04-01
夕方、俺が店に着いたときには、同じシフトの道塚が既にバックルームにやってきていた。
「おはようございます」と頭を下げられて、「おはよう」と返事をする。ついこの間、例の違算の騒動があったときに比べると、ずいぶん様子が明るかった。
「元気だな」
「おかげさまで」
思わず言った言葉に、道塚は笑いながらそう返事をよこした。
「なにかあったか?」
「オーナーが、このあいだの違算、調べてくれたそうなんです」
「ああ」
「やっぱり、俺が数えそこねてたみたいで」
「怒られた?」
「いえ、そこまでは」
それでも一応軽い注意を受けたのだろうが、道塚の様子は不思議と晴れやかだった。
「気をつけろよ」
と、俺が一応言うと、彼は素直に頷いた。
「はい。気をつけます」
そんな様子で、バイトが始まってからも道塚は終始機嫌よさげだった。何かいいことでもあったのかと思いたくなるくらいだ。
土曜の夕方以降は、店はそんなに混み合わない。届いた荷物を片付けたあとは、客足はどんどんと減っていく一方だ。通常業務もさほど量がなく、道塚の他に専門学生の先輩も一緒にシフトだったので、業務量的にはかなり余裕があった。忙しくならなければ、道塚もかなり落ち着いて業務をこなせるようになっていた。日数も増えて、かなり仕事に慣れてきたのだろう。
手が空いたとき、レジ周辺の補充をしながら、俺は道塚に声をかけた。
「調子よさそうだな」
「はい」
と道塚は頷いた。
「心境の変化でもあったか?」
「や、なんていうか、ちょっとがんばろうって思ったんで」
「……ふうん」
「はい」
理由があるのかないのか、それを訊ねるほど、俺は道塚と親しくない。本人ががんばろうと思えるのなら、それでいいのだろう。
「バイト終わったら、友達と遊びにいくんすよ」
「へえ」
へえ、と、本当に思った。どうやら彼と俺とはタイプがかなり違うらしい。俺はバイトが終わったあとは、いつもすぐに家に帰るようにしている。数少ない友人たちにも、夜に出歩こうと誘われることは少ない。基本的に、夜は自分の部屋でひとりで過ごす時間だと考えているのかもしれない。
「あ」と思いついたような声を彼はあげ、
「先輩も一緒にいきません?」
「え、どこに」
「わかんないっす」
「……」
俺は反応に困った。
「とりあえず友達がカラオケ行きたいって言ってるんで」
「元気だなあ」
……高校生って夜間のカラオケ入れるんだっけ? 行こうとしたことがないのでわからない。
「……いや、友達と行くんだろ。俺会ったこともないし」
「そうすか? 気にしないと思いますけど」
本当にそう思っていそうな道塚の表情に、少しだけ驚きを感じる。慣れ親しんだ環境だけに身を置いているとつい忘れがちだけれど、世の中にはいろんな考え方があり、いろんな人種がいる。なんとなく彼のことが羨ましくも思える。
「また今度誘って」と俺は適当な返事をした。
「わかりました」と道塚は言った。
◇
それなのにバイトが終わったあと、俺は道塚と一緒に、彼の知り合いが運転する白いボックスカーに乗り込んでいた。仕事が終わったあと、店の真ん前にその車は停まっていた。道塚はやけに明るい調子で「本当にいかないすか」「いきましょうよ」としつこく誘ってきた。どうにか断ろうと思ったはずなのに、結局俺は面倒になって頷いていた。後部座席に乗り込むと、耳慣れないEDMが大きめの音量で流れていた。運転しているのは道塚の友達の兄で、助手席にはその弟が乗っていた。三列目にはもうひとり男と、黒いジャージを着た茶髪の女が座っている。
乗り込む前にも、「はじめまして」さえなかった。道塚は「バイト先の先輩も一緒にいい?」と車内に声をかけ、何人かが「いいんじゃねえ?」と言ったのが聞こえた。どうでもよさそうだった。俺は居心地の悪さを感じながらシートに腰掛けた。一方的に、通っている高校のこととか、そこに通っている彼らの知り合いのこととかを質問される。俺は適当に答えながら、どうしてこんなところにいるんだろうな、と考えた。
話をしながらポケットから携帯を取り出し、千枝に「遅くなる」と連絡をすると、返信はすぐに返ってきた。「気をつけてね」。たしかに気をつける必要がありそうな気がする。
車に乗っている五人は、俺に対して、店での道塚の様子なんかを聞いてきた。それは俺とのコミュニケーションというよりは、俺を介した道塚とのコミュニケーションみたいだった。道塚は何度か「そんな話はいいよ!」と怒鳴り、「佐伯先輩もそんな話しなくていいすよ!」と真顔で言った。それでも彼らはその話を続けたがった。俺はべつにどっちでもいいやと思った。どうして俺はここにいるんだろう。
「でも佐伯先輩の話はショウから聞いてましたよ」と助手席の男が言った(俺は道塚の下の名前をそのとき初めて知った)。
「その話もいいって」と道塚が言う。
「ええ?」
「べつに話題になるようなところもないと思うけど」
「えー? ショウの話とちょっと違うっすね」
大音量の音楽のせいで、会話のほとんどは怒鳴り声のようにして行われていた。異国の奇祭に巻き込まれたような気分だったけれど、これは彼らの日常なのだろう。
走り出した車は黄色信号をギリギリで通り抜けて加速していく。唸り上がるエンジンの音がEDMに馴染んでいく。
運転席の男は俺よりも年上で、大学に通っているという。髪は黒く、顔も真面目そうに見えたけれど、運転は荒っぽい。
「これ、どこに向かってるんですか」と俺が聞くと、「どこだっけ」と彼は他のやつらに聞いた。
「カラオケだろ?」と道塚が言うと、俺の後ろの席の女が「えー?」と声をあげた。
「カラオケって気分じゃないんだけど」
「じゃあなんでいんだよおまえ」女の隣の男が言う。
「うるせー」と女は言い、ふてくされたようにシートにもたれて携帯をいじりはじめた。
それで結局どこに向かってるんだ?
車は国道に出る。街へと向かう。車通りの多い方向へと向かっていく。どこに向かうかを誰も教えてくれない。どうして俺はここにいるんだ? 今日の昼間はひなた先輩と会って、あたりまえにバイトをして、それでどうしてこんなことになるんだろう。俺は車のドアをくぐっただけなのだ。
不意にフロントガラスを雨粒が叩いて、運転席の男が「雨かよ」と舌打ちをした。「洗車したばっかなのに」俺はそれを聞きながらサイドウィンドウの向こうを見る。スモークの貼られた窓越しに、行き交う車のライトや街灯や、そんなさまざまな光が、蛍光魚が泳ぐようにして通り過ぎていく。俺はこの車に乗るべきじゃなかった。そう思う。俺は家に帰って小説を書いているべきだったのだ。
「佐伯くんはどんな音楽聴くの?」と運転席の男が訊ねてくる。
「ベートーヴェン」
「へー」「頭良さそう」「聞いたことない」
いや嘘だよ、と言ったら、みんなが一斉に笑った。「佐伯先輩冗談わかりにくくないすか?」俺は頷いた。「よく言われる」と言ったら、みんなまた笑った。
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