ep.10 恋
「このままお別れして、また和治君と鹿苑ちゃんは2人の時間に戻ればいいんだよ。11年前のことも転校してからのことも十分話した。もうこの先に私は要らないじゃん」
「そういうわけにいくか。キューはもう俺と鹿苑にとって切り離せない人物だ。何事もなかったかのように、なんてそれこそ無理なんだよ」
俺にとって恋鐘は初恋の人であり、手酷い傷を負わされたお互い様の誰かであり、鹿苑と結び付けてくれた恩人だ。そして鹿苑にとっては数少ない友人であり、恋を成就してくれた恩人。因縁も恩義も、恋鐘愛を無視するにはあまりにも大きすぎる。
恋鐘がどうでも良い誰かだったら無視できただろう。だが、どうでも良い誰かと呼ぶにはどうでも良くない部分だらけだ。
「自分だけ幸せになろうなんて、そんなことは出来ない。例え望まれていてもだ。キューの痛みに目を瞑って無視なんかできない。キューは、俺の友達だから」
俺は恋鐘に本音を突きつける。それが残酷なことだと分かっていても。
「……ずるいよ、そんな言い方。ずるい」
恋鐘は悔し気に言葉を吐き出した。
ずるくても良い。ずるかろうが、恋鐘の心を知ることが出来れば良い。
薄い唇から嘆息が漏れた。泣きだしそうな表情で、恋鐘は天を仰ぐ。
それから言った。
「恋ってなんなのかなぁ」
「それをキューが問うのか。恋のキューピッドであるキューが」
疑問してやると恋鐘はただ寂しそうに笑った。笑うだけだった。
俺は出会った頃の恋鐘が全て欺瞞の産物であったことを知っている。あの勝気で傲慢な女子高生は偽物で、恋鐘愛は俺の知る『キュー』という少女がそのまま成長しただけの女子高生であると知っている。
もう取り繕う必要もなくなった恋鐘の心はむき出して、彼女の言葉には偽りのない本心が現れている。
だから答えなければならない。恋のキューピッドの仮面を被れなくなった臆病者で弱気な少女が見せた素顔を受け止めるために。
「思うに、恋っていうのは何処までも自分勝手なものなんだ」
「よくある『恋は自分本位、愛は他人本位』って話?」
恋鐘の返事に俺は頷いた。
拍子抜けな答えに思われたかもしれないが、たかだか高校生が到達できる真理などたかが知れている。掴み取れるものなんて、手垢にまみれた俗説レベルでしかない。
「人が恋をするのはいつだって自分の中の誰かのイメージだ」
何か特別なきっかけがあって人に恋をするであっても、日々の積み重ねが恋になるであっても、其処に他者はいない。あるのは自身が直面した他者の切り取られた一面――恋に落ちた理由だけだ。
人が恋をする理由は自分ではない誰かを知ったからではなく、自分にとって都合が良い幻想を相手に抱けるからでしかない。
「相手に自分勝手な幻想を重ねて、その幻想に夢を見る。きっと好きになった相手の本質なんてどうでも良くて、自分勝手に期待をすることを恋と呼ぶんじゃないか」
恋なんて感情は、はっきり言って傲岸だ。俺が恋鐘に対してそうであったように、俺が鹿苑に対してそうであったように、相手のことなんて何にも知らなくても人は恋に落ちて、自分ではない誰かに想いを寄せる。
俺は恋鐘が病気であることなんか知らなかった。それでも恋に落ちた。
俺は鹿苑が人助けをする善性を持っていて、硬い表情のお嬢様で、俺のことを嫌っていると思っていたが、情が深くて、表情豊かで、俺のことを好きでいてくれるなんて知らなかった。それでも恋に落ちた。
相手のことなんか全然知らなくても、人は恋に落ちる。つまるところ恋なんてものはどうしようもなく自分本位なもので、エゴでしかない薄汚い感情だ。
「そんなの許されないよ」
恋鐘が縋るような声色で言う。
「和治君が言っているのは、相手の事情を考えないで、自分勝手な理想を押し付けることだもん」
「多かれ少なかれ、人間はそういうことをしてるだろ。だからすれ違いや喧嘩をするんだろうな」
きっと殊更に恋が特別じゃない。誰だって何も知らないまま見知らぬ誰かと関係を築く。そして関係を深めたり、あるいは別れていく。恋に限った話じゃない。誰もが相手の本質なんて知らないまま、自分勝手なイメージを抱いている。
ありふれた人間関係の在り方。恋鐘はそれを拒絶、いや認められなかった。
恋鐘は腹に溜まった思いを吐き出す。
「少女漫画に出てくる恋はさ、キラキラしてて、純粋で、眩しいものなの。冴えない女の子が王子様みたいな男の子に助けられて、其処から一生懸命頑張って結ばれる。そんな、そんな恋なんだ」
だけど、それはフィクションだから、偽りだから。
虚構はいつだって純粋だ。純粋だからこそ虚構なんだ。美しい、醜い、素晴らしい、愚かしい、楽しい、悲しい……。テーマを持って作られた作品はテーマ以外の雑然とした濁りが見えない。持たないではなく。テーマ以外の物事も描かれるのは事実。でもそれはあくまで脇道であって本道じゃない。読者に最も強く印象付けられるのは本道であるテーマで、脇道は本道に塗りつぶされてしまう。
少女漫画の本道は恋。そしてきっと、恋鐘が呼んできたのは何処までも純粋な恋の物語だったのだと思う。
だから俺の言葉に恋鐘は嘆息と共に吐き出すのだ。
「現実の恋って醜いね」
「それに気づかないままに俺達は恋をする。自分自身の欲望のままに、自分勝手の押し付けを」
「そんなことが許されるの」
「許されちゃうから恋がなくならないんじゃないか。ドラマも小説も、少女漫画も」
身も蓋もない結論に恋鐘は力なく笑う。結局は『赤信号、みんなで渡れば怖くない』だ。みんながやってれば糾弾できるものはいないという共犯の理屈で恋は見逃されている。
純粋な恋を描く少女漫画を恋の規範としてきた恋鐘からすれば、深く肩を落とさざるを得ないだろう。現実の恋と少女漫画の恋を同一視してしまった彼女からすれば。
恋鐘は宙に放るような口調でボソリと言った。
「私の何が悪かったのかな」
それは疑問の体を取りながら、諦めの色が強い言葉だった。
全てをわかっていて、それでいてなお認めたくはないという余りにも脆い意地。だからこそ口をつかずにはいられなかった。自分以外の誰かからくだらない意地を突き崩してもらいたかったために。
俺はただ1つの答えを突き刺すように言ってやる。
「恋鐘は俺に優しすぎたんだ。悪いところはその一点。それが恋鐘の失敗だった」
恋鐘は俺の幸せを願った。だけど、そんなことを望まずに恋鐘は恋鐘の望みを叶えようとすれば良かった。
ただ自分の心に素直になる。それだけのことをしていれば、今この時の状況は変わっていたかもしれないのに。
こんな風になし崩しな結末を迎えなくて済んだかもしれないのに。
「私、さ。頑張ったんだよ」
恋鐘が濡れた声で語り出す。
「和治君はきっと私の件で恋愛に奥手になったんじゃないかって思って、だから恋愛を応援してあげようだなんて思ってね」
「……あぁ」
「それで、それで、今の和治君がどの高校にいるのかとか好きな人がいるとか自分で調べて少女漫画を参考にして対策作ったりとかしたんだ」
「……あぁ」
「でもほら、私って病気があるでしょ。だから突然いなくなるかもしれなかったわけじゃん。それに私がキューってバレたら和治君に変な負い目を残しちゃうって思ったの。ほら、折角新しい恋が実ったのに昔の女が出てきたら和治君にも鹿苑ちゃんも気まずい思いをするでしょ。しかも難病を抱えてて、それで死んじゃったら後味悪いじゃん。だからあの頃とはキャラを変えて、私の正体がバレないようにして、それで、それで……」
「…………」
「…………」
「…………」
「ねぇ、和治君」
「なんだ」
「何が正解だったのかな。どうすれば良かったのかな」
これまでを悔いる口振りに、俺はすぐさま言葉を返す。
なんだわかっていなかったのか。これは、お前が一番最初に教えてくれたことだっただろう。
「エゴのぶつけ合い。キューはもっと自分の本質を曝け出せば良かったんだ」
恋鐘が多くのことを、俺なんかよりも遥かに重たいことを抱え込んでいるのは分かる。そしてそれを俺に突きつけることがどれだけの重荷になるかを恋鐘は考えてくれていた。
だが、その行為は勝手な俺のイメージ像を作り上げて、俺を勝手に諦めたことに他ならない。
遠慮なんかしなくて良かった。恋鐘は俺に自分を曝け出し、俺にぶつけてくれればただそれだけで良かったんだ。
けれども恋鐘は首を振った。
「出来ないよ。そんなの。和治君に私の重荷背負わせられないよ。だって、だって、私はもう先が短いんだよ。こうして無理に地元に戻って来れたのも、最後の我儘を聞いてもらったからなんだよ? それくらいに私には先がないんだよ? 私の気持ちを打ち明けて、それで良い感じになったとしても、ならなかったとしても、すぐ別れたら、死別なんかしちゃったら今度こそ取り返しのつかない禍根を残すことになっちゃう。和治君はそれで良かったの?」
そんなの、決まってる。
「良かったよ、それで」
隠されて、勝手にいなくなられて、それで安易な自己満足に浸って死んでいく。そんな恋鐘を見過ごすより、恋鐘の重荷を背負わされることの方がずっと良かった。
あぁ、そうさ。重荷なんていくらでも背負ったさ。それくらいの覚悟はいくらでも決めたさ。
だってキューは俺の友達なんだから。
「何もかもをさらけ出して、恋鐘の恐怖も弱さも、俺の未熟も弱さもぶつけ合わせて、お互いの価値観をすり合わせて、それでまた新しい価値観を、関係を作れば良かった。そういう話だっんだよ、俺とお前のお話は」
そして、それを教えてくれたのは恋鐘だったはずなのだ。
俺と鹿苑の距離感を無視する強引な手法。恋人になるには不可能な距離感にあった俺達を急速に結びつけるための無茶苦茶でなりふり構わないやり方。あまりにも遠い俺達を手を繋げるまでに近づけたのは、恋鐘の『飯田和治を幸せにする』という利己的なエゴイズムが成したんじゃないか。
恋鐘愛がするべきだったのは、その熱が溢れる我儘を自分の思いに向けてあげることだけ。
「はは」
恋鐘は乾いた笑みを浮かべた。
「だったら最初から間違えてたんだね」
続く言葉に籠っているのは自嘲。自分を嫌になるくらい傷つけて、傷ついたことに初めて目を向けた恋鐘がようやく痛感した現実に対する感想だった。
自覚があまりにも遅すぎた。自分を押し込めて、誤魔化して、目を背け続けてしまって、突きつけられることでようやく自分を思い出したのだ。
自分の心を大事に出来るようになったのだ。
「ねぇ、和治君」
少しばかりの沈黙を置いて、内に籠った熱が薄く伝わってくる、破裂しなかった爆弾を思わせる感情を湛えた声で恋鐘は俺の名を呼ぶ。
「好きだよ」
これまでの遠回りが嘘みたいにあまりにも簡単に、すらりとその4文字は出てきた。いや違う。本当は言いたくて言いたくてたまらなくて、ずっと胸につかえていた言葉だったのだろう。
俺は返事を返す。あの日、伝えたかった思いを載せて。
「俺も、好きだった」
もし仮にあの日、あの時、10年近く前に俺が恋鐘に告白しようとした時にその言葉を聞ければ答えは全く正反対の言葉になっていただろう。
でも、今はそうではなく、俺の初恋は既に過去のものとなっていて、俺は2度目の恋の真っ最中で、だからこの結末はもう覆しようがない。
「もし、もし、だよ。私が転校してから和治君を落としに掛かってたらこの結末は変わってたかな?」
恋鐘は負け惜しみのように手遅れな可能性を疑問する。
だが、
「有り得ない」
例え恋鐘が転校してから最初っから、自分に素直になっていたとしても変わることはない。
絶対に。
毅然と断じた俺に対して恋鐘は顔をくしゃくしゃにして泣き笑った。
「だよね」
恋鐘の頬を一筋の涙が伝う。
残された涙の跡を俺は忘れない。
忘れることなんてしない。決して。
恋鐘は望まないだろう。
だけど、俺はそうしたい。
全てをさらけ出し、自分のエゴをぶつけ合わせた俺と恋鐘の新しい関係の形、その1つだと、そう信じているから。
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