08-02
◆
俺は部屋の中にいる。
扉は閉ざされている。
窓の外は暗い。この部屋には時計がない。
景色はどこか寒々しい青色に滲んでいる。
どうして俺はここにいる?
「どうしてもなにもないでしょう」と女は言った。
彼女はまたそこに立っている。
「覚束ない足取りでも、歩いていくしかないって、あなたは言った」
そう、俺はいつか、そんなことを、彼女に向けて言った。
「世界を少しずつ拡張して、知らない景色を知って、諦めるのはそのあとでもいいって、あなたは言った」
そのとおり。俺はたしかにそう言った。
「でも、どうだった?」
彼女は俺を見つめている。
「たしかにあなたは世界を少しずつ広げた。いろんな人に会って、いろんな人と話した。いろんな景色を見て、知らないことを試して、それで?」
この部屋はとても寒い。
「誰かに好かれて、誰かを好きになって、それでどうなるの?」
俺の体はかすかに震えている。
「なくすのが怖いなら、最初から手に入れなければいい。だからあなたは何も求めなかった」
どうしてここはこんなに寒いんだ?
どうして俺はこの部屋にいるんだ?
俺はこの部屋を抜け出したはずじゃなかったのか?
「それなのにあなたは誰かを好きになった。……それで?」
言葉を発することもできずに、俺は彼女の声を聞いている。
「それであなたの中の恐怖はなくなったの?」
◇
ひなた先輩が俺を連れ出したときには、もう時間は六時近くになっていた。そんなに長居をしていたつもりもなかったのに、いつのまにか時が過ぎていて、俺は少なからず驚いた。
初夏の夕暮れは遅く、空はまだ赤い。日はまだ山の向こうに隠れてもいない。
「もうすぐ梅雨時期だね。来週は雨が降って、ちょっと寒くなるらしいけど」
「そうなんですか」
「修司くん、あんまり天気予報とか見ないよね」
「見ないよね、って」
「うん。イメージだけど」
「まあ、あんまり見ませんけど」
「見たほうがいいよ」
「それはわかってるんですけど」
「天気予報を見たりするのはね」
とひなた先輩は言う。
「生活への意思みたいなもののあらわれだから」
「……そうかなあ」
「そうなんです」
よくわからなかったけど、俺は頷いておいた。
ひなた先輩は住宅地の丘を昇っていく。俺はそれについていく。辺りは少しずつ薄暗くなっていく。
「こんなに長居するつもりはなかったんですけど」
「気にしないで。晩ごはん食べてく?」
「いえ……」
そんな時間だ。
「たぶん、妹が夕食を用意してくれてると思うので」
「ん。そっか」
俺は携帯を取り出して、千枝に連絡をすることにした。夕食の時間まではまだあるから、今連絡すれば間に合うだろう。
丘の上へと昇っていく途中で、どこにでもあるような小さな公園を見つけた。それを横目にしながら、俺達は歩いていく。
「どこに向かってるんですか?」
「ん。お墓」
「墓?」
「うん」
そこからけっこうな距離を歩いた。日は段々と傾いていき、やがて丘の向こうに見えなくなって、雲は紫に染まっていく。車通りの少ない道路を歩いていくと、やがて大きな丘にたどり着いた。
「ここらへんの丘の一帯が墓園になってるんだ」
「どうして?」
「わたしの散歩コースだから」
「……それはまた」
「ちゃんと整備されてるから、そこそこ綺麗なんだけどね」
そう言いながら、彼女は慣れた様子で上り坂を歩いていく。
「いちおう、県内でも有名な心霊スポットらしいけど」
「そうなんですか?」
「わたしは、べつにそれらしいことに出会ったことはないけど。お墓だから心霊スポットっていうのも、なんていうか安易だよね」
「……ですかね?」
「だって、お墓が立ってるってことは、ちゃんと弔われてるってことだと思うから」
「……そういうもんですかね」
歩いていくと、豊かな緑の合間に整備された墓石が並んでいるのが見て取れた。一箇所だけかと思ったら、それは一部でしかないらしく、このような区画が広く並んでいるのだという。墓といっても、たしかにこう綺麗にされていると、そこまで恐ろしい雰囲気はない。日暮れのあとだと、木々の暗さが少し気になるけれど。
「たぶん、灯りがないから怖くなるんだろうね。丘沿いだから高低差があって、街の光も木々に邪魔されて届かないし、道が複雑につながってるから、夜に来ると迷いやすいんだよ」
「どうしてそんなところを散歩コースにしてるんですか?」
「……どうしてだろう?」
ひなた先輩は迷いなく進んでいくけれど、俺は戸惑いながらついていくしかない。墓の区画が終わって道を曲がれば、またすぐそばに墓が並んでいる。鬱蒼とした木々は道を暗く陰らせていて、夕日の残光がなければどこを歩いているかもわからなくなりそうだ。
「この場所が好きなんですか?」
「こういう場所を、好きって言っていいのか、わからないけど……」
「……」
「でも、なんでだろう。よくここを歩いてる。……昼間が多いけどね。それだとけっこう、人が歩いてるのは見かけるんだよ」
「そうなんですか」
「夜に来るとちょっと薄暗いけど、昼間歩く分にはいい場所なんだ。見晴らしもいいし、もうちょっと歩くと庭園みたいになってて……灌木が綺麗に並んでて……見たほうが早いか」
そう言って、彼女の後ろについていく。もう、周囲は木々に囲まれていて、彼女の後ろ姿しか見えない。
辺りは暗くなっていく。
「結局同じことを繰り返すんだね」
「……」
不意に俺は立ち止まる。
振り返ると、そこに女が立っている。
俺は返事をしない。
溜息が出る。
「うるせえよ」
と、それだけ言って、前を向く。
ひなた先輩の後ろ姿が消えていた。
俺は少しだけ慌てる。
辺りは暗く、空にはもう月が見えている。
鬱蒼とした木々が風にざわついて、やけに落ち着かない気持ちにさせられた。
「ひなた先輩?」
少しだけ、声をあげてみるけれど、返事はない。夜の墓場で大声をあげるのははばかられて、それ以上は声をあげなかった。とにかく、進んできたのと逆に進んでみるしかない。角を曲がった先に姿が見えるかもしれないと思ったけれど、やはり姿は見えない。
そんなに長い時間、目を離していたわけでもないはずなのに。
角を曲がった先は少し丸みを帯びた道になっている。進んでいくと、木々に隠れた先の道が三方向に別れていることに気付いた。それぞれが違う墓地区画に続いているのだろう。
途方に暮れてもいられない。俺は辺りを見回しながら、とにかくどこかに進んでみるべきなのか、それともここで待つべきなのかと考えた。
──それであなたの中の恐怖はなくなったの?
俺は突然不安になった。俺は何かを間違ったんじゃないか? 何かしてはいけないことをしたんじゃないのか? そう思うと怖くてたまらなくなった。とにかく歩いて、ひなた先輩の姿を今すぐに視界におさめたかった。一本一本道を試してみるしかない。俺は歩き始める。
木々と墓以外には、ここにはほとんどなにもない。沈黙と夜が並んでいるだけだ。
落ち着け、と俺は自分に言い聞かせる。そうしなければいけないということは、俺は今落ち着いていない、ということだ。
冷静になれ。ひなた先輩とはぐれたのはついさっきだ。そんなに遠くにいっているわけもない。それに、彼女の方だって、俺がいなくなったことに気付くはずだ。この道を少し見に行って、彼女がいなければ戻ればいい。
……本当にそうか?
少し歩いてから、引き返す。似たような景色が並んでいる先に、また分かれ道があった。高低差があるせいで、方向さえもわかりにくい。まいったな、と俺はわざとつぶやいてみた。完全に迷子になりそうだ。
落ち着け、落ち着け、と言い聞かせる。俺は落ち着いている。冷静でいる。だから、問題ない。
ひなた先輩は近くにいるはずだ。見つけられないわけがない。
だから、大丈夫だ。
見つけられる。
そう思って、俺は歩き始める。どうして歩かずにはいられないんだろう。立ち止まっていたほうがいいのかもしれない。
気付いている。
不安だからだ。
道を歩きながら、空を見る。月がぼんやりと浮かんでいる。
不意に、雨が降り始めていることに気付く。
霧のように細かな雨粒が辺りを濡らしていく。
待ってくれよ、と俺は思う。さっきまで普通だったじゃないか。さっきまでなんてことのない道だったじゃないか。
軋むような頭痛の予感が額に現れる。目の奥がじんわりと熱を持っていく。
こんなはずじゃない、と俺は思う。
さっきまでここにいたんだ。
道を戻り、別の道を歩く。墓と木々と沈黙と夜。何も変わらない。雨は吹き付けるように夜風に乗る。さっきまで日差しがあったというのに、今は肌寒いくらいだ。
どうしてこんなことになったんだ。
目を離したのなんて一瞬のことだったはずだ。
どうして姿ひとつ見つけられないんだ。
俺が、
妙なことを考えていたせいで、妙なものに気を取られたせいで、見失ってしまった。
俺はそんなものを気に留めるべきじゃなかった。彼女の後ろ姿を見失うべきじゃなかった。
俺は彼女だけを見ているべきだった。
泣き出したいような気持ちになる。
このままひなた先輩と二度と会えないような気がする。
もういやだ。
何かを失くすのはいやだ。
誰かに置いていかれるのもいやだ。
だったら最初からひとりがいい。
ひとりでいい。
大切なものなんて作らないほうがいい。
……見つけないと。
彼女も俺を探しているんだろうか?
わからない。
探していないかもしれない。
置いていかれたのかもしれない。
でも……。
霧雨が視界を覆う。木々の暗闇を濡らしている。
月映えが鈍く広がっていく。
いやだ。
バカな考えを捨てろ。
いつまで怯えているつもりだ。
何も起きてなんかいやしない。
……だったらどうして。
どうしてこんなに怖いんだ。
馬鹿野郎。
馬鹿野郎。
何やってんだ。
彼女はどこにいる?
ここは本当に現実なのか。
わからない。
曲がり道を曲がる。
木々が笑うみたいに揺れている。
何度目かの分かれ道の末に、俺はようやく彼女の姿を見つけた。
「こっちだよ」
と、ひなた先輩は言った。
そうして角の向こうに消えていく。
俺は声をあげようとしたのに、何も言えなかった。
待って、と言おうとした。
その声がどうしても出せなかった。
変えられない過去の夢を見ているみたいだった。
石の街路を彼女の靴が叩く音が聞こえる。
弄ぶみたいに走り去っていく。
俺は彼女を追いかける。
道の端から伸びた草の露がジーンズの裾を濡らす。
いつのまにか雨が止んでいることに気付く。
視界は少しずつ明るくなっていく。
少しずつ道は開けていく。
月映えが柔らかく夜空から降りている。
黒い影がふたつ俺の頭上を過ぎていった。
不意に景色が変わる。
灌木の並ぶ庭園、と彼女は言っていた。
丘の傾斜に沿って、中央には灌木の並んだ庭園がある。
幅の広い階段のように、それは左右対称に、丘の上へと伸びていく。
木々の間にぽっかりと浮かんだ逆三角形の夜空に、月がぼんやりと浮かんでいた。
「ここだよ」
彼女は入り口に立って、俺を見た。
「わたしは、ここ」
俺はようやく立ち止まって、息を整えた。
息があがっていたことに気付いた。
その瞬間、幻でも見ているような気分になった。
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