ep.07 過去

 2月14日。それは私が一番苦手な日。中学2年生にもなって初恋に落ちたことがない身からすれば、世間が恋愛一色に染まるこの日は一番苦手だった。なんだか世間から置いていかれている気がするし、普段から浮いている自分が更に浮いているように感じられて、それが一層バレンタイン嫌いを加速させている気がする。

 だいたい恋愛ってよく分からないのです。胸がドキドキするとか、好きな人のことで頭が一杯になるとか、よく言われますけど、そんなことあるのでしょうか。恋愛漫画の女の子も、恋愛小説の女の子も、もっともらしくそう書かれるばかりで説明が足りません。根拠とか、メカニズムとか、そういうのが。第一、そういうのは傍から見れば病気です。一度きちんと病院で診てもらった方が良いんじゃないかと思います。

 駅前にいるとそういう人たちが沢山います。見てわかる恋人の男女が手を繋いだり、腕をくんだりして歩いている。まったくはしたない。節操というものはないんでしょうか。公衆の面前で男女がそんなに身を寄せ合うなんて! 


(ん~~~~)


 なんだか胃がする。眉間にしわが寄っているのが分かる。いけない、いけない。早くこの場から立ち去りましょう。精神衛生上よろしくないです。目的は達成しましたし、ね。

 今日、駅に寄ったのは駅ビルで変えるバレタイン限定のチョコレートを買うためでした。この時期は色んなチョコレートが売られるから、その点だけは好きです。

 

(クラスメイトの子たちはこういうのを好きな人に渡すんだろうけど……)


 私は自分で食べるだけだ。恋を知らない私に渡す相手なんているはずがない。

 

(もし恋をしたら、私もいつか渡す時が来るんでしょうか)


 分からない。そういう自分を私は想像できなかった。

 

(渡す誰かがいるということは、私が誰かを好きになったということで、自分が好きになる誰かというのが全然想像できません)


 クラスメイトの男子を思い返す。誰もいまいちピンと来なかった。なんというか誰も彼もが軽佻浮薄で、頼りない気がするのです。生き方に真芯がないというか……自分自身に自信がなくて、直ぐに揺らいでしまう根性のなさが透けて見える。

 もし、もし付き合うのでしたら、私は自分自身を貫ける気骨ある誰かと付き合いたい。


「~~~~っ!」


 そこまで考えて、私は私自身の思考の恥ずかしさを自覚する。

 ほんとうに何を考えてるんでしょうか、私は! そそそそそそんな、好きな人だなんて、私にはまだ早いというか、恋人とかまだまだとか、そうとか?! だいいち男の子ってよくわかならいですしですでですしですし!!!!!

 …………いけません、思考が迷走してきました。

 深く、深く深呼吸。いつものように胸元にある母の形見に触れ……母の形見に触れ……?


「あれ?」


 伸ばした指先は空を切った。其処にあるはずの赤い宝石のペンダントがない。いつもだったら其処にあるはずの、母の形見が!


「えっ、嘘?!」


 どうしようどうしようどうしようどうしよう――! 

 あれは私の手元にある唯一の母の形見だ。古いものだと知っていたけど、まさか失くしてしまうなんてっ。

 いつなくなった? 最後に確認したのはいつだっけ? そもそも着けてきたっけ? 

 混乱している。わかってる。でも、胸を侵す焦燥感が消えてくれない。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしようっ。

 何をすれば良いのかわからなくて、何をすれば正解なのかわからなくて、頭の中ぐちゃぐちゃになる。

 だから何も出来ずに立ちすくむ。じわり、と目じりにぬるい温度の涙が溜まる。どうしよう、どうしたらいいの、お母さん。


「あの――」

 

 突然背後からかけられたその声に私は肩を大きく跳ねさせた。


「どうしました?」

「えっ、いや、あの……」


 振り返った先に居たのは私と同じくらいか少し年上に見える少年だった。少し年上に見えたのはクラスメイトの男の子よりも背が高かったから。顔付きもちょっと幼さがなかったのも、そういう印象付けを後押ししたと思う。とにかくそんな少年がこちらを気遣うような目つきで目の前に立っていた。


「な、何でもありません! えっと、あっ、目にゴミが入ったんです……だから目がしてて」

「目にゴミが入った人はそんな悲壮な顔つきで涙を流しませんよ。何があったんです?」


 う。なんでこの人はこんな的確に欲しい言葉をくれるんでしょうか……。

 何かその裏にやましい意図があるのではないかとその目を窺う。けれども彼の瞳にはやましさはなくて、何処までも真剣で、見ているこっちが照れてしまうくらいだった。


「…………っ」

「どうしたんです?」

「な、なんでもないですっ」


 何を考えてるんだろう、私は。『照れてしまう』だなんて。こんな時に。

 不思議な感覚だった。なんであんなにも泣き出してしまいそうだったのに、それを塗り替えるほどの気持ちが湧くんだろう。

 しかし浮かんだ疑問は一度飲み込んで、私は思案する。

 頼っても良いのでしょうか。見ず知らずの人の善意を。相手は全然知らない誰かで、男の子だ。頼りやすいかと言われたら、とても頼りにくいというのが本音。

 でもほかに手段がないのが実情。母の形見がなくなっているのだから、なりふり構っていられない。

 浅く息を吸い、意を決して私は彼に私が置かれている状況を伝える。


「えと、実はペンダントを失くしてしまって……」

「何処でですか?」

「それが分からなくて。少なくとも駅と自分の家の往復路にあるってことくらいは分かってるんですけど」

「……なるほど」


 少年は少し間考え込むと、


「とりあえず交番に相談しましょう。ペンダントでしたら、交番に届けられているかもしれないですし」 


 ととても適切なアドバイスをくださった。

 確かにそうだ。落とし物をしたら交番、それがまず基本。耳にが出来るくらいに聞き飽きた常識です。

 交番の警官さんに聞くだけ聞くと「届いてない」とのことだった。とりあえず遺失届提出書を提出しておき、ペンダントの落とし物があった際には連絡をしてくれることに。


(名前を書いたら分かりやすいくらいに態度が変わりましたね……)


 一応、私はここらでは名家のお嬢様なので、姓を知っている人だと結構露骨に態度を変えます。それがちょっと距離を感じるので悲しいです。

 だから、もしかしたらこの親切な少年もそうなるのではないかと思って、名前は言えないままでした。少年も名前はどうでも良いのか、聞いてこなかったですし。

 ですがこの少年は例え私が何者かなんて知っていても気にしないような気がして、教えても良いのかなとは考えたりもしています。結局伝えはしないのですけど。でも、それはそれで寂しいような気もするのですけど。

 複雑な心境のまま、私と彼は交番を出ます。そして少年は開口一番、


「では俺達でも探しに行きましょうか。駅ビルのどこら辺を移動しました?」


 と言い放った。


「ちょ、ちょっと待ってくださいっ。そこまでしてもらうわけには……!」

「いや、もうこれは乗りかかった舟でしょう。最後まで付き合わさせてください」


 私のほとんど静止となった遠慮に対して彼は屈託なくそう返した。それから止める間もなく、「さぁ行きましょー」と音頭をとって先に進んでしまう。

 行き先も分からないのに、何をしてるんですか彼は! 強引にもほどがありますっ。

 私の葛藤も、逡巡も何もかもを無視した彼の背を私は追いかける。


「あ、あのっ、私が行ったのはここから2階の売り場で――っ」

「了解です。まずはそこから当たりましょうか」


 人混みを掻き分けて、私たちは先に進みます。

 落とし物を探すという目的から目線は常に下にある。だから周りがよく見えなくて、通行客と度々ぶつかって、その度に非難の視線を向けられていた。「すみません、すみません」と2人して口だけで謝りながら、目を皿にして売り場の床を見る。

 それでも、ない、ない、ない。蹴飛ばされて何処かにいったとかそういう可能性も考慮して、売り場から外れて見た場所まで足を運んでみても見当たらないのでした。

 

「ない、ですね」

「ない……ですねぇ」


 となると駅ビル内じゃなくて、行きの道で失くしたのでしょうか。交番からの連絡はまで来ていません。来る時の道で落としたと考えるのが妥当なように思えます。


「じゃ、来た道を戻りましょう」


 少年はあまりにも気軽な調子で私に告げる。


「まだ探すんですかっ」

「落とし物は探さないんですか?」

「いや、そうではなくっ」


 分からないかなぁっ。


「まだ私に付き合う気なんですかっ? そこまでしてもらう理由はないはずですっ」


 少年は親切にしてくれたけれど、しかしただの通りすがりだ。そこまで私に力を貸してくれるのは親切を通り越して、不気味だ。

 けれど訝しむ私に対して少年は首を傾げて、たいそう不思議そうにこう言ったのです。


「困ってる人を助けるのに理由はいらなくないですか?」


 …………その言葉をホントの本気で言っている人を私は初めて見ました。

 絶句する私を差し置いて、彼は先に歩いて行ってしまった。そのあとを私は追いかける。

 まったく強引にもほどがあります、本当にっ。


「こっち、こっちですから!」


 急いで見当違いの方向へ行こうとする彼を正しい方向へと案内する。行き先も分からないのにどうして行っちゃうんですか。

 とはいえ、道に出たからと言って簡単に見つかるわけじゃない。むしろより難しくなったんじゃないでしょうか。多くの人が行き交う中でペンダントなんて蹴飛ばされて、何処かへ行ってしまっていても不思議ではない。

 いつの間にか日が暮れつつあった。西の空では藍色が夕日の橙を圧し潰して、東の空から夜が静かに広がっている。太陽を失った世界で吹く風は徐々に冷たさを増していた。

 寒風に打たれながら、私はコンクリートの地面を見落としがないように目でさらう。

 少し暗くなってきましたけど、赤い宝石のペンダントなんて目立ちますから分かるはず。

 通行人の皆さんからおかしな目を向けられながらも、必死に探す。

 どこ、どこ、どこ。来た道になかったら、もう見つからない、諦めるしかない。

 暗闇が徐々に重たくなってくる。街灯の灯りの光がどんどん強くなってくる。帰宅するサラリーマンが足早に道を進んでいく。

 でも、だけど、それでも、目印となる赤い宝石は何処にも見当たらなかった。

 

「くしゅん」


 冷たくなった鼻先を啜る。一段と寒さが増してきた。ふと空を見上げると、もう空はすっかり暗くなっていて、都市の明るさでもはっきりと見える一等星が輝いていた。

 もう、ここらが潮時でしょうね……。

 私は冷めた思いで現実を見た。これだけ必死に探しても見つからないのなら、もう見つからないのでしょう。盗まれてしまったか、蹴飛ばされて下水道にでも落ちたか。兎にも角にも、今更見つけられると考えるのは楽観的だ。

 喉に残った息を全部吐き出すようにして、浅く息を吐く。しょうがない。失くした自分が悪いのだから、しょうがない。

 私は少年に声を掛けます。


「あ、あの」


 中腰になっていた少年は腰を伸ばすと私の方を向いた。


「見つかりましたか?」

「いえ、いえっ、そうではなく、もう帰りませんか?」

「…………」


 少年が押し黙った。ちょっと怖いくらいの顔付きで。


「ほらっ、その、もう真っ暗じゃないですか。寒いですし、もう帰りましょう?」

「…………良いんですか、それで」


 少年の短い問いかけに今度は私が押し黙る。

 

「俺が声かけた時、泣きそうになってたじゃないですか。泣きそうになるくらい大切なものをそんな簡単にほっぽり出して、貴女は諦めてしまった良いんですか」

「…………それは、それは嫌です。けど、これだけ探したんですよっ、だったらもう見つかるわけないじゃないですか!」


 彼が悪いわけでもないのに、完全に自業自得なのに、八つ当たりでもするように彼に怒鳴ってしまった。

 だけど、彼はそれに腹を立てるでもなく、


「だったら見つかるまで探しましょうよ。大切なものなら、諦めちゃダメです。その諦めた気持ちはきっといつまで経っても、傷跡となって残り続けます。そしてそれを払拭するには相応の時間がかかるから。それだけ苦しむのなら、どんなに時間が掛かっても、どれだけ大変でも、大切なものを取り戻さなくちゃなりません」


 と真剣な表情で語った。口調には苦々しさと重さが籠っており、誰かの言葉を借りたような軽々しさは感じられない。

 実体験なのだろうか。何かを失った経験が、彼にもあるのだろうか。


「俺も最後まで付き合います。ですから、諦めずに探しましょう。大丈夫です。きっと見つかります」

「…………っ、はい!」


 こうして勇気づけられた私は再度、視線を下に向け、母の形見であるペンダントを探し始める。

 結局、傷のついた赤い宝石のペンダントが見つかったのは午後9時頃でした。傷がついていることに少年は肩を落としていましたが、それでも見つかったのは私にとって幸運で、だからこそ私は少年に頭を何度も下げた。だって見つからなかったかもしれないもので、見つけることを一度は諦めたのだから。彼が居なかったら母の形見は私の手元に戻ることはなかったでしょう。見つけただけでも私にとっては十分に幸福なことなのです。

 少年と別れて、家に帰ったら、お父さんにしこたま怒られました。しかしほとんどお叱りの言葉を記憶に残っていません。

 思考が熱っぽく、体がなんとなくする。もしかして風邪でも引いたのでしょうか。心臓の動悸が激しくて、脳裏には今日の出来事がこびりついて離れません。

 遅めの夕食を取って、温かいお風呂に入る。それだけすればもう午後11時近い。ベッドにもぐりこんで、私は目を閉じた。

 

 


 これが私の過去理由。私が彼に出会い、初恋に落ちた中学2年の冬だった。

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