ep.05 キュー
やたらと冷たい3月の風を受けて、俺は肩を震わせた。3月になったというのに、未だ寒さは和らいでくれず、冬物が手放せない状況だ。大陸からの寒波とやらも、多少は手加減して欲しいものである。
「緊張、してますか?」
いつもより地味な恰好をした鹿苑が俺を案じた。
「否定は出来ない。何せキューと会うんだ。平然としている方が無理がある」
俺は何とも言い難い思いで目の前の背の高い建物を見上げる。
その建物は笹良市民病院。探偵の情報によれば恋鐘がいるという病院だ。3月7日の夜に判明してから、その翌日に向かうという急なスケジュールだったが、善は急げだ。早め早めに行動するのは悪いことじゃない。
此処に恋鐘がいる。10年近く前の、俺の初恋の相手であるキューが。
心中は複雑だ。怖さや疑問、その他の胡乱な感情が渦を巻き、俺の思考を濁らせている。
それでも此処で引き返すという選択肢は俺にはない。
「行くか」
「行きましょうか」
ほぼ同時に俺達は同じ言葉を言い切って歩き出す。
自動ドアが開くと病院独特の、化学な匂いが鼻をついた。俺はそれに少しだけ顔をしかめる。
病院という場所はどうにも苦手だ。隔絶の感がある。病院は最も身近な生と死の戦場であり、日常とはかけ離れたもの。だから居心地が悪いのだろう。
「面会の受付をしてきますね」
「すまん、ありがとう」
恋鐘の病室は個室の713号室らしい。これも鹿苑が雇った探偵が得た情報だ。プロの力は恐ろしい。たった数日で高校生の雲隠れを詳らかにしてしまったのだから。
面会謝絶でもされているかと思ったら、そんなことはなく、受付で恋鐘の名前を告げるとすんなり通してくれた。
鹿苑が先を行く形で俺たちはエレベーターに乗り込む。
扉を閉めようとした矢先、暗い顔をした家族がエレベーターに駆け足でやって来た。急いで『開』のボタンを押して、彼らをエレベーター内に入れる。
「すみません」
「いえ」
おそらくは父親と思われる男性の短い言葉の端々からは焦りと悲しみが滲んでいた。
そうだよな。ここはそういう場所だ。恋鐘だって、そういう状況にあるわけだ。
拳を強く握り込む。ふと脳裏によぎった会うのは間違っているかもしれないという疑念を握りつぶし、滲む痛みと共に事実と向き合う覚悟を決める。
10年近く前の禍根。有耶無耶なまま見過ごしたその2度目を繰り返さないために、俺はあいつと向き合わなければならないんだ。
チーンとエレベーターが止まる。7階に着いたのだ。俺達は暗い顔をした家族を置いて、エレベーターを出る。
エレベーターを出てすぐの柱に入りつけてある案内図を見ると、7階は一本の直線の廊下の両端に病室が並んでいる構造になっていることがわかる。713号室を確認すると、俺たちはまた歩き出す。
先を歩く鹿苑がこんなことを唐突に言った。
「……大丈夫ですからね」
「…………何が?」
「恋鐘さんに何を言われようとも、私は貴方を肯定しますから」
鹿苑の心配に俺は微かに笑う。
「大丈夫だ。もう立ち向かうべきものは分かってる」
振り返れば、俺はあの過去に囚われるばかりで、立ち向かうことをしてこなかった。『その諦めた気持ちはきっといつまで経っても、傷跡となって残り続けます。そしてそれを払拭するには相応の時間がかかるから』。かつて鹿苑に言ったというその言葉は、よくよく考えれば傷に対する逃避の言葉だ。
傷の痛みを治すためには、治るのを待つなんて時間経過に任せるんじゃなくて、傷と向き合い、治療法を探るべきだったんだ。歯を食いしばって痛みに耐えながら、それでもと過去の決着をつけることこそが俺のやるべきだったこと。そして10年以上の時を経て、ようやくその機会がやってきた。
だから、もう逃げない。過去の清算のために俺は恋鐘と対峙する。
俺のためにも、もしかしたら恋鐘のためにも。
個室を通り過ぎる。壁に嵌められた次の個室の個室番号を見た。708号室だった。恋鐘に近づいている。俺は鹿苑を追い抜いて、恋鐘の病室へと急ぐ。
それから躊躇わず、スライド式の扉の取っ手に手を掛け、引いた。
そして、言う。
「会いに来たぞ、キュー」
視線の先、病室のベッドに上半身を起こしている恋鐘の姿があった。今のあいつには教室で見た活発な姿は見る影もない。やや伸びたしっとりとした黒髪と頼りないほっそりとしたシルエット。今のあいつは、俺が知るかつての姿がそのまま成長したような少女の姿だった。
初めて、俺は目の前にいる少女がキューであることを素直に認められた。髪色や髪型だけではない。纏う雰囲気すらこれまでの恋鐘は俺の記憶とかけ離れていた。剥き出しの彼女と、『恋愛相談を受ける恋鐘愛』という役割をなくした彼女と会うことで、ようやく俺は恋鐘愛をキューだと認識できたのだ。
痩せただろうか。2週間ぶりに見た恋鐘はイメージの変わりぶりと病室というロケーションも相まって、俺の目にはやつれて見えた。そしておそらく、その印象は錯覚ではない。本当の本当に、恋鐘は弱っているのだろう。
だけど、それでもあいつは懐かしさを感じる微笑みを浮かべ、懐かしい声色でこう言った。
「久しぶり、和治君」
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