08-03



 さっきまでの恐怖も不安もなにもかも忘れて、俺は彼女の姿から目を離せなくなる。


 何かが変わってしまったような、そんな感じがした。


 階段の真ん前に立って、彼女は何も言わずに俺を手招く。


 俺は返事をするのも忘れ、ただその誘いに従って、彼女のそばへと向かった。

 彼女は、まるでずっとそこで待っていたのだと言わんばかりに、俺を見て頷いた。


 なだらかな石の階段を、彼女は一段登る。そして俺のほうを振り返って、手を差し出した。


「いろんなことをすぐに忘れちゃうよね」


 と彼女は言った。

 俺はまだ返事をすることができない。


 夜風はかすかにうるみ、柔らかく、肌を撫でた。

 さっきまでの霧雨は嘘のようにかき消え、いま、彼女の背中越しに見上げる夜空は街の灯にほのかにかすみながら、それでも群青に冴え渡っている。


 俺は彼女の手を取った。


「……いろんなこと?」


「たとえばね」


 彼女は前を向いて、少しずつ歩き出す。こんなことが前にもあったように、俺は思う。

 あのときも……彼女は歌をうたっていたっけ? あれは、いつのことだったっけ?


「一緒にいるとね、楽しくて、当たり前にうれしくて、ほっとするの」


 彼女の後ろ髪が、風に静かに揺れたのを俺は見た。それがなんなのかもわからないまま、ただ声の続きを待つ。

 

「でも、少しでも離れると不安になる。ちょっとした心配とか、失敗とか、そういうのをね、いちいち思い出して、やっぱりこうだったんじゃないか、ああだったんじゃないかって。それで、なにもわからなくなって、そうするとすぐにびくびくして、怖くなる」


 彼女の言葉の意味は、ぜんぜん意味がわからないような気もしたし、自分が言ったことみたいに納得できるような気もした。


「すごくばかばかしいような気もするし、とても当たり前のことだって気もする。一緒にいるとほっとするのに、一緒にいないと不安になると。そのうち、一緒にいても不安になるようになる。修司くんの全部をわたしは知らないし、修司くんがどう考えているのかも、わからない。だから、ひょっとしたら、こんなことを話していることも、修司くんにとっては、意味がわからなくて面倒なだけなのかも」


 灌木の横を通り過ぎながら、辺りには彼女の声と、俺達の足音だけが響いている。俺は指先で彼女の指先を感じている。それはたしかなことのように思える。


「だって、自信なんてぜんぜんないからね。だから今日だって、ほんとは修司くん、面倒だったんじゃないかなあって思った」


「……そんなことは」


「って、言われたところで、そう考えちゃうから」


 苦笑いしながら、彼女はまだ階段を昇っている。


 いつだったっけな。

 こんなことが前にもあった。


 いま、あたりには灯りひとつなくて、俺たちが互いの姿を互いに見ていられるのは、月が翳っていないからだ。

 だからもし月に雲がかかれば、すぐにでも、お互いの姿を見失ってしまうだろう。


「でも、いろんなとこ、見せておいたほうがいいような気がしたの」


「……」


「なんとなく。良い格好しようとしたりとか、自信のある部分だけ見せようとか……わたし、そういうことばかりしちゃうみたいだから。そういうのって、まるっきりなくても困るけど、そればっかりでも困っちゃうよね」


 彼女が何を言おうとしているのか、いまの俺にはわからない。


「今日ね」


「はい」


「わたし、振られるんだと思ってたの」


「……」


 彼女はそこで振り返った。俺は返事もできずに、ただ彼女の瞳を見返す。月をさえぎるものがないだけで、この暗闇のなかでも、こんなにもはっきりと彼女の表情がわかる。

 あるいは、暗闇だからこそだろうか。


「そのときはね、潔くいようって思った。なんにも訊かないで、なんにも言わないで、できたら笑ってようって。でも……」


「俺は……」


「それが誰のためなのか、わからなくなったの」


「……」


 俺の言葉を受け流して、彼女はそう言い切った。返す言葉も思いつけずに、ただ頷く。


「わたしのためなのかな。修司くんのためなのかな。修司くんの好きなようにしてほしくて、そうしようとしたのかな。それとも、ぜんぜん気にしてないって素振りを見せることで、修司くんが少しでも傷ついてくれるって思ったのかな。自分でもぜんぜんわからなくなったの」


 俺は黙って彼女の手を強く握った。そのまま立ち止まると、彼女もまた立ち止まる。そうして俺の方を見る。階段の途中で、俺たちは向かい合う。左右には木々が黒々と枝葉を伸ばし、風に頷きを返すように揺れている。


「わたしはね、あの家に生まれて、ああいう家族のなかで過ごしてたの」


「……はい」


「少女漫画が好きで、活字の本は、実はあんまり読まなくて、映画もあんまり見ないし。……がっかりした?」


「……いえ」


「そっか。なんだかね、がっかりさせるような気がして、言えなかったんだよ」


「なにを……」


「ん」


「なにをがっかりするようなことがあるんですか、その情報に……」


「……や、ま、まあ、なんとなくね」


「俺は……」


「……」


 俺は、なんだというんだろう。

 何が言いたいんだろう。


 月のあかりはまだやさしくあたりを照らしている。


 こんなふうになにもかもがさらけだされたような場所では、俺の存在も彼女の存在も、吹けばかき消えてしまいそうな頼りないもののように思える。


「愚者は──」


「……ん」


「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」


「……えっと?」


「森里が言ってたんです」


「それ、誰の?」


「……たしか、ビスマルクですね」


「鉄血宰相だ」


「はい。ただ……気になって調べたんですけど、どこでどんな文脈で言ったのかはわからなかったです。出典もいまいち」


「……ふうん? よく調べるね」


「聞こえのいい言葉でも、文脈を知ると真逆の意味だったりしますから」


 現下の問題は言論や多数決ではなく、鉄と血によってのみ解決されるとうそぶいた首相。議会の意向を無視し、憲法の隙間を突き、軍備拡張政策を推めた。強権的とも言えるその軍拡の矛先は、三十年戦争以後いくつもの領邦に分かれていたドイツ国内の統一よりも、むしろデンマークやオーストリアなどの国との領土争いに向かう。それらの勝利によって自国プロイセンの立場をたしかにしたビスマルクは、ドイツの統一を成し遂げ、プロイセンの王であったヴィルヘルムを初代ドイツ皇帝として戴く。


 ビスマルクの前には三十年戦争があり、ヴィルヘルム一世の後にはヴィルヘルム二世の統治がある。その先には第一次世界大戦があり、十一月革命がある。

 

 歴史とはなんだろう。何かを学べるほど単純なものなのだろうか。

 

「……それで、ビスマルクが?」


「いえ、ビスマルクはどうでもいいんですけど」


「どうでもいいのか」


「はい。問題は、ビスマルクが結局、言ったのか言わなかったのか、よくわからない言葉のほうで……」


「……」


「文脈は無視して、この言葉を個人的な指標にすることはできるのかなあ、って思ったんです。本当にいま、思いついたんですけど」


「……んー?」


「……えっと、うまくいえないんですけど、つまり……」


「うん」


「たとえば、俺には兄がいないけど、仮に兄がいて、兄はあんまり勉強をしなかったとします。それで成績が落ちて、留年したとする」


「ふむ」


「そこで俺は、兄の姿を見て、同じ轍は踏むまいと、一念発起して勉強して、好成績をおさめる」


「歴史に学んでるね」


「そうですね。でも、たとえば……俺の両親が、子供の頃に離婚したとします。どこにでもあるような不仲で、四六時中喧嘩をして、いつも険悪で……」


「うん」


「悲惨な結婚生活で、ぎすぎすしてて、ちっとも幸せそうじゃなくて……その姿を見て、息子である俺が、絶対に結婚なんかするまい、と思うのも、歴史に学んでることになります」


「……ふむ」


「ちなみに両親は実際に険悪で離婚してるんですけど」


「さらっと重いなー……」


 ビスマルクの言葉とされている例の金言は意訳で、直訳は異なるという。

 曰く、「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む」

 もっとも、この言葉の出典がどこなのかは、結局わからずじまいだったけれど。ラテン語だって話すら出てきて、そうなるともはやビスマルクは関係ない。


「もっとも、これが政治やなにかの話なら、歴史や他国の失策に学ぶ意義はあるはずですけど……でも、個人レベルで見るなら、やっぱり他人の経験は他人の経験で、ひとつの経験はひとつの経験でしかないって気がする」


「……」


「何かを失ったことがある。また何かを失うのは嫌だ。だから何も手に入れない。これは経験に学んでいるようで、やっぱり歴史に学んでいるって気がする。だって、失った何かと、いま現に目の前にある何かは、別物のはずだから」


「……んー」


「だから──失うことにびくびくするのはやめたいなって思ったんです。幸せだって感じるたびに、でもどうせすぐにしっぺ返しがくるぞって、こんなの長続きしないぞって自分に蓋をして今を楽しめなくなるのは、どう考えても不毛だし、その逃げ腰の先に待ってるのは、どう考えても待ってるのは予言の自己成就で……だから、もし今が幸せなら、とりあえずそれを思い切り楽しんで……もしその結果痛い思いをするはめになっても、そのときに思い切り後悔すればいい。つまり、経験に学べばいいと思う」


「……」


「……言ってること、わかります?」


「……あんまり」


 すぐには無理かもしれない。

 不安になってしまうかもしれない。


 でも、いつ消えてもおかしくないものだと不安がっているよりは、それが当たり前のものなのだと、そう勘違いして、思い切り享受したほうが、ずっとずっと、先の見通しが立つ気がする。

 そのほうが、一緒にいられるような気がする。


「なんていったらいいのかな」


 俺は一歩踏み出して、階段を登る。ひなた先輩も、俺についてくる。


「なんていってくれるのかな」


 わざとらしく茶化した様子で、ひなた先輩はそう訊ねてくる。どうしたもんかなあ、と俺は考える。


「たいそうなことは言えないですが……」


 考えながら空を見上げる。ぽっかりと浮かぶ満月に、かすかな叢雲がかかる。


「月に叢雲」


「花に風」


「さよならだけが人生だ」


 当たり前の連想のように、ぽっと湧いた言葉をそのまま吐き出して、それをいつか、口に出したことがあることを思い出す。


 さよならだけが人生だ。

 人生は別離に溢れている。


 井伏鱒二の訳は、けれど、だからこそ、という力強さがある。

 そうとはいえ、本当にそうなのだろうか。


 思い出したように、口をつく。


「"さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう"」


「……寺山修司?」


「うん」


 と、頷いてから、頭を振った。


「……はい」


「……いいのに、べつに」


 どうしてかまた、彼女はすねたみたいな顔をした。

 

「……あ」


「ん?」


「いえ」


 思い出した。


 彼女が卒業したときも、こんなふうにふたりで話しながら歩いたのだ。

 俺は……そのときに、万年筆をもらったのだった。


 どんな話をしていたんだっけ。

 思い出せないけれど……。


 でも、そんなふうに歩いていたことは、思い出せる。

 そうこうしているうちに、階段を昇りきった。

 その先には、奇妙な塔のモニュメントのような、あるいは何かの施設のような、変な建造物がある。


「……何が言いたいんだったかな」


「ん。修司くんの話は、わかりづらいです」


 塔のまわりを何周かすると心霊現象に遭うらしいって、ひなた先輩は信じたふうでもなくつぶやいた。

 俺は塔のむこうに浮かぶ月を見て、ようやくふっと思いつく言葉があった。


「つまり、何が言いたいかっていうと」


「ん」


「月が綺麗ですね、ってことです」


「……」


 ひなた先輩は目を丸くして、面食らった素振りで数秒呆けたあと、


「ありきたり」


 と笑った。


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