08-01
どうでもいいようなことを、話したり話さなかったりした。離れたり、くっついたりしながら。
ひなた先輩の部屋の本棚には結構な数の少女漫画が並べられていた。小説なんかもあるにはあったけれど、漫画に比べるとかなり少ない。てっきり小難しい海外小説なんかが並んでいるんだろうと思っていたんだけど、「そういうのは図書館で借りてるんだ」と言われて納得した。
「漫画とか読むイメージなかったですけど」
「そういう話、あんまりしなかったもんね」
「……そういえばそうか」
「修司くんも読まなそう」
「人に貸してもらって読んだりはしましたけど」
「自分では買わない?」
「あまり」
「ふうん?」
「少女漫画は……あんまり読んだことないですね」
「読んでみたら? おもしろいよ」
「いいんですか?」
「うん」
言われるままに、俺は気になった漫画を手にとって読んでみることにした。少しだけ申し訳ないことをしている気分になったけれど、彼女は彼女で気にする様子もなく本を読み始める。まあ、べつにかまわないか、と思いながら、ページをめくる。昼下がりの日差しがレースのカーテン越しに柔らかく部屋に注いで、俺のそばにはひなた先輩がいた。その距離は今までにないくらい近くて、近いというよりはくっついていて、そんな距離には戸惑って当たり前だという気がしたけれど、不思議とそれが当たり前の、これまでにもあったことのように思えた。いつかもこんなことがあった、と思ったけれど、もちろんこんなふうに過ごしたことなんて一度もない。どうしてだろう、と考えてみて分かった。
ひなた先輩が卒業する前、部室にふたりきりになったとき、そういえば、俺たちはたいして話なんてしなかった。俺はなんにも気にせず本を読んだり何かを書いたりして、ひなた先輩も、なんにも気にせず本を読んだり何かを書いたりして、ときどき話したり話さなかったりして、お互い勝手に居眠りしたりして……そんなふうにずっと過ごしてきた。
忘れていたわけじゃない。
そんなふうにずっと過ごしてきたのに、どうして、そんなふうに過ごせずにいたんだろう。
気を張って、無理をして、勝手に疲れて。
置いていかれるような気がして。
漫画を読みながら、俺は気になったシーンや台詞のメモをとった。いつもの手帳と万年筆。ひなた先輩はそれを興味深そうに眺める。
「なんですか?」
「ううん」
「……」
時間がいくらか経ってから、不意に、万年筆が書けなくなる。
「……インク、あるよ」
彼女は眠たげな、夢でも見ているようなふわふわとした声をしていた。
彼女は俺の手から万年筆をそっと取って、ベッドから気だるそうに立ち上がると、デスクの引き出しを開けた。
万年筆のインクの補充のやりかたなんてわからないけれど、俺がもらった万年筆はカートリッジ式のインクだった。たぶん、一番簡単なものを選んでくれたんだろう。インクの補充が面倒にならないように、書けなくなっても、またすぐ書き出せるように。
彼女の手の中で、万年筆が回され、ゆるめられる。カートリッジをやさしく引き抜くと、新しいインクの入ったものを静かに突き刺して、万年筆は元通りの姿へと戻っていく。
俺はそれを奇妙な気分で眺めていた。ひなた先輩は、眠たげな顔をしていて、彼女の髪はかすかに陽に透けていて、それなのに部屋の中は少し薄暗かった。
「ん」
と、彼女が万年筆を差し出してくる。俺はそれを、なにか清らかなものを与えられたような気持ちで受け取る。それから彼女はぱたぱたとわざとらしくベッドに腰掛けて、俺に寄りかかってきた。気恥ずかしさをごまかすみたいな勢いだった。
「……眠そうですよ」
「ん。そうかもね」
「そろそろ……帰ったほうがいいですか、俺」
「帰りたい?」
「……」
「……」
「いえ」
俺は手帳に新しい書き込みを増やす。
「ん」
ひなた先輩は猫みたいだった。
俺は少しだけ怖くなった。
「修司くん」
──人を縛り付けるのは恐怖だ。恐怖の正体は存在しない苦痛に対する不安だ。
「……はい」
──恐怖は常に未来の苦痛に対する不安だ。
「少し、眠いかも」
──同時にそれは過去受けた苦痛の反復に対する予感でもある。
「……眠ってもいいですよ」
――良い子にしてないと、置いてっちゃうからね?
「……うん」
ひなた先輩は、それから本当に寝息を立てはじめた。肩にもたれていたけれど、そのうちバランスを崩しそうで、俺は体勢を変えて、彼女の頭を膝の上にのせた。漫画を読み続けているうちに、不意に「花束のつくりかた」のことを思い出す。あの小説を、俺は最後まで読んでいない。帰ったら、そろそろ読まないといけない。俺はたぶん、あの本を読んだほうがいい。まだ途中までしか読んでいないけれど、そう思う。
当たり前だけれど、俺は今この状況に戸惑っていて、混乱している。それと同時にとても落ち着いていて、リラックスしている。ひなた先輩の寝顔を、俺はときどき眺めた。こんなふうに、どうして人の前で眠ることができるんだろう。俺のことをなんだと思ってるんだろう。いろんなことがわからなくなっていく。
ある一瞬、俺は不意にある考えを思いつき、ひなた先輩の頬をつついた。彼女は反応しない。
「寝てませんよね?」
「……」
やはり反応はない。思い違いだったんだろうか。
と、考え直そうとしたとき、
「……なんでわかったの?」
と声が聞こえた。
なんで、と言われると、
「……なんとなく」
でしかないのだけれど。
「……見抜かれたか」
彼女は俺の膝の上で照れたみたいに笑った。
「なんとなく、ですけど」
「ん」
「たぶん、寝られるわけがないよなって」
「……ん。でも、眠いのはほんと」
「……俺も、少し眠いです」
「……寝てもいいよ」
「……いや」
「いやなの?」
「そうじゃなくて、さすがに、寝られないですよ」
「んー」
──蓋をしてれば、出てくるはずがないだろうと思ってな。
突然、そんな言葉を思い出して、俺はひどく戸惑った。
「……どうしたの?」
「え?」
「変な顔してる」
「……」
俺は、
◆
「結局同じことを繰り返すんだね」
◇
「……ね、修司くん」
不意に彼女は、俺の名前を呼んだ。
「ちょっとだけ、散歩しにいこっか」
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