ep.06 おうちデート
俺の部屋がどんな部屋かと言えば、これといって特徴がない部屋である。扉をひらいて真正面にベッドがあって、部屋の左側には本棚とタンスが、右側には勉強机が置いてある。他はこまごまとした雑貨が置いてあるが、まぁ普通の男子高校生が持っているようなものだろう。そして今日の勉強会にあたって、俺の部屋には2人で勉強できるほどの大きさの丸テーブルを用意してある。
「とりあえず、其処に座って――って何してるんだ?」
部屋に入ると、鹿苑は落ち着かない様子で窺うようにしている。鼻をしきりに動かしたり、目線をあっちこっちにやったりして、まるで警戒中の小動物みたいな感じだった。
そのくせ、「はえ~」なんて間の抜けた声を出している。どういう感情なんだそれは。鹿苑も鹿苑で何だか様子がおかしい。
何処か夢見心地な足取りで鹿苑は背の高い本棚の方に歩み寄る。
「結構、本をお読みになるんですね」
「……漫画とかライトノベル、小説とかばっかだけどな。鹿苑がいつも読んでるような本はあんまし」
「意外でした。本自体をあまりお読みにならないかと」
確かに、鹿苑の前では本の話をしていなかった気がする。明らかに本の趣味が合いそうになかったし、敢えて言わずとも良いかと、そういう判断で何も言わなかったはずだ。
鹿苑はそのまま本棚に手を伸ばし、何のためらいもなく1冊の本を抜き取ろうとする。
ちょっと待て。勝手に読んでもらうのは問題ないが、別の意味で不味い。これこのまま、俺の本を読んで一日終わってしまう流れだろ。
「今日の目的、忘れてないか?」
「わ、わひっ?! わ、忘れてませんよ……っ?」
いや、嘘だろ。その視線の泳ぎっぷりは。
ジト目を返してやると、鹿苑は取り繕うように真面目な顔して、
「勉強会、そう、勉強会ですね。えぇ、忘れていませんとも!」
「いや、ナチュラルに本を読もうとしてたでしょ」
「う~~」
だから言葉に詰まって涙目で唸らないでくれ。萌え殺す気か。
それから、ぼそり、と
「だって、もっと好きな人のこと知りたいって思ったんだもん」
―――――――――――――――――――――――――――――――――ッぶねぇ……! 意識をもってかれるところだったっ。くそ、それは卑怯だろ。これまで敬語を貫いてきたお嬢様がぽろっと敬語を崩して甘えて来るのはさぁ。
「ふんっ」
「と、突然どうしたんですか?!」
パンッ、と大きな音を立てて頬を叩き、俺は動揺を叩き潰す。じんじん染みる頬の痛みで何とか正気を維持してみせる。
「とりあえず、勉強会を始めようか」
「紅葉模様が頬についてますけど、大丈夫ですか?」
元凶が言わないでほしい、元凶が。
とにかく鹿苑をテーブルの周りに座らせて、俺は彼女を真正面にして座る。それから俺達は2人して、教材を広げた。同じ学校の俺達は当然、教科書も同じなわけで、一緒に使いまわせば良いため鹿苑には必要最低限のものしか持ってきてもらっていない。重たいしな。
「寒くないか?」
「大丈夫です。むしろ、ちょっと暑いくらい」
「じゃあ、少し温度を下げとく。寒くなったら、また言ってくれ」
エアコンの温度を1度下げる。リモコン操作の電子音が大きく聞こえた。つまりはそのくらい俺の部屋は静かになっていた。
俺も鹿苑も、偏差値高めな高校の高校生だ。勉強を始めてさえしまえば、集中して雑事は気にならなくなる。
当然、色恋のあれこれなんてものも目に入らなくなるわけで、シャーペンがノートを走る音が心地良い。すーっ、とんとん、とん、すー。文字の走りはとめどなく、止まらない筆は確かな集中を証明していた。
(なんだ、この分なら対して問題なく終わりそうだな)
俺自身の浮ついた気分も徐々に熱が冷めていく。開いた数学の問題を解き直しながら、俺は自分自身が冷静になっていくのを自覚した。芸は人を助けると言う。身についた勉強の習慣が俺を助けてくれた。真面目に勉強するもんである。
さて、問題だ。理系である俺の数学のテスト範囲は数Ⅱ・Bの範囲全てと数ⅲの一部である。青石高校は数学全部の範囲を3年の9月までに全部終わらせるとかいう暴挙をかましてくるから、テスト範囲がこんなことになっている。
「あー、f(x)とf(t)、g(x)にg(t)が混ざってる問題か」
「苦手なんですか?」
「あぁ、頭がこんがらがる」
なんで同じ関数の中に同じ関数が混ざってるんだ。訳が分からない。
俺が唸っていると鹿苑がいつの間にか俺の隣に来ていた。
「違和感ありますよね、こういう系統の問題は」
肩口で聞こえた声に思わずギョッとする。
肩が触れそうな距離感に、息遣いを感じられるほどの距離感に、仄かな甘い匂いがかぎ獲れるほどの距離感に。彼女の熱が服越しに伝わってくるほどの距離感に、彼女がいる。
あぁ、タートルネックを着てきてくれて本当に良かった。少し胸元が緩い服だったら、隙間から見えそうで見えない胸元の肌色には俺は耐えられそうにない。
「積分部分を代数に置き換えてしまって解決できるなんて、解説見ればたいへん単純ですが、同じ関数の中に同じ関数があるという見た目はこれまでの常識を壊してきますよね。私も最初は面食らいました。結局のところ、積分部分も代数のようなものと理解すれば分かりやすいですよ」
鹿苑がややこちらに身を寄せる。吐息が俺の首筋を掠める。熱が更に近くなる。滑らかな髪が流れ落ちて、甘い匂いが匂い立つ。倒れそうなくらいの生々しい彼女に眩暈がし始めた。
腕が、右腕が彼女の肩に伸びていく。触れた肩の柔らかさと儚さが脳を伝う。そんな肩を強引に引っ張り、俺の方を向かせる。
「え、えっと……?」
鹿苑が戸惑った顔で、戸惑った声を出す。
俺は左腕を伸ばし、彼女の肩に手を掛けた。
鹿苑の表情に浮かぶ困惑の色が更に強まる。
俺は伸ばした両腕を引き、彼女を引き寄せる。
鹿苑が戸惑った顔を止めて目を瞑る。
俺は右腕を鹿苑の背中に回した。
そして、それで、それから。
気配が混ざる瞬間に――
「和治ー、入るわよー?」
――母さんの声が聞こえた。
その日常的な無粋な声に俺は正気に戻る。弾かれたように手を離すと、彼女と距離を取った。
直後に自室のドアが開く。入ってきたのは中皿にこんもり盛られたクッキーだ。多分、元々の計画でパンケーキになるはずだった生地を食いやすいように改善した奴だな、あれな。
「勉強の邪魔してごめんなさいね、茉莉花さん。これ置いたら、もう出てくから」
「いえいえ、お
慇懃な一礼をする鹿苑。そんな彼女に対して母さんは、「ま、」などと感嘆の声を上げる。それから含みのある視線を俺に向けた。なんだ、それは、何の意味が込められてる。
反抗心を隠さず睨みつけてやると、なんだか微笑ましいものを見る目で見られてしまった。なんなんだよ、一体。その母親独特のそれは止めて欲しい。そしてその目つきのまま部屋から出てくな! どういう意味があるのか説明しろっ、説明をっ。
現れて消える嵐のようだった母親が完全に扉を閉めるのを確認すると俺達は確認し合う様に言葉を交わした。
「行ってしまいましたね」
「行ったな」
でも、俺は母さんに感謝しなければならないんだ。
さっきのはヤバかった。完全に理性が飛んでいた。彼女の色香に飲み込まれ、欲望に駆られていた。何をしようとしていた? あ、あろうことか、キ、キ、キスをしようなどとは……ッ。屈辱だ、大いに屈辱だッッ。ちくしょう、欲に負けるなんて。自分で自分を殺したくなってくる。
鹿苑の方をちらりと見やる。彼女は彼女で頬に手を当て、顔の熱を確かめるような動作をしていた。駄目だ、完全にやりすぎた。キスなんて一線を超える行為はきちんと手順を踏んでからでないといけないのに。
「「――――!」」
鹿苑と視線が合う。顔を真っ赤にした彼女と同じく顔を真っ赤にしているだろう俺は目線を逸らす。俺が何をしようとしていたのか。それを理解して、俺達は互いに互いを直視できなくなっていた。
付き合い立ての頃を思い出す。色々な「初めて」にどきまぎしていたあの頃を。告白して、話して、デートして。お互いのことを知って、距離をつめてきた俺達は徐々に隣に立つ互いを受け止めてきて今がある。
だけど、まだ「初めて」はたくさんあるってことを俺は、そしておそらくは鹿苑も、思い知ったんだと思う。俺達がきちんと恋人関係を続けるには、そうした「初めて」を何度も、何度も乗り越えていく必要があるんだろう。
「「…………」」
さて、どうしよう。もう完全に勉強する雰囲気じゃない。勉強が手につく雰囲気じゃない。勉強どころじゃない。浮つくどころか、宙を浮いちゃってお話にならない。
くっそ、俺の馬鹿野郎。安易な行動のせいで今日一日が滅茶苦茶になったじゃないか。どうする? ここからどう巻き返せば良い? 何か手が、何か手はないのか?!
「――お兄ちゃー-ん!! 私も一緒に勉強して良い??!!」
ドアが外れんばかりの勢いで開け放たれて、元気よく入ってきたのは妹だった。その視線は傍らに居る鹿苑に釘付けになっている。完全に鹿苑を目当てにやってきたな、お前な。
妹は俺達の惨状を見て、入ってきた途端に一言。
「もしかしてお邪魔だった?」
「「お邪魔じゃないですどうぞどうぞ」」
「うん、予想以上にめっちゃ仲良しだね2人とも? 監視の意味でもいた方が良いねこれね」
妹は迷うことなく、俺と鹿苑の間に割って入った。
「茉莉花さん茉莉花さんっ、勉強を教えてくださいっ。お兄ちゃんなんか放っておきましょう!」
「良いですよ。何処が分からないんですか?」
「お嬢様の生活について!」
「…………兄妹ですね……」
真剣にこっちを見て言ってくるが、何処のどういう点が似てるって言うんだ。似てないだろ。そして、あけすけが過ぎるぞ我が妹よ。多少は取り繕え。
だが、まぁ、ほんとの本気で助かった。俺達の間にあった浮ついた空気が妹の乱入で上手くかき乱された。変に互いのことを意識することはなくなった、というか気にする余裕がなくなったというのが正しいか。とはいえ、おかげさまで、これで勉強に集中できるというものだ。
妹を追い出し、母さんは出来る限り今日のことを切り離そうと思ってたけど、結果的に妹と母さんがいてくれて良かった。こればっかりは本当に。これを機に恋人関係についても、もっとオープンにしていく必要があるのかもしれない。騒動のきっかけとなった関数のx、tが交じり合う問題に取り掛かりながら、そう思う。
すーっ、とんとん、とん、すー。筆が走る音。其処に妹のはしゃぐ声と礼儀正しい鹿苑の声、そして妹を窘める俺の声が混ざりながら、土曜日の昼下がりは徐々に、徐々に夕暮れへと向かうのだった。
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