ep.07 切り出す

 俺達の勉強会は16時半には終えた。まだ西の空は明るく、随分と日が長くなったものだと、俺は玄関から出て思った。


「お邪魔しました」

「また良かったらいらしてね」

「絶対来てくださいねっ、お兄ちゃんとは関係なしに!」


 家から一歩出てからの鹿苑の丁寧な別れの挨拶に、母さんと妹がそれぞれ言葉を返した。鹿苑は2人の言葉に深い一礼を返す。

 しかし自分の彼女と家族が対面するのを改めて冷静に見ると、むず痒い感覚に襲われるな。っていうか、これ、彼女にとっちゃあ彼氏の親に会うっていうとんでもないイベントだったんじゃあ……? 家デートのインパクトに目が眩んで、肝心なことを見落としてたな…………。

 けれども当の鹿苑は平気そうな態度でいたことを思い出す。あんまり気にして、ないのか? まぁ、提案してきたのは彼女だったし、家族と会うことは織り込み済みだったのかもしれない。そうでもないと家デートなんて提案はしないか、当然か。

 鹿苑は顔を上げると、再度「失礼します」と挨拶をして静かに扉を閉める。それから俺を振り返ると、胸に手を当て息を吐いた。


「ふぅ……」

「……もしかして緊張してた?」

「あ、当たり前じゃないですか! ご家族の方とお会いするなんて、全然考えてませんでしたからっ」

「え、マジで?」

「何か粗相はなかったでしょうか? 失礼を働いてなければ良いのですけど」

「うん、それについては失礼どころかむしろ高評価しかなかったと思うが……え、ほんとに考えなかったの?」


 マジ?


「え、じゃあ、なんにも考えずに家デートを提案したの?」

「そうです……」


 鹿苑が肩をすぼめた。ていうことは、本当に何も考えてなかったのか……。


「意外と考えなしだ、な?」

「~~~~ッ! 私だって色々考えてるんですぅっ!!」

「じゃあ、何考えてたの」

「そ、それは……それはっ、その……あ、貴方のことです!!」

「お、俺のこと?!」

「言ったじゃないですかっ。私は貴方のことが知りたかっただけなんですよッ」


 そう言えば、俺の部屋に入った時にそんなこと言ってたっけか。


『だって、もっと好きな人のこと知りたいって思ったんだもん』


 …………いかんな、敬語崩しは。思い出しただけでも来るものがある。

 だけど、なんでそんな、後先考えないような強行手段に出たんだ? 


「俺、そんなに自分をオープンにしてなかったか」

「えっと、いや、その……いえ、えぇ、そうです! 秘密主義すぎるんです、貴方は!!」

「……流石に今のがとってつけたような言い訳だってことくらいは分かるぞ、俺でも」

「うっ、う~~う~~」


 だから唸るなと。可愛いから。

 

「とりあえず行こう。流石に家族に痴話喧嘩を聞かれるのはきつい」

「――どうしましょう、お恥ずかしいところを見せてしまいました……っ」

「そんなに焦らなくても良いと思うが」


 鹿苑は礼儀を気にしすぎだ。蔑ろにするのは勿論駄目だが、お嬢様として英才教育を受けているだろう彼女がちょっとくらい失敗したところでそれは一般的な基準での失敗にはならないだろう。

 しょんぼりする鹿苑を宥めながら、俺は先を促した。そして話を続ける。


「家デートを提案したのは、先走り過ぎたって感じか」

「えぇ、まぁ、その、そうですね。ちょっと浮ついてたというか、恋に呑まれてたというか」


 頬を人差し指で搔きながら、鹿苑が気まずさを紛らわせるように笑った。

 恋人について知りたい欲求。その気持ちは俺にもあるからよく分かる。どんなものが好きなのか、どういった生活をしているのか。好きな相手の知らないところはどうしたって気になるもの。好奇心、もしくは一種の独占欲と言うべきか。相手を全部知っていたいという無邪気な欲望が鹿苑を狂わせていたと言って良い。

 鹿苑はやや頬を上気させて告げる。


「正直を言えば、貴方の部屋とか部屋にあるものとかを知ることが出来れば良かったんですけど……ふふ、そればかりじゃなかったですね。私、貴方に妹がいたなんて知りませんでした」

「言ってなかったっけか?」

「言ってませんでしたよっ」

 

 鹿苑が両の拳を握って怒る。漫画だったら、なんて擬音がついてそうな可愛らしい怒り方だった。

 しかし妹の話題なんて日常会話で出そうなもんだが、出てなかったとは驚きだ。


「別段秘密にしてたわけじゃないけど……」

「言ってなかったんですから秘密にしてたも同然です! まったくっ、まったくもう!!」


 そんな怒らなくても。どれだけ俺のことが知りたいんだ。愛が重いよ、愛が。重たい愛は受け止めがいがあるから気にしないけどさ。

 鹿苑は畳みかけるように言う。


「それに今日の貴方は卑怯ですっ。部屋にあんな、あんな罠を仕掛けるなんて……」

「罠?」


 そんなもの仕掛けた覚えがないが……。俺が心底不思議に思っていると、鹿苑はうつむき加減で、


「匂いが」

「臭い? もしかして臭かったか?!」

「ち、ちがっ、そうじゃなくて、ですね……」


 歯切れ悪く鹿苑は言う。


「貴方の匂いでいっぱいで、少し落ち着かなかった、かな……と」

 

 ……なる、ほど? いまいち意味を図りかねて、俺は首を傾げる。つまり男で言うところの女の子の匂いにドキドキしちゃうような感じと同じってことか?

 鹿苑は鹿苑で顔をこれ以上ないくらい真っ赤にして黙りっぱなしだ。俺も俺で鹿苑のことを掘り下げるつもりはないけども。「匂いを嗅いでドキドキしてました」なんて絶対に本人には言えないしな。

 でも、こういうのって、


「匂いフェチってやつか?」

「ふぇ、ち……? それってなんですか?」

「うーん、分かりやすい言葉で言うと『匂い好き』って感じか」

「『匂い好き』……なるほど、そういう言葉があるんですね」


 感心した様子で鹿苑は言葉を受け止めていた。

 ……


「鹿苑にそんな癖があったのは知らなかったな」

「そうですっ。お互いまだまだ知らないことばっかりなんですよっ。私だってまだまだ貴方のことを知り足りません!」

「例えば?」

「貴方の好きな本、貴方の将来の夢、貴方の思い出、それと――」


 鹿苑は言葉に不自然な間を作って、それから短く息を吸って告げる。


「――貴方の初恋のこととか」


 射抜かれたような感覚を俺は抱く。俺は思わず足を止めた。鹿苑は俺の少し先を行って、俺の方を振り向く。その瞳には決意と憂慮が籠っていた。


「貴方の初恋が手酷い振られ方をして終わった、そんな話をお聞きしました」

「ちぃ、相沢の野郎か。余計なことを言ってくれる」


 俺の初恋のことを知っているのは、俺以外には相沢しかいない。あいつ、こっちが信頼して話したというのに、一番知られたくない鹿苑に教えるとはどういうことだ。

 鹿苑は重たい物言いで言う。


「貴方にとっては良くないことかもしれませんが、私は知ることが出来て良かったと、そう思っていますよ」

「なんでだ? 彼氏の初恋なんて聞いても面白くないだろ」

「それはそうですけどっ、一番最初じゃなかったのは面白くないですけどっ……でも、貴方の心の傷を知らない方がもっと『いや』です」


 強く、強く、彼女は『嫌』と言った。そして駄目押しとばかりに言葉を重ねる。


「どうか、どうか話していただけませんか。貴方の、初恋を」


 まいったな。そんな真剣な目で言われたら、逃げられないじゃないか。そんな傷ついた表情で懇願されたら、断れないじゃないか。

 恋人が向き合おうとしてくれているのに俺自身が目を背けるなんて、そんな情けないことは出来ないじゃないか。

 俺は出来る限り思い出す。未だに触れると鈍い痛みを感じるあの思い出のことを。

 あぁここは、俺の初恋について語るならば絶好のロケーションじゃないか。

 俺と彼女が時間を重ねた、この公園は。

 

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