07-06
ほんの少しだけ、そう言ったときの彼女の笑顔がこわばっていて、そのことが妙に不安に思えたけれど、特段断る理由も思いつかなくて、俺は頷くしかなかった。
手土産でも用意したほうがいいのか、それともそんなのは大袈裟なのか、なんてことを考えたけれど、「どうせそんなことを考えてるんでしょ」と言わんばかりに見抜かれて、手ぶらでいいからと言われた。
人通りの多い駅前を離れて、ほとんどいつもの帰り道みたいに移動して、いつのまにか、徐々に徐々に、彼女の家へと近付いていく。
「ご家族はいらっしゃいますよね」
とよくわからない言葉遣いになった俺に、
「土曜日だからね」
と彼女もよくわからない返事をした。土曜日は家族が家にいるらしい。
「いちおう、連絡しといたほういいかな……」
少し複雑そうな顔をして、携帯で電話をかけはじめた彼女を見ながら、逃げ道を失ったなと思わずにいられなかった。
「……突然ですね、でも」
「……ん」
電話を終えた彼女に声をかけると、彼女はなにか考えがあるみたいな顔で俺を見た。
「やっぱりいや?」
「それを聞くのは、少し遅い気がしますが」
「ん」
その頷きがどんな気持ちなのかは、ちょっと想像がつかない。
「いやではないですが、そういうつもりで出てこなかったので……」
「うん。緊張する?」
「はい」
「だよね」
何を考えてるんだろうな。よくわからないけれど、でも、たぶん、必要なことなのかもしれない。
どうなのだろう。
俺にとっては見慣れない道、ひなた先輩にとっては、きっと、見知った道を並んで歩きながら、彼女もまた、少し緊張した面持ちをしているように見えた。
大きな道路から狭い脇道にそれて、川沿いに小さな堤防があって、陰になって周囲は隠されたみたいに少し暗い。
日陰から覗く太陽の日差しが、白く眩く見えた。
「修司くんは、そういえば」
「はい」
「こないだ、壁に手を打ち付けてたって」
「……藤見ですか」
「うん。……どっちの手?」
「……右手、ですね」
「見せて」
立ち止まって、彼女はそう言った。俺は言われるままに手を差し出した。
俺の手のひらを両手で受け取って、彼女はそれを鑑定するみたいにじっと見つける。それを勝手にひっくり返して、今度は手の甲をやさしく撫でた。
「痛かった?」
「それは……」
「うん」
「痛かったですね」
「いまは?」
「こそばゆいです」
一瞬黙って、
「そうじゃなくて」
と彼女は恥ずかしそうな顔をした。
「今も痛いの?」
「いえ……」
「……そっか」
しばらく彼女は、そのまま俺の手を掴んで見つめていた。背の差のせいで、俺にはひなた先輩の顔が見えない。
不意に、ただそうしたくなったというだけの理由で、俺はひなた先輩の頭を撫でた。
細くて柔らかな、手にとれば崩れてしまいそうな、繊細な髪だった。
「……」
彼女は何も言わなかったし、顔をあげなかった。そのまま頭に手をのせていると、彼女は片手で俺の左手を掴んだ。
「……なに?」
ちょっと恨みがましいような目で、俺を見上げる。
「いえ、なんとなく」
「……もう」
不満そうな顔で、彼女は俺の手を自分の頭からおろした。
はからずも、向き合って、両方の手をつなぐような形になる。
ひなた先輩は俺の手を離さなかったし、俺もそれを振り払わない。彼女は俺と目を合わせようとせず、俯きがちに地面を見ている。
俺は、彼女が握る俺の手のひらで、彼女の手のひらを握り返す。
ひなた先輩の手は小さくて、こうして握ると、その白さも、肌の質も、自分とはぜんぜん違うのだと思った。
「……小さいですね、手」
「……うん」
ちょっとだけ、ひなた先輩は笑った。まだ、目を合わせてくれない。
この人は、こういうとき、こんな顔をするんだな、と、いまさらそう思った。
指先で手の甲を撫でるようにすると、彼女もまたお返しと言わんばかりに同じように重ねてくる。
やがてどちらともなく指を絡めて繋ぐ。そのときようやく俺と彼女の視線が重なる。そのまま片手だけを離して、ひなた先輩は俺の左隣に並んだ。
どうしてこんなことになったんだろうな。
いつのまにこんなところにいたんだろう。
よくわからない。
「おかしなやつですよね、俺は」
「ん」
疑問ではなくて、肯定の頷きだった。何の話かもわからないまま、でもそれは事実だと言うみたいに。困ったな、と俺は思う。
「小説なんて……書かなくても生きていけるのに」
文章を書くことは自己表現の手段ではない。
ましてや他者への奉仕の手段でもない。自分を楽しませるための手段でもない。
文章を書くことに基本的に意味はない。
文章はただの文章でしかないし、そこにそれ以上の意味を見出そうとする人間は破滅する。
文章を書くことで癒したり救ったりできる自己など存在しない。
書くことに書き切ること以上の成果は発生しえない。
もしあるとしても、それは副次的な、結果論的なものでしかない。
にも関わらず、俺は文章を書き続けていた。
おそらく書き切ること以上の成果を求めながら。
意味がないだけなら、それでかまわない。
でも、どうして、意味がないと何度も繰り返しながら、何かと秤にかけてしまうくらい執着してしまうのか。
「でも、修司くんは……」
手のひらが、きゅっと握られる。
「修司くんには、とても大事なことだと思ったから。だから……」
結局のところ、俺は書くしかない。
書くのをやめるなんて、無理だから。
「……ねえ、修司くん。今度は、どんな話を書くの?」
「……そうですね」
どんな話を書こう。
部屋から出る小説、にはならない。
どんな話がいいだろう。
「街」
「街?」
「街を描きたいです。それから……人が死なない話」
「うん」
「それから……」
「それから?」
「……内緒です」
ひなた先輩は、また、手のひらを握ってくる。
「ずるいよ」
「……なにがですか?」
「……べつに」
「また拗ねてる」
「拗ねてないよ!」
口に出してしまった。
「ひなた先輩が」
「……ん」
「ひなた先輩が、楽しんでくれるような話が書けたらなって、思います」
「……」
「そんなふうに思うのは、やっぱり俺らしくはないかもしれないけど」
「そう、だねえ……修司くんらしく、ないね」
彼女はそう言うとわざとらしく手を挙げて、
「修司くんはもっとこう、勝手に書くから、勝手に読め! って感じの人だから」
と、からかうみたいに俺を見上げる。
俺は少しだけ笑ってしまった。
「……そうですね。でも」
「……」
「俺が小説を書けなかったのは、たぶん、ひなた先輩を心配させたくなかったからなんですよ」
「……わたしを?」
「俺が今までと同じものを、今までと同じように書いたら、きっと、俺がひなた先輩の前で笑っても、ひなた先輩は信じてくれなくなると思うんです。それに……」
「……うん」
「今までと同じものなんて、たぶんもう書けないんですよ」
そう言って、今度は俺が彼女の手を握った。
彼女はそれを、嫌がる素振りも、拒む素振りも見せない。
ただ当たり前のことのように、平然としている。
こんなに単純なことなのだろうか。
きっともう、こんなふうに彼女と手をつないでいたら、もう、あんな話は書けない。
書くことをやめようが、やめまいが、もう変わらずにはいられないだろう。
俺は誰かを、自分を、裏切るのだろう。
俺の声は、誰かには聞こえなくなるだろう。
そんな人が、いままでいたかもわからないけれど。
それを肯定する気にはなれない。
「……そうなのかな」
横顔をちらりと見ると、彼女は道の先を見つめていた。
「ほんとうに修司くんは、書けないのかな」
「……」
「わたしはね、ちがうと思う。そんなことなんかで、修司くんの書くものが変わったりなんかしないって思う」
「……そうでしょうか」
「刻印がね」
「……」
「刻印が、あるんだよ。書いたものには」
「……刻印って?」
「その人の文章を、その人たらしめるもの。そういうものって、書く対象や書き方が変わっても、残っているものなんだ。反対に、変わったりなくなったりするものって、どんなにそう見えたとしても、その人にとっての本質じゃないんだって思う」
「……そうかなあ」
「わからない。ひょっとしたら違うかも。でも、たとえきみが、語る内容を変えたとしても、きみの語り方は揺るがないって、そう思う」
「語り方、ですか」
「うん。自分では、わからないかもしれないけど。だから……」
どうしてこんなに、この人の言葉をいつも素直に聞いてしまうんだろう。
「雨も風も太陽も、すべてを受け止めて稲穂が実るみたいに、いろんなものに影響を受けても、枯れても咲いても同じ植物でしかないみたいに、きみの書く文章は、どこまでいっても、きみの文章だよ」
「……」
「寂しいのも怖いのも、悲しいのも苦しいのも、うつろなのも、満たされないのも、ぜんぶきみでしかないみたいに……嬉しいのも楽しいのも、笑うのも泣くのも、やっぱり修司くんだよ」
「……そうかな」
「うん。それにきみは、自分では気付いてないかもしれないけど……」
一瞬、言葉を途切れさせ、彼女は迷うみたいに眉を寄せた。
「……けど?」
「……これは言いたくないんだけど」
「そこまで言ってですか」
「うん……いや、まあね。たぶん、自分ではわからないかもしれないけど」
「はい」
「きみは、笑うととてもかわいい顔をするんだよ」
「……」
「……」
「真顔で何言ってるんですか」
「照れた?」
「……予想外過ぎて戸惑っただけです」
「だからね」
と、彼女は平然と続けた。
「寂しさと苦しさだけが、きみのすべてじゃないと思うから。祈りとか、責任とか、そんなものだけじゃないと思うから」
まるで大切にしていた秘密を教えるみたいに、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「だから、きみのそんな小説も、読んでみたいなって思う」
「……そんなこと言われたら、書きたくなくなりますね」
「ほら。だから言いたくなかったんだよ?」
「……」
まったく。
かなわない。
かなわない、本当に。
してやったりと言わんばかりの顔で笑みを浮かべて、日差しを見上げる彼女に、何かの仕返しをしたくなって、
たとえばここで抱き締めたら、どんな顔をするんだろうとか、
怒るんだろうか、とか、そんなことを思って、
それでも試さずにいられなくなった。
「……」
我ながら、突然のことで、判断は一瞬だったのに、思い切りと勇気が必要で。
振り払われなかったことに、心底ほっとしていて。
それなのに、次の言葉が怖かった。
「……と、とつぜんですね」
と、彼女はなぜか敬語だった。
「……俺のせいじゃない」
と俺は言った。彼女の髪の匂いがする。
違う生き物が腕のなかにいるのだと思った。
「じゃ、誰のせい?」
「先輩のせいです」
「……そうなんだ」
平気なふりをしているみたいに、彼女の声は、少しだけこわばっていた。
「わたしのせいなら、しかたないね」
「……そうなんです」
しばらくそのまま、言うべき言葉も思いつかず、放すタイミングもわからずに、ただ彼女を腕のなかに封じ込めていた。
ずっと、こんなことをしたら、拒まれると思っていた。
どうしてなのだろう。
ゆっくりと腕をほどくと、こちらを見上げた彼女と目があった。
「顔、あかいよ?」
「そうかもしれません」
「わたしのせい?」
「そうです」
「……じゃ、しかたないね?」
また、彼女はいたずらっぽく笑う。
それから、
「行こっか」
と言って、俺に右手を差し出してきた。
それがどうしても、どこまでも特別なこととしか思えなくて、ほんの少し怖さを覚えながら、俺はその手を受け取った。
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