ep.08 初恋
俺は鹿苑を連れて、公園内のベンチに腰掛けた。
暮れなずむ夕暮れの中、俺は過去を反芻していた。あいつとの記憶を、俺にとって楽しくも苦々しい思い出を。
いつかより少しぬるくなった寒風を身にうけて、俺は口火を切る。
「俺の初恋は小学校低学年のころ、確か1年か2年だったと思う。俺はこの公園で彼女と遊んでいたんだ」
「……どんな方だったんですか?」
「そうだな、黒くて長い髪を持った、まるでお姫様みたいな女の子だったよ。と言っても、服装がそれっぽいってだけだが」
そもそも今思えば、お姫様のような服装でもなかった。あいつは決まって薄いクリーム色のシャツと裾からフリルが覗くブラウンのワンピースばかりを着ていた。おそらく好きだったのだろう。それがかつての俺にはお姫様のように見えていただけだ。
「そして、あいつは俺と同じ小学校にはいない子だった。違う学年の教室を覗いたけどいなくって、一体誰なのか調べられなかったんだよな」
「学校の名前くらい聞けば良かったのにと、思いますが、当然聞いたんですよね。それでもなお、教えてもらえなかった、と」
鹿苑の指摘に俺は首肯した。そうだ。あいつは教えてくれなかったんだ。あいつは個人情報と呼べる個人情報を一切俺によこさなかった。頑なに。
「もしかしてお名前すらも……」
「あぁ、教えてもらえなかったんだ」
「では、なんとお呼びしていたのでしょうか? 仲が良かったんですよね」
名前を知らないから、俺はあいつのことを渾名で呼んでいた。名前も知らない俺が渾名をつけられるわけもなく、その渾名は当然あいつが言い出した仇名だ。もう由来も思い出せないその渾名はこんな渾名だった。
「キューピット。俺はあいつをそう呼んでいたよ」
「変わった渾名ですね。どんな由来なんでしょう。キューピットと言えば、愛の神が直ぐに思い浮かびますが」
「まぁ、小学生の発想だしアニメか漫画のキャラかなんかだと思うけどな。恋のキューピット的な」
少女漫画だと、恋愛のキャラは多そうだし、『恋のキューピット』キャラが居ても全然おかしくない。正確な由来なんて分からないが、そういうものから取っている可能性は高いだろう。
話を続ける。
「キューピット――まぁ、長いし物々しいから、だんだんとキューって略すようになったが――俺とあいつが初めて会った時、あいつは公園で一人ぼっちだったんだ」
確か休みの日だった気がする。俺はつまらなそうな顔でベンチに腰掛ける、見慣れない女の子を見つけた。それがキューだった。
『誰?』
『…………知らない』
初めての会話はそんなぶっきらぼうな会話だった。
「あいつは何でか誰とも遊ばなくてさ。そのくせ、寂しそうな瞳で遊んでいる俺達を見て来るもんだから気になっちゃって、結局俺は強引に連れ出したんだ」
「ふふ。困っている誰かを見過ごせないというのは貴方らしいですね」
「今思えば、あんまり褒められた行為じゃないけどな。あの時はじれったくて、そうしてしまった」
大して親しくもない相手を無理矢理遊びに誘うなんて、考えなしにもほどがある。自分勝手すぎて、自分で自分が嫌になるくらいだ。
「ですが、それがきっかけでお2人は仲良くなったんですよね?」
「ん、まぁな。キューは人見知りで引っ込み思案だったから、俺以外とはたいしてなじめずに俺ばっかと遊ぶことになった」
主に俺がキューを引っ張りまわす形で、俺とあいつは遊んでいた。最初は迷惑そうなあいつも、だんだんと笑顔になってくれたんだっけ。
「あの頃の俺は、だんだんと笑顔を見せてくれるあいつが可愛く見えて仕方がなかった。俺だけに見せてくれる、俺だけの彼女。傲慢にもそんな風に俺は思ってたんだよな」
そしてそれこそが、俺の、
「俺の初恋だった」
浅はかで、純粋で、単純な、あいつへの思い。気持ちが悪いと思われるくらいに身勝手な子供の恋。
「真剣だった。人ってこんなに好きになれるんだって思えた初めての体験だった。恋に呑まれるとはああいうことを言うんだろうな。俺はあいつのことばかり考えるようになった」
だけど、
「だからこそ、振られた時の傷は大きかった」
「手酷い失恋って、一体どんな振られ方だったんです?」
容赦がない。その容赦のなさはそれだけ鹿苑が真剣であるということの証明だった。嬉しい。それだけ彼女は俺と向き合ってくれているということなのだから。
今度は俺も躊躇わずに言う。
「いざ告白しようと思った時の、その約束を反故にされたんだ」
「それは……それは、辛い、ですね」
俺に告白した側の鹿苑は告白という行為が持つ重さを知っている分、強く共感しているのだろう。声には震えが交じり、指先は強張っている。
告白には覚悟と勇気がいる。それも生半可ではない覚悟と勇気が。鹿苑が俺にしてくれたように、俺もあいつに対して同じように重たい覚悟と強い勇気を持ってその約束を切り出したんだ。
「忘れもしないさ。いや、忘れられなかったと言うべきか。待ち合わせの時間を過ぎても待ち合わせの場所で、日が暮れるまで待ち続けたあの日の記憶は」
直ぐ帰れば良かったのにな。俺はあいつが約束を破ったなんて信じたくなくて、ずっと、ずっと、日が暮れるまで待っていた。
「そして、あいつとはそれっきりもう会うことはなかった。約束を反故にされて、反故にされたまま、俺とあいつは別れたってわけだ」
それがことの顛末。俺の苦い初恋に起きた出来事。
全てを語り終えた俺は、思わず思いを口に出してしまった。
「惨めだった。あいつは俺の約束を破った。俺はあいつを信じていたのに、あいつは俺を裏切った。そうとも知らずに待ち続けた俺は、惨めでたまらなかった。振られるのは良い。でも、せめてきちんとあいつの言葉で振られたかった。あんな、あんな不誠実な振られ方はあんまりだった」
俺の声は震えていた。怒りなのか、悲しみなのか、それは俺にも分からない。ただ確かなのは、もう10年近く前の話で、話す覚悟を決めたというのに俺が動揺しているという情けない事実だけだった。
けれども、そんな俺の述懐を鹿苑はただ黙って聞いていた。それから毒づく。
「許せませんね」
鹿苑にしては珍しく、明確な怒りが込められた声だった。腹の底で激情が煮えたぎってる。そんなイメージが容易に浮かぶほどに分かりやすい怒りが込められていた。
そんな怒りを鎮めるために、俺はあいつを庇った。
「まぁ、何か急用が入って来られなかったとか、急な転校を言い出せなかったとか、そんな事情があった不可抗力の可能性があるし、俺もあいつを探すのを諦めていた。だから、あいつが悪いと簡単に言い切れないんだけどな」
「だとしても、だとしても告白をしようと思った人を踏みにじることを私は許したくない。意図してではなかったとしても、結果的にそうなっているならその傷ついた心を私は大事にしたい」
鹿苑は俺の両手を包み込むようにして握った。
「だから、どうか忘れないでください。私が貴方の隣にいることを。貴方が傷ついていると悲しくて、貴方の傷を分かち合いたいと強く願っている私が貴方の側にいることを」
「だって」と彼女は言葉を切った。だって、と。
「だって、私たちは恋人なんですから。そうでしょう、和治さん」
怖い顔をしていた鹿苑の顔に笑顔が綻ぶ。その笑顔が眩しくて、俺は彼女から目を背けた。
それに、
「鹿苑……名前」
「名前?」
「初めて下の名前で呼んで貰った」
というか名前自体、今まで呼ばれてなかった気がする。だから、いきなり名前で呼ばれるとか、その困る、わけで……。
「いきなり、それはずるい、だろ」
「顔、真っ赤ですよ?」
「勘弁してくれ……」
顔を覆った俺を見て、鹿苑はくすくすと可笑しそうに笑った。
「だが、なんで急に名前呼びなんて」
「今回の件で分かったんです」
何が?
「私は和治さんのことをきちんと大事に思えてるんだなぁって」
鹿苑は再び鋭い表情で、
「貴方が傷ついたら私は悲しいし、私は寄り添いたいです。ですから、もっと距離を詰めたいって、詰めるべきだって、そう思ったんです。そうでなきゃ、貴方に寄り添えない」
「その判断の結果が、名前呼び……」
「名前呼びは恋人の特権だと学びました。少女漫画から」
随分怪しいソースだな、それな。苦し紛れにそう考える。実際、下の名前呼びは恋人同士の特別な呼び方的な扱いをされている。鹿苑の言っていることは間違いじゃない。
「私は今日、和治さんと私の間には埋めるべき空白がまだまだあることを痛感しました。私は和治さんの家族のことも、和治さんの家の場所も、和治さんの初恋のことも知りませんでした。それじゃダメなんです。私たちが、恋人である意味を果たすためには」
意味、意味と来たか。そんなもの決まり切っているが、しかし俺はあえて問うた。
「じゃあ、鹿苑。俺達が恋人になった意味とはなんだ?」
「それはとても単純なことです。すなわち、お互いを助け合うこと。ただそれだけのことに他なりません」
俺が思い浮かんだことと、同じことが鹿苑の口から帰ってきた。
そう。俺達は互いが好き同士で恋人になった関係だ。しかし、ただ好きで、好きであることだけで関係性を維持するならば、それはただ幸せな時間を享受するだけの関係性だ。それはそれで意味があるとは思う。だが、恋人になった今、好きな人と隣り合わせで居られる今にただ幸せな時間を享受するだけでは隣り合わせで居る意味がない。
隣り合わせということは、世界で一番好きな人の一番近くにいる人間が自分でああるということ。であるならば、困っている時に恋人を助けられることこそが恋人になったことの意味ではないだろうか。
鹿苑は言う。
「私は、貴方を助けられる恋人になりたい。貴方が傷ついたら、その傷を分かち合えるような恋人に。だから、もっと貴方と心の距離を近づけたいのです。例えそれが私自身の我儘だとしても、私はそう強く願っています」
全く敵わない。そんな純粋な願いを我儘なんて言われたら、俺の立つ背がない。俺だって鹿苑と同じだ。鹿苑が傷ついていたら、鹿苑が俺に抱いてくれた思いを抱くだろう。
だから、応えよう。鹿苑に、俺の恋人の願いに。
俺は浅く息を吸う。
「
「はい、和治さん」
「…………」
「…………」
「「…………」」
恥ずかしいな、これ。思った以上に恥ずかしい。胸のあたりがくすぐったくなる。
言うのは恥ずかしがらなかった鹿苑もまた、言われた側になったら頬を朱に染め、視線を地面に落とすくらいに恥ずかしがっていた。
「あの、やっぱり和治さんから私の名前を呼ぶのはまだ止めていただけますか? ちょっと心臓が、心臓が持ちそうにないので……」
「あぁ、俺も、日常で言うにはだいぶハードルが高いから、許してくれると助かる」
そう言って、俺達は気まずさを誤魔化すようにはにかんだ。
名前呼びによるお互いの距離を近づける作戦。その成功にはまだまだ時間が掛かりそうだった。
俺はベンチから立ち上がる。固まった体を大きな伸びでこり解す。夕日の、沈みかけの濃いオレンジの光が眩しかった。
「ありがとうな。気を遣ってくれて」
「いいえ、和治さんのトラウマを土足で踏みにじるようなことをして申し訳ありませんでした」
「鹿苑が謝る必要ない。いつかは必要なことだったんだ。むしろ今、聞いてくれて良かったよ。胸のつかえがとれた」
「そうですか」と鹿苑は安堵の微笑みを浮かべる。そんな鹿苑に、俺は続ける。
「多分この傷は小さくなることはあっても完全になくなることはないと思う。多分、一生背負っていくことになるんだろう。だけど、俺には鹿苑がいる。俺を大事にしてくれて、俺が大事にしたいと思える恋人が。だから、もういいんだ」
過去よりも
あいつに振られた傷なんて、彼女が隣にいる幸福と比べれば小さいものだ。
「不甲斐ない恋人だとは思うが、これからもよろしくお願いしたい、茉莉花」
「こちらこそ、不束者ですが、末永くお付き合いできればと、和治さん」
下の名前を呼ぶ。真摯な願いの言葉だから、そうでなくては意味がない。こればっかりは、恥ずかしさなんて関係なしに。
まぁ、おかげで示し合わせたように照れくさがったが。
鹿苑が負け惜しみのように言う。
「名前呼びは恥ずかしいのに、キスは出来るんですね」
「な……っ。あれは……、その、すまなかった」
「ふふ、ごめんなさい。悪戯しちゃいました。でも、そうですね。そういう可能性もあったんですよね」
鹿苑が瞳を伏せる。何処か熱っぽい様子を湛えた彼女は少し間を置くと、俺の名を呼んだ。
「和治さん」
「……何?」
「いつでも待ってますからね、キス」
唇を、唇を丸めた指先で抑えながら、鹿苑は上目遣いで誘惑してきた。下の名前呼びで念押ししてきたってことは、つまり本気というわけだ。
否応なしに視線が唇に向かう。薄い唇がやたらとてらてらして見えた……って何を考えてるんだ、俺はっ。さっきと同じじゃないかっ。
沸騰しそうな頭で俺は苦し紛れの言葉を吐き出す。
「鹿苑は、エッチな女の子かもしれないな」
「はいっ、エッチな女の子ですっ」
そんな風に認めて、可愛く笑みを浮かべられるのが鹿苑でしたね、そうでしたね。覚悟決まりすぎてるんだよな、鹿苑な。あるいは肉食系なのか。きっと誘惑はこれから続くのだろう。どれだけ欲望を抑えられるか、そういう意味で苦労させられそうだ。修行僧かよ。
「まったく、鹿苑は……」
「ふふ、こういう悪戯は楽しいですね。貴方の可愛い顔が一杯見れます」
困る俺を見て、鹿苑は心底楽しそうに笑った。Sっ気に目覚めつつある恋人であった。こういう甘え方の形なんだろうか。受け止める気概が必要になってくる。鹿苑同様に覚悟を決める必要があるだろう。手を出さないようにするという覚悟がッ!!
ひとしきり鹿苑が笑った後、俺は鹿苑が表情を引き締めるのを見た。
「ねぇ、和治さん」
「どうした? 突然真面目な顔をして」
「いえ、その、すみません。私も話を誤魔化していましたけれど、貴方に言わなくちゃならないことがあるんです」
神妙な顔で鹿苑はそう告げた。しかし、そこから先が続かない。言い出そうとして言葉が出ずに、口だけ開く。そんな心の葛藤が表れていた。つまり、先程まで見せていたSっ気は内心の動揺を誤魔化す、精一杯の空元気というわけか。
何を言いだされるのだろう。怖くて先が促せずに俺は鹿苑の覚悟が決まるのを待った。きっと鹿苑が言いたいのは、俺達の間のことじゃないだろう。覚悟が決まっている彼女が俺達の関係について言い淀むわけがない。
もっと別の、俺達の関係性とは別の話だ。
しばしの沈黙があった。やがて鹿苑は握り拳で太ももを叩くと、言いたかったことを絞り出す。
「もし、私が貴方を手酷く振った『キュー』の正体を知っているとしたら、どうしますか?」
……………………は?
どういうことだ、何故鹿苑が俺の過去にしか現れなかったあいつのことを知っている?
理解が出来ない情報に。世界が揺らぐ。足元がおぼつかなくなる。倒れそうになる体で何とか踏ん張って、俺は鹿苑に先を促した。
あらゆる疑問を無視してでも、俺はあいつの、キューの正体を知りたかった。
「教えてくれ、鹿苑。あいつは一体誰なんだ?」
鹿苑の喉が上下に蠢動した。生唾を呑み込んだ。つまりそれほどまでに言い出しにくい誰かだと言うこと。そして、友人が少ない鹿苑にとってのその誰かなんて、衝撃で鈍くなった俺の頭ですら容易く想像できた。
いや、でも、まさか。だって違うじゃないか。髪色も、性格も、ファッションも、何もかもが。あいつはしっとりとした黒髪で、引っ込み思案で、お姫様ちっくなものが好きな女の子だったはずだ。
だけど、だけど、だけど導き出せた結論がこれしかないと俺に告げている。
「もしかして、恋鐘、なのか?」
俺は喉を震わせるようにして音を出す。自分の言ったことが遥か異国の言葉に聞こえて仕方がなかった。
そして、俺の言葉に鹿苑の首はこう動く。
縦方向に、こくりと。
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