第31話 Aが法廷で切れた

「弁護士さん、あなた随分失礼ですよ」


 僕はこの日、証言台から弁護士に苦情を言う証人を初めて見ました。

「あなた、ずいぶん失礼ですよ。私のことを知りもしないのに年寄り扱いをして目が悪いとか耳が悪いとか」

 J弁護士は、『かかった』と思ったかも知れません。

 あとは燃え始めた火に油を注げば激高して、何かとんでもないことを言うかもしれないし、裁判官がそのように注意を与えれば、本人が耳や目を気にかけているという事実を記録に残すことができるわけです。

 J弁護士は不敵な笑みを浮かべて、

「あれはですねー、一般論として説明したんで、症状というものは本人が気がつかないうちに進行しているという説明なんですが、気になりましたか」


「私にここで一般論を説明する必要が無いのにわざわざそう言ったことで私がそう感じたからセクハラになるといってるんです。あなたは、ただ私が目が悪くて耳が悪いと、だから右車線の渋滞が見えなかったと言いたいだけでしょうけど、医師の診断書でも持ってるんですか。私、目も、耳もいいんですよ」

 Aはふっと言葉途切らせます。

 この空白に、裁判官もJ弁護士も、何らかの言葉を挟みたかったに違いありません。が、声を出す一瞬の間隙にAの言葉がクサビのように食い込みます。


 僕も含めてですが、男性は世の女性が3~4人集まって日々繰り広げている、所謂、井戸端会議の会話のすさまじさを知らなさすぎました。

 彼女たち4人が立ち話を始めれば、少なくとも3つの関連性も脈絡もない話題が同時並行して進行します。

 安室奈美恵のラブストーリーという曲の歌詞にもありますが ”果てしなく続くgirltalk”という奴です。


「J弁護士さんがとてもお気の毒な立場だということは良くわかりますよ」


 しかも、はじめのひと言に無視出来ないワードが含まれています。良く出来た小説の出だしに使われていそうな呼びかけです。

「はっ?何がでしょう? 何のことかちょっと」

 J先生、聴きなおしました。Fail 或いはアウト。

 これで裁判官は、双方の会話が成り立ったと判断するので、Aに対する注意はなくなります。

 しかもJ先生はAに質問をしたのですからAには発言の義務と資格と権利が与えられます。

「そうでしょう。だって私に車をぶっつけておきながら、車から出ても来ないで、怪我人の確認もしないでいつまでもスマホをいじっていたBさんに、お互い怪我が無くてよかったね。これを機会に気をつけましょうねって親切に言ってあげたのに、こんな嘘をでっちあげて、嘘を正当化するために雇われているわけでしょう。それともこんなふうに人を傷つけるやり方が好きなんですか。サドですね」

 流石に裁判官はAの発言を止めにかかります。それこそガベルが有れば、ドンドンと叩くところかもしれませんが、今度は「裁判長。とっても大変な勘違いをされています」と裁判官に向かって話しかけます。

 ここが民事部と刑事部の判事の違いとでも言いますか、基本的にこの法廷で争われている内容については犯罪者はいない。ということが前提になっています。

 ですから、当事者の言うことは一応聞く、ということがこの裁判官の根底にはあったのだと想います。


「私、J弁護士さんに右車線の渋滞が見えなかったのかと聞かれ、私は見えなかったと言いました。そしたら目が悪いからだと言われましたが、そうじゃないんです。車が詰まってたとかそんなものはなかったのです。だからないものは見えなかったといったのに、ここではハイかいいえで答えろというような言い方をされました。そんなこといってるから話が違う方向に進められるんです。裁判長、欺されてますよ」

「だまされているかどうか、それを知るための口頭弁論でもあるわけですから、判断は私の方でします。ではこれでいいですか? 原告は自分の席に戻ってください」


 次はBが証言台に上がり、J先生の質問が始まりました。 

 事故態様については、これまで準備書面に書いてあるとおりのことを、抑揚の無い声で読むように受け答えしていましたが、二カ所、これまで書いていたことと違う答えを言ったところがあり、私は思わずガッツポーズをしてしまいました。

 すぐにメモを作り、W先生に渡します。


 1つ。後方確認について。

 今、『白かシルバーの車が来ているのは見えたが距離があるので大丈夫だと思った』と証言したが、乙第一準備書面では、後方からの車はいなかったと書いてある。

 2つ。ウィンカーについて。

 今、『ハンドルを切る直前か、同時かぐらいに出したので遅かったという認識はあります』と証言したが、乙第2準備書面では、方向指示器を出しながら停止直前までブレーキを踏んでいたと書いてある。


 W先生はウンウンと頷いて僕と顔を見合わせます。

 Bは明らかにJ弁護士との細かい打ち合わせができて無く、共有すべき状況に齟齬をきたしています。


 相手にとって痛恨のミスだ。と僕は想っていました。

 反する内容を述べるのは事実と異なるからだ。信用が出来ない。虚偽の証言である。その他、使える言葉は山ほど有りますので、先ずは今言った矛盾を揺るぎないものに固めましょう。

  

 J弁護士は、そのとき「Bさんは事故の後、職場に事故報告をされていますね。それはどのような内容ですか」という質問をしていました。

「車線を変更したときに接触事故が発生した。飲酒の事実は無く、制限速度を25キロ以上超える重大な違反の事実は無い。という内容でした」

「これはまだ今回のこの裁判の争点がどこにあるか、定まる前に出された報告書ですね」

「そうです」

「車線変更した場所は,先ほど説明された場所のことですね」

「そうです」

「こちらからは以上です」


 次はW先生が質問に立ちます。


「先ほど、方向指示器を出したのはハンドルを切る直前と言われましたが、準備書面には方向指示器を出しながら前の車との距離を詰めていったと書かれているようです。これは?」

「そうですか。多分今言った事の方が正しいと思います」

「では、書面の方は?間違いと言うこと?」

「そうですね。訂正したいと思います」


  えっ! あれ? そんなふうに使うのか。おい。 


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