第48話 緋糸だよーゴキブリについての1考察

 朝、台所でゴキブリを見た。

 

 私はゴキブリが嫌いだ。しかも大が付く。


 わかっているのだ。この書き出しがどれ程当たり前すぎてインパクトが無いかという事ぐらい。

 

 もし、『私はゴキブリが大好きだ』という書き出しができる人が居るとするならば、それだけでその人は類い希な幸運を持っていると私には思える。


 だが――何故これほどまでも嫌いになったのか、その原因を、思い出せる限り幼い日まで辿っても、不思議なことに思い当たることがないのだ。

 それどころか、私の知っている幼い私はそれほど虫というものが嫌いではなかった。


 だが――若しかすると、私の知らない幼い私の中にはゴキブリを嫌いになる過去が潜んでいるのかも知れない。

 であれば、私はその過去を探し、原因を知ることができれば、あの忌まわしいゴキブリをそれほどまでも嫌悪しなくても良くなるのではないだろうか。


 ゴキブリと仲良くなるための記憶の旅……。考えただけでも心臓がドキドキする。


 さて――私の知らない幼い私に出会う。


 文法は合っているのに文脈が成り立たない。だから今、この文は横に置く。

 そして他人の過去を訊く事にする。『あなたは何故ゴキブリを嫌いになったのですか?』

 すると、『不潔なところにいるから』『不潔だから』が圧倒的に多い。

 次に『姿が気味が悪い』『家の中にいるから』と続く。

 なるほど。フナムシは大きさが似ているが海辺にいるためか、それほど毛嫌いされていない。

「ではその事を知る以前はどうでしたか?」 そう訊くと殆どの人が嫌いになる前の記憶は無いらしいのだ。『生まれつき』そんなこと、ゴキブリ屋敷でもなければ有る筈がない。

 では私はゴキブリのために弁護を試みてみよう。

『不潔なところにいる』から。それってあなたが不潔な場所をつくっているからいけないのでは? ゴキはただ生きるために食を求めているに過ぎません。

『姿が気味が悪い』

 クワガタやカブトムシと比べてどうですか? 見ようによってはあちらの方が余程グロテスクだと言えますが。


 そのとき私に、幼いときの一つの記憶が浮かんできた。

 母親にこう告げたのだ「おかーさん。なんか虫が居るよ」

 私はコオロギの類いが家の隙間から入ってきたのだと思ったのだ。

 しかし、それを見た母親は防災警報のような大声で絶叫して立ちすくんだ。

 母は、ついに我が家にもゴキブリが姿を現したと父に報告したが、それでも私は、生き物をゴキブリという名だけで殺そうとする母に疑問を持っていたのだ。

 しかし次の日母が買ってきた大量のゴキブリ撲滅グッズを見て、これ程までに危険で嫌われる存在である事が、徐々にインプットされていった。

 そうなのだ。ゴキブリの存在を母に告げたあの日。あれが私とゴキブリの仲を分ける決定的な分岐点だったのだ。

 それはそれでいい。親が子に与える影響はあって然るべきものだ。子はこうやって親から危険なこと、人生の処世術を学ぶ。


 ではゴキブリが死刑を宣告される明確な理由、罪となるものは何か。

 それは母から引き継いでいない。

 若し叔父のヨウが、もの凄く不潔で、悪臭を振り撒いたとしても、それで死刑になることは無い。 であれば、私がゴキブリを嫌うのは単に母の影響であり、感情的、感覚的なものでしかない。 

 ならばゴキブリに死刑に該当する罪は無いのではないか。この家から追い出すだけでいい。そうすれば彼らは人目につかず、隠れて過ごすだろうし、或いは鳥に食べられるかも知れないが、それは自然の摂理というやつだ。

 

そう考えた私はいつになく朝の目覚めが清々しい。


 特に 雨上がりの朝は風が涼しくて気持ちが良い。

 

 歯を磨き、顔を洗ってタオルで拭く。柔らかい、いつもの感触にガサツいた何かが頬をこする。「ガサッ」ガサッてなに?。

 恐る恐る顔から離したタオルを見るとゴキがいた。


 私の絶叫は、母を越えたと思う。絶対死刑だ。

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