第32話 反訳書

※ 誤変換ではありません。『はんやくしょ』と読みます。

 主に裁判法廷での遣り取りを録音したテープ起こしをした文書のことを指しますが、希に『ほんやく』と発音される方も見かけました。


 そもそも1年から2年にも及ぶ時間をかけて、準備書面の遣り取りしてきたのは、何が争点になっているかを明確にして、『言った。言わない』の水掛け論を排するためです。


 そして今、争点は、まったく異なる態様を二者が主張しているので、我々の主張が正しく、相手の主張が噓であることを裁判官に示し、我々の勝利に繋げることのはずでした。


 当然この場面では準備書面と証言という、何れも重さを持っている文書と言葉ですから『言っていることが違う』ということを問題点として重要視するべきで、だから、それを主張するBの事故態様は『捏造されたものだ』或いは『間違いだ』または『勘違いしている』とか、『信用出来ない』でもいいから、相手の主張の全否定に繋ぐことができると、僕は考えていたのです。


 後方確認にしても同じ事で、被告の初期の準備書面に『後からくる車は見えなかった』と書かれているのは、Bたちが『A車の速度が高速だったからいきなり現れ、B車を避けることができなかった』と、理論構成をするためだとわかりきっていたので、僕はそれに対して、『Bが後方確認をして後続車がいない事を確認してハンドルを切るまで、凡そ3秒と仮定すると、A車の速度は1秒で200メートル走ったことになり、まったく現実味を欠く』という反論を準備していました。  


「では、白かグレーの後続車がいることを確認したのですね。と書かれていますが」

 なんと! W先生はBにそう訊いたのです。

 Bは即座に、

「多分、バックミラーに映ったのが小さかったので、準備書面の時には車だと思わなかったのだと思います」

 これでBが書いている主張と証言の違いはなんの問題もなくなってしまいました。

『言ってることが違う? アア、ただの勘違いだったから、修正しました。だからその話しはこれでおしまい』ということですね。


 僕はWにメモを渡したことを悔いました。


 僕がWにして欲しかったのは、証言内容の念押しだったのですけどね。

 準備書面のことは持ち出さず、ただ、『方向指示器を出したのはハンドルを切る直前、或いは切ると同時だったのですね』と、念押しして欲しかった。

 

 後方からの車がいなかったと書かれていることは知らさずに、『白かグレーの車がいたのですね』と訊き、『そうです』という確たる言葉が聞きたかったのです。


 そしてこの証言を確たるものとして持ち帰り、次の準備書面で、

『事故直後のまだ生々しい筈の記憶が転々と相反している。自らの主張である、後方確認時車両はいなかったとして、A車がいきなり出現したのはA車が高速であったとしていたのにそれが不利になると一転して変化するのは信用できず、偽証、或いは虚偽の主張である』という定型文を作ることができたはずでした。


 W先生は相手が間違えたときやミスをしたとき、すぐに間違いを指摘してはならないという訓練を修習生のとき受けているはずでした。


 間違いや噓は念押しや同調して、訂正や勘違いだったと取り消しができないように、まず回りを固めてしまうのです。


 その上で前回言った事との相違点から矛盾点を問い詰めて噓を暴くのが基本です。

 そして問い詰めるのは法廷ではありません。法廷では即座に言い訳や間違い、勘違いだったと修正されてしまいますから、言葉を記録に残しさえすれば相手に気づかれないように、さりげなく次の質問に移ります。


 口頭弁論の内容は録音されています。

 弁護士はそのテープを裁判所から借りて、必要な部分の文字起こしをした後、反訳書として証拠に使います。

 本件ではこのときに、被告の準備書面の主張と、証言の内容が違っていることから、Bの事故態様は信憑性に欠ける。偽証及び虚偽の事故態様である。として、一気にたたみかける事が出来たはずでした。


 Bはもう一つ間違いをしています。

 Bは今回のように、言ってることが最初と今で違うと指摘された場合、どちらかを勘違いまたは記憶の間違いだったとして取り消すのが常套なのですが、今回のように、どちらにも真実が含まれてないときには取り消す方向というものがあります。

 Bは書面の方を勘違いだったとして取り消して、証言の方が正しいとしました。


 もし僕が質問するとしたら、

「おかしいですね」と言ったはずです。

「事故直後の記憶が勘違いで、1年近くたった今の記憶の方が正しいのですか? さきほどあなたのJ代理人は、時間が経っているので正確な記憶ではないと、あなたと逆のことを言っていましたが、本当はどちらも勘違いだったのではありませんか。それにあなたの主張する事故態様では、Aさんの車のサイドミラーは後に倒れるところ、実際には前に倒れていましたし、あなたの車は角度がついていたわけだから、車かどうかも分からない遠くの後方をサイドミラーで確認出来たということがおかしいではありませんか……? どこかに勘違いがないでしょうかね」と。


 多くの人は、噓だろうと言われれば防衛本能が働きますが、勘違いは誰にも良くある事だと言われれば、比較的「そう言われればそうだったかも知れない」と言いやすいのです。

 だからW先生の次の失敗は、1回目の失敗をフォローするための、『追い詰めておいて逃げ場を作ってやる』という、それもしなかったことでした。


『勘違い』という比較的柔らかい言葉に逃げ込むための、『してしまいましたね』という、それをしたのは自分ではなく、自分の弱さのせいだ。とする道をつけておく。


 ですが、いずれにしてもW先生は千載一遇のチャンスを自分で潰してしまいました。


 口頭弁論の後、W先生は早速裁判所からテープを借りて文字起こしを始めましたが、裁判官はもう心証を形成してしまっているはずです。


 ですから、相手の主張をこまめに否定する事をしないで、貯めて置いて後半一気に反論するというW弁護士のやりかたでは、心証を形成してしまった裁判官の印象を変えることは難しくなってしまいました。

 今後は余程強いインパクトを持つ何かがないかぎり、この作戦は失敗だったと言わざるを得ません。


 一方、裁判が始まった頃のJ先生の書いた準備書面の内容も、Aに対する攻撃が核になっていましたのでこれも間違いです。

 本来被告側は、この段階では裁判の相手は原告のAではなく、裁判官でなくてはいけません。

 裁判官が白紙の状態であった当初、原告のイメージを落とす事より先に、いかに自分が安全のためにそうせざるを得なかったかという視点で、どうせ物語を造るならそのことを中心に造り訴えるべきでした。

 しかし、訴えるべき真実が無いことが攻撃目標を誤らせたのでしょう。

 彼らの主張は自己弁護とAをディスることばかりに集中し、あげくに法廷でAの痛烈な反撃に遭い目標への到達ができませんでした。


 甲乙ともに反訳書の10号証を経た1月後、裁判所から判決を出すと通知がありました。


                  

 

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