」
「……」
「眠りたいときに寝て、食べたいときに食べて、考えたいときに考えて……」
誰も俺に何も言わないし、誰も俺に指図しない。誰も俺を必要としないし、俺も誰も必要としない。俺の邪魔をする人間はいないし、誰も俺を、置き去りにしない。
「ひとりぼっちの王国で、俺は好き勝手に過ごして生きるんです」
「……」
「夕日が沈むのを眺めて、夜になれば火を起こして、魚を焼いて食べて、腹がいっぱいになったら砂浜に寝転んで星を見て、夜風に体を休めて……丸一日好き勝手にやったなあって満足して、ひとりで笑って、それで、瞼を閉じて……考えるんです」
また、俺は笑ってしまった。
ほんとうに、バカバカしい話だ。
「……どうして笑うの?」
「いえ」
「……続きは?」
「たいした続きはないですよ。瞼を閉じて、ここには誰もいないんだなって思うんです。ここには、ひなた先輩がいないんだなって」
彼女は、笑みを消して、驚いたような顔になる。
そして、一瞬のち、困ったように笑った。
「それは……変な夢だねえ?」
「ですよね」
そんな話がなんだっていうんだろう。
フォークを手にとって、チーズケーキを切りわける。
「食べないんですか?」
俺が訊ねると、彼女はようやく気付いたみたいにテーブルに視線を落とした。
さっきより、どことなく、頬に赤みがさして見える。
フォークを手にとって、迷うように俺を見た。何かをまだ言いかけているみたいにみえる。
「ごめんね」とひなた先輩は言う。
俺もひなた先輩も、たぶん、お互いがいちばん言ってほしかった言葉を言うことができなかった。
「こちらこそ」
でも、それだけじゃない。そう思うのは思い上がりだろうか。
そのかわりに俺たちは、きっと、お互いがいちばん言ってほしくない言葉だけは、言わなかった。
そう思うのは思い上がりだろうか。
「食べましょう」と俺は言って、ほんの少しだけ笑った。
彼女はまた驚いたような顔をする。
「……なんなんですか、その顔」
「ううん」
また、照れたみたいに笑う。
◇
チーズケーキは美味しくて、コーヒーはいまいちで、ひなた先輩はアイスコーヒーにたっぷりのミルクを入れて、食べながらくだらない話をして、俺たちは笑う。
満足して店を出ると、土曜の真昼の日差しはさっきまでと変わらず差し込んでいて、風はまだ穏やかで、少し潤んでいて、街路樹の枝葉を揺らした。さっき見た変なモニュメントのそばには鳩が集まっていて、交差点は知らない人で溢れている。陽気は日向を歩くと少し汗ばむくらいで、もう夏なんだな、と俺は思った。いつのまにか、もう、夏なんだ。
いろんなことを考える。
部活のこと、勉強のこと、バイトのこと、遠野のこと。
それから、ひなた先輩のこと。
俺の隣で、彼女は当たり前みたいに歩いていて、俺はまだその事実に怯えている。
それが当たり前なんだと、どうしても思えない。だからいつも不安なままだ。
でも、ひょっとしたら、そんな気持ちさえ、彼女も感じていたんだろうか。
書いてと言ったら、いなくなるかもしれない。だから言えなかったんだと、書かないでと言いたかったんだと、彼女は言った。
そう言ってまでそばにいたいと、思っていてくれたんだろうか。
「そういえば……」
「ん?」
信号待ちの交差点で、モニュメントに群がる鳩に目を向けていた先輩が、こちらを見る。
「うちの妹が、ひなた先輩に会ってみたいって言ってたんです」
「……ええ?」
「……まあ、突然ですよね」
「いや……あ、うん。修司くんの妹さんって、たしかに、会ったことなかったね」
「いるのは、知ってましたよね」
「うん。有名だしね」
「……有名?」
「千歳さんとかから、噂は聞いてるというか」
「……」
ろくな噂じゃなさそうな気がする。
「そういえば、ひなた先輩に弟さんがいるっていうのも……俺、知らなかったんですよね」
「あれ? 言ってなかったっけ」
「はい。あんまり話に出てきたことがなかった気がするし。てっきり一人っ子だと思ってたんですけど」
「ん。……まあ、そういえば、そうだねえ」
なんだか含みのある言い方だという気もしたけれど、深くは突っ込まないことにした。
「わたしの家族のこととか、あんまり話したことない気がする」
「まあ、それは俺もそうですけど」
「たしかに」
信号が青に変わって、俺たちが歩き始めると、鳩たちが一斉にバタバタと飛び立った。
少し驚いてから、すぐに前を向く。
「ね、このあとどこか、行きたいところとかある?」
「……いえ、特には」
「じゃあさ」
「はい」
「わたしの家、いこっか」
「……はい?」
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