ep.03 転落
物理の授業というのはとかく退屈だと、授業を受ける度に俺は思う。特に昼飯を食った後はいつも眠気が襲って、そして大抵負ける。お爺ちゃん先生の穏やかな声も相まってもーすごい。勝てない、絶対に勝てない。
けれども今日の俺は珍しく起きていた。目をばっちり開けて、黒板を視界に収めながら。案の定授業は右から左に流れていったが。正直授業を聞いてる余裕なんてない。
覚悟を、決めたのだ。
キーンコーンカーンコーン。
鐘が鳴った。多くの生徒にとっては終わりの鐘であり、俺にとっては始まりの鐘が。
「それじゃあ今日の授業は此処までにしようかね。宿題を後ろの席から前に回して、集めたものは日直さんが物理準備室まで運んで置くように」
物理教師のほんわかした指示が飛ぶ。クラスメイト達は次々と物理のノートを前へ前へと送り始めた。
その中で物理教師は日直の名前を呼んだ。
「えぇぇっと、今日の日直は――鹿苑さん、お願いね」
「は、はい!」
鹿苑が妙に上ずった声で返事をした。そしてぎこちない動きで立ち上がり、錆びついたブリキ人形のように歩き、覚束ない手つきで一番前の席の奴からノートを回収していく。
なんだ? 突然当てられたからびっくりしてるのか? だけど今日日直だから当てられること自体は想定してるはずだよな。この先生、大抵そうするから。
訝しんでいると鹿苑がチラッとこちらに視線を向けた。
視線がぶつかる。
それは一瞬のことだったが、それでも俺には異様に長く感じた。まるで時間が引き延ばされたようだった。頭が真っ白になるとはまさにこういうことを言うのだろう。
そうしてはっとなった時には間延びした——ように感じられた——時間からは考えられないほどの速さで目を逸らす。
心臓がうるさいくらいに高鳴っているのも、体が異様な熱を発してるのも嫌にはっきりとわかる。頭にあるのはやってしまったという焦燥感。遠くから見つめられて良い気分になるだろうか。それもあまり好ましく思っていない異性に。
思わず頭を抱えて机に突っ伏した。取り返せそうにない失敗だった。自分の情けなさっぷりにほとほと嫌気が指す。なんだもう。
しかし、そんな俺の左肩が叩かれた。左隣の席の誰か。考えるまでもなくわかってる。
顔を上げ、恋鐘の方を見やると彼女は口だけでこう言った。
(早く行きなさいよ!)
ちらりと再び鹿苑の方をみやる。教壇に乗ったノートの山に彼女は困っている様子だった。
……………………。
…………。
……よし。
俺は意を決して勢いよく立ち上がる。椅子が大きな音を立てて、後ろにずった。そしてその椅子を力強くしまうと、短い休み時間を謳歌する学生の間を肩で風を切りながら縫うように進む。
そうして俺は辿り着いた。華奢な体つきの少女の下に。
「あ、あー、鹿苑」
やや気まずい思いをしながら、俺は彼女の背中に声を掛けた。
「困ってるようなら……手伝おうか?」
どうせ断られる。これまでだってそうだったのだ。別段、意識して彼女を優遇していたわけではない。普通の、日常の範囲で手伝いを申し出たのだが、大抵暗い顔でこう言われる。
『結構です』
というわけで今回もまぁそうだろう、と俺は諦観を抱いていたのだ。いやだって、なぁ、何かイベントがあったわけでもないのに俺と彼女の関係値が変わることの何が期待できるか。
だが、しかし、ほんの少しだけこちらに振り向くと彼女は頬を赤らめてこう言った。
「お、お願いできますか?」
……………………え、えぇぇぇぇぇぇ――
■
さて、一体どういうわけだ?
俺はクラスの3分の2ほどのノートを両手で抱えながらそう思う。
今の俺の一歩くらい先に淑やかな同級生、鹿苑茉莉花がいる。
「あー、今日は良い天気だな」
「……はい」
「えー、重くないか? 良ければもう少し持つが」
「……はい」
と言いつつ、渡そうとしない鹿苑だった。コミュニケーションが成立しねぇ。さっきからずっとこんな調子だ。
そもそもなんでこうなってんだ。今までは一度だって手伝わせくれなかったのに。
(恋鐘、一体どんな魔法を使ったんだ?)
分からん。本当に分からん。人の心が180度変わるようにするには、一体何をすれば良いのやら。俺には見当もつかない。人の恋を叶えるという大言壮語を吐いただけはあるのかもしれない。
しかし、そんなことよりもだ。俺にはもっと考えなければならないことがある。
壁ドンについてだ。
KABEDON。イケメンにしか許されていない行為であり、現実でやれば犯罪である。だったらイケメンに許されてねーな。あれは二次元だけだ。
横目で鹿苑を見やる。心なしか彼女の肩は強張っているように思えた。いや、心なしかじゃないか。大して知らない男と一緒じゃあ、肩が強張るのも当然だ。
……………………。
今の彼女に壁ドンすることは簡単だ。隙だらけだからな。けれどもそれをするのは違う気がした。
冷静に考えてみて欲しい。肩を強張らせている異性相手に壁ドンなんて性暴力染みた行為をして良いものだろうか。絶対人道にもとるだろ。
よし、やめよう。そうしよう。流石に人を傷つけてまで恋愛する気はない。そこまでする必要なんて、ないだろう。
「ふぅ……」
肩の力が抜けると途端に気が楽になってきた。こちらから何かしなければ、変なイベントも起きないだろうしな。
羽が生えた気持ちになった俺は少し先を歩く鹿苑に続いて廊下の角を曲がる。そこから下は階段で、降りて別棟の物理準備室へと向かえば仕事は終わりだ。
これで異様に長く感じた一日は終わりだと思った、そんな時だった。
男子生徒の1人が階段を勢いよく駆け上がってきたのだ。
「きゃっ」
まさに階段を降りようとしていた鹿苑が突然目の前に現れた男子生徒に驚き、バランスを崩す。
そう階段を降りようと足を軽く持ち上げ、重心が不安定な状態で、だ。
ふらり、とであった。鹿苑の華奢な体が宙に落ちていく。
ノートで両手が塞がっているのが良くなかった。彼女自身が事態が気づいた時には、もう手遅れだった。
「あ――」
バサバサとノートが落ちる音が聞こえた。鹿苑が手すりへと伸ばした左手が後少しの所で空を切るのを見ていた。
そして気が付けば、俺の体が動いていた。
「鹿苑!」
ノートなんて放り出して、空を切った鹿苑の左手を掴む。
かかった女子の体重に焦った俺の体は容易にバランスを崩す。
浮遊感があった。胃が持ち上がる不快感を耐えて、俺は鹿苑の体を抱き留める。落下の衝撃から彼女を守れるように、包み込むように。頭を胸辺りで抱えるようにして。
初めて触れた彼女は俺が思っていたより小柄で、怖いくらいに脆く感じた。
壁ドンなんてしなくてよかったなぁ、と状況に反してそんなことを思った。
それから全身に衝撃が走った。以降、俺の記憶はない。
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