07-07


 ひなた先輩の家は、小高い丘の上の住宅地のうちの一軒だった。

 洋風の小綺麗な住宅の並ぶ通りに、小さな庭をそなえた二階建ての家がある。クリーム色の壁は上品な煉瓦模様で、庭から玄関までの間には敷いた丸砂利を小さな木柵でかこった数段の階段がある。すぐそばに、黒いボックスカーが止まっている。俺はその光景をなんだか意外なものとして見ていた。


「ここ」


 とひなた先輩は階段を昇りながら振り返った。玄関のすぐそばには丸くなった黒猫を模した不思議なポストが置かれている。なるようになるか、と俺は思った。


「落ち着いてるね」と彼女は言う。


「ひなた先輩のほうが緊張してるみたいに見えますよ」


「それはうん」

 

 それはうんなんだ……。


「いい?」


「は」


「ん」


「はい。……少しむせそうになりました」


「……大丈夫?」


「おそらく」


「じゃ、入ろっか」


 と返事もきかずに彼女は扉を開けて「ただいま」と言った。

 背中を追いつつ、身長に「お邪魔します」と声をかけると、返事と同時に足音が近付いてきた。


「おかえり。いらっしゃい」


 あっと思った。ひと目で「母親だな」と思わされてしまう。


「お邪魔します」ともう一度繰り返してから、


「初めまして」


 と続ける。こういうときはなんて言うものなんだ?


 助けを求めるようにひなた先輩のほうを見ると、彼女は上り框に腰掛けて靴を脱いでいた。こちらを気にする素振りはない。

 

 あらかじめ少しくらいは考えておけばよかった。わりと出たとこ勝負なところがあるのかもしれない。


「佐伯修司と言います。いつも先輩にはお世話になってます」


「あはは」


 とひなた先輩がおかしそうに笑った。


「……」


 何笑ってるんですか、といつもみたいに言える状況でもない。


「突然お邪魔してすみません」


「……ひなた、こんなしっかりした子どこで拾ってきたの?」


「口振りだけだから、すぐにボロがでるよー」


 ……ちょっとがんばったのが台無しじゃないか?


「あがって、修司くん」


 スリッパを履きながら、ひなた先輩は笑った。


「あんまり気を張ってたらもたないよ。ここはそういう家じゃないから」


「そうそう」


 どこか顔立ちの似ている親子が、俺を見ておんなじふうに笑っている。


「……」


 じゃあ最初にそう言っておいてほしい。

 俺は知らないからな、と思った。





「何もお出しできませんけど」


 と言って、ひなた先輩のお母さんは本当に何も出してくれなかった。


「おかまいなく」ととりあえず頭をさげると、


「紅茶とコーヒーどっちが好き?」


 と聞かれる。


「飲み物は『何も』には含まないんだなあ」と思っていると、


「でもコーヒーしかなかった」


「あ、ええと……」


 そもそも俺は今日既に二杯コーヒーを飲んでいる。


「修司くんはコーヒーだよ」


「そう。じゃあコーヒーね」


 ……まあいいか。


「それにしても急だったから驚いた」


「すみません」


「違うの。この子のこと」


「……はあ」


「急に電話よこして、『今から彼氏つれてくからー』って、わたしはこの子に彼氏がいたことも知らなかったのに」


「言ってなかったからねー」


「言ってなかったんですか」


 ていうか、微妙に『彼氏』というワードが慣れなくて落ち着かない感じだ。


「今日言ったよ」


「それを突然っていうの」


 ダイニングテーブルを挟んで、ひなた先輩のお母さんはため息をつく。そのやりとりはさすがに意外だった。もちろん、家族に見せる姿と、外で見せる姿なんて、けっこう変わるものなのかもしれないけれど、普段抱いている印象よりも、今のひなた先輩はかなり自由だ。


 少し離れた位置に置かれたソファには、この間ひなた先輩と一緒に歩いていた男の子が座っている。彼は俺がここに来たときに少し頭を下げた以外は、言葉を発することもなく昼下がりの旅番組にぼんやりと視線を投げているだけだった。


「べつにいちいち言うことじゃないし」


「でも、連れてくる前には話くらい通しててもらわないとびっくりしちゃうし」


「そんなに大袈裟なことじゃないよ」


 そんなに大袈裟なことではないのか……。


「そんなに大袈裟なことじゃないのかって顔してるよ?」


「あ、そういう意味ではなくてね……」


 どういう状況だ、これは。


「それでふたりの馴れ初めは?」


「なんでもいいでしょ」


「よくない」


「この子大変でしょ。何考えてるかわかんなくて」


「いえ……」


「またまた」


「修司くん、わたしの部屋いこっか」


「あ、ええと……」


「つまんない」


「ほっといて大丈夫だから」


 そういうわけにもいかない気がするが……。





 結局、ひなた先輩が本当に立ち上がってしまったので、俺もついていくことにした。ずいぶん明るい親御さんなのだなあと妙な感慨を覚えながら、階段を昇るひなた先輩の背を追う。


「ごめんね」と彼女は言った。


「なにがですか?」


「騒がしい母親で」


「いえ。明るい方ですね」


「戸惑ったでしょ?」


「はい」


「だよねー」


 からから笑いながら廊下を歩く。いくつかの扉を抜けて、いちばん奥の扉がひなた先輩の部屋らしかった。

 他人の家、それも初めて訪れる家というのはなんとなく落ち着かないものだ。匂いからして見知ったものとは違う気がする。


「んー」


 ドアノブを掴んでから固まって、ひなた先輩は考えるような声をあげた。


「ちょっと待っててもらっていい?」


「だめですかね」


「ええ?」


「いや、この期に及んで何を言ってるんですか?」


「じゃ、ちょっと見られても大丈夫かだけ確認していい?」


「そういうの、普通もっと早い段階でやりませんか?」


「なにも考えてなかったもん。……普通なんてわかんないし」


 たしかに。


 とはいえ、本当に見たらまずいものを見てしまうのも微妙な塩梅なので(そんなものが転がってるんだろうか)、とりあえず確認だけしてもらう。


「待った」と言ってひなた先輩はドアにからだを滑り込ませ、何かの物音がし、十数秒待たされたあと、「いいよー」と中から声をかけられた。

 

 案外散らかってるのかな、と思ったけれど、別段そんなところはない。他人の部屋に入るという経験があまりないからどの程度なのかはわからないが、片付いている方に思える。

 といっても、比較対象が自分と妹、それから森里くらいしかないのだけれど……。


 森里はかなり部屋が散らかっているタイプだから例外にしても、俺や千枝の部屋に比べると、物は多い印象だ。

 

「ぬいぐるみ」


「……悪い?」


「悪いなんて言ってないです」


「……子供っぽいって顔した」


「それはひなた先輩が自分でそう思ってるからそう感じるだけですよ」


「たしかに」


 ひなた先輩はすねた顔つきで、本棚の上に置いてあった猫のぬいぐるみを抱き上げた。


「とりあえず座って」


「どこに?」


 床はフローリングだった。


「ベッド?」


「ですよね」


 いろんなことを深く気にしたり考えたりしないことにした。

 他人の生活空間というものは、自分のテリトリーではないというだけで落ち着かないものなのかもしれない。


「緊張してる?」


「……のは、ひなた先輩ですよね」


「うん」


 ベッドに腰掛けると、ひなた先輩はすねたような顔でぬいぐるみを抱いたまま俺の隣に腰をおろした。


「どうですかね」


「なにがですか?」


「いや。……感想?」


「……部屋の?」


「うん」


「ええと……」


 この問いに正解はあるのか?


「……思ったより物が多いですね」


「……意外?」


「意外といえば、意外ですね」


 ぬいぐるみも。……本当に、思ったより緊張してるんだろうか。


「いまさらですけど……」


「ん」


「どうして急に俺は先輩の部屋にいるんでしょう」


「わたしが誘ったからだよ」


「そりゃそうなんですが」


 一拍置いてから、けっこう意味深な発言だよな、と考える程度には、俺も混乱しているのかもしれない。


「どうして突然、だったんですか」


「ん……」


 ひなた先輩はベッドの上に膝を立てて、両腕で抱えるようにした。彼女の顔が見えなくなるので、俺もそれにならって少し姿勢をうしろに傾ける。


「ちょっと考えてることがあってね」


「はい」


「猫をかぶりすぎるのも、よくないよなって」


「かぶってたんですか?」


 彼女はぬいぐるみを頭の上に置いた。


「……」


「……」


「……なるほど」


「真顔はやめて?」


 今度はぬいぐるみでぱしぱし叩かれる。


「そりゃ、猫くらいね。お互いね」


「それがよくなかったんですか?」


「たぶんね」


 と、ひなた先輩は急に真剣な顔になった。


「嫌われるのが怖いと人は臆病になるでしょう」


「……」


「臆病になると、自分を出せなくなる。嫌われたくないから、自分をよく見せようとして、何かを我慢したりして……それが悪いとは、思わないけど」


「何かを我慢してたんですか?」


「……うん」


「……どんなこと?」


「……」


 ひなた先輩はぬいぐるみを放して、ためらうように視線を泳がせた。

 それからゆっくりと、からだを傾けてくる。段々と、俺の左腕に体重が預けられていく。

 

 頭が肩にのせられるまでの数秒間、ひなた先輩はずっと俺とは反対側の壁の方を向いていた。


「……こういうの、とか?」


 ……。


「……こういうのを、我慢してたんですか?」


「……ん。まあ、そう」


「……」


「……なんか言えー」


「何を言えって言うんですか……」


「こういうふうにくっついたりするの」


「……」


「修司くん、いやがりそうだし」


「べつに、いやじゃないですよ」


「そうなの?」


「はい」


「……なんだか落ち着いてて、いやな感じですねー?」


 妙に口調が軽いのは、ひょっとしなくても照れ隠しだろうか。


 不意にノックの音が鳴って、扉が開けられた。


「……あ、これ、コーヒー」


「……」


「せっかくいれたのにいなくなっちゃったから」


「あ、わざわざすみません」


「ううん。ごめんね、ごゆっくり」


 勉強机の上にカップを載せたトレーを置くと、母君はそそくさと去っていく。

 ドアが閉められるまで、ひなた先輩は驚いたような顔のままぴくりとも動かなかった。


「……ええと」


「……あのひとは、本当に」


 俺は何を言えばいいんだ、この状況。


「ええと、定番みたいな入退場でしたね」


「……ま、まあいいや」


 いいんだ。


 それにしても。


 嫌われたくないから、自分を隠す。

 自分をよく見せようとして、我慢する。


 なるほどなあ、と思う。

 けど、これがこの人のそれなんだとしたら……ちょっとかわいすぎる。


「べつにいやがったりしないのに、我慢してたんですか?」


「……だって、わたしにも、ほら。先輩としての威厳とか、今までの積み重ねとか、あるし」


「……」


「イメージを壊したくないし……」


「べつに壊れませんけど……」


「うう……」とひなた先輩はうめいて、俺に体重を預けたまま膝の上に腕を組んで顔を隠した。


 嫌われたくない。

 離れていってしまうのが嫌だ。


 それは、俺だってそう思っている。


 どうしてだろう。


 それなのに、俺は、この人が俺のことをそんなふうに思ってくれてるなんて、想像も実感もできていなかった。


「離れる」とすねたみたいに言って、それでもひなた先輩は離れなかった。


「離れなくていいです」


「だって、修司くん、すごい平気そうで、わたしだけ悔しい」


「べつに、平気ってわけじゃないですけど」


「……」


「たぶん、顔に出ないだけです」


「……ずるいな、それ」


「そうですかね」


 ……顔に出たほうが、ずっといい。苦労せずに済む。


「……嬉しいですよ、俺は」


「思ってなさそう」


「……なんでそういうこと言うかな」


「そう見えないんだもん」


「見かけで人を決めつけるのは、よくないですよ」


 ひなた先輩は、またぬいぐるみを抱き寄せた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る